23. 補講と消費者契約法―学長宛て書簡 (2001年)



補講と消費者契約法―学長宛て書簡



 この度は、それでなくてもご多忙のなか、貴重なお時間を割いてまでのお手紙ありがとうございました。一読して、一枚の書類を書き直すだけなのだからここは自説を曲げて補講措置を講じた方が良いのでは( 丸く収まるのでは)、と思いましたが、しかしよくよく考えてみましたら、もちろん「たかが一枚の書類の問題」ではないわけです。
 「一度の休講でも必ず補講する」という取り決め(? 実はこれがいつ論議され決議されたのか、寡聞にして知りませんが)の趣旨は何なのでしょうか。それは「綱紀粛正」その他いろいろ考えられますが、つまるところは学長のお手紙から判断して、「学生へのサービス」と思われます。しかしごくごく素朴に現実的に考えますと、今回の場合のように、教師の都合(一度の病欠)で生じた休講を別の日に補講するというのは、学生の側からすればそれこそ迷惑な話です。だれもが学生時代、休講の掲示を楽しみにしていた経験があるはず。「休講だって! 久しぶり、ありがたい!」たいていの学生はそう考えるはずです。教師の都合で生じた休講は、プロとしての教師の力量をもって、残された時間内にきっちり埋め合わせをしてもらいたい、休み前の貴重な時間を補講のために割くなどはもってのほかだ、と。(言うまでもありませんが、私の言っているのは一度の休講のことで、数度に及ぶ休講に対して補講するのは当たり前のことと承知しています)。
 こういう問題が生じたときにいつも引き合いに出されるのは、学生からの投書があった、抗議があった、といったたぐいの傍証です。しかし学長のお手紙にあったケースは、明らかに大学側の判断ミス処置ミスだと思います。つまり件の学生は、担当教師だけでなく大学そのものに日頃から強い不信感を抱いていたとしか思えません。つまりほんらい教育の場にあるべき相互信頼がゼロ状態だったということです。しかし現に一人の学生がそのように抗議している、という事実は事実です。私なら学生にこう対応します。「他の学生たちは残された授業時間内できっちり補完することを望んでいるようですが、しかしあなたが望むなら、何時間でも特別に研究室で教えますから希望を言ってください」と。 教師と学生のあいだで そのくらいの本音の話し合いがあるのが当然と思います。今回のことで実はJの学生たちだけでなく他大学の学生たちにも聞いてみました。誘導尋問をしたわけではありませんが、答えは先のとおりでした。日頃から私は学生に授業や大学やその他なんでも意見があれば遠慮せずに言うように勧めています(もちろん面と向かつて教師批判をする勇気を持っている学生は少ないですが、それでも常にその姿勢をくずさずにきました)。ついでですが、前学長とこんな会話をしたことを思い出します(私が学生部長時代です)。

「佐々木先生は学生の言うことを聞きすぎます」
「いいえ、私は学生の言うことの七十パーセントは自分勝手なわがままだと思ってますよ。ただ三十パーセントは正当な意見だと思うので、それはなんとか真剣に取り上げようと思います。ところで学長、学校は業種でいえば何だと思いますか ?」
「教育でしょ?」
「いや、サービス業です」
「先生、またそんな極端なことを!」

 ですから、学生数の大幅減少と歩調を合わせるように、大学内のいろんなところから「学生を大事にしてください」という声が上がったとき、ああそうか、急に金の卵に見えてきたのか、といささか滑稽に思えると同時に、人間ここまで節操がないものか、と苦々しく思ったものです。
 それはともかく本題に戻ります。先ほど、この取り決めの本意は何だろうと考えて、「綱紀粛正 」もたぶんにあるのでは、と思いました。確かに昔も今も、いわゆる給料泥棒と言われてもいいようないいかげんな教師がいます。しかし綱紀を粛正しようとしていつも間違えるのは、劣悪な部分に焦点を合わせて規則を作ってしまうことです。不良に合わせて規則を作れば、良質の生徒までもが腐ってくる実例は、それこそ腐るほど「荒れた」中学や高校に見られます。セクハラ対策の場合と同じです。純心がセクハラ対策に乗り出したのは大賛成ですが、しかし先日見たいくつかの規則(注意事項?)は、醜悪そのものとしか言いようがありません。良識にまかせるべきことを明文化したからです。自慢すべきことかどうかは分かりませんが、私自身三十余年教師生活をしてきて、学生に対して「変な」気持ちを抱いたことすら、天地神明に誓って(古臭い表現ですが)一度もありません。しかし学生が研究室に来たときはドアを開けておくべし、などということが条文化(?)されるに至っては、もう呆れてものも言えません。時代がそんなふうに進んでいると言えばそれまでですが、しかしそんな状況でもなお教師生活を続けることなど、まっぴらご免です。来春教師生活にピリオドを打つというのは、その意味でも大正解だと思っています。
 学長、自分で言うのも変ですが、私は休講はめったにしない( たぶん一年に一度するかしないか)人間です。補講するのが嫌なわけでもありません。学生の希望があるなら、時間を割くことなど当然のことと心得ています。事実、いま現在でも希望する学生のために研究室で特別に時間を作って教えています。結局今度の問題で私がこだわっているのは、「自由 」かも知れません。昨今、純心だけでなくいたるところで管理体制が強化されています。従来なら教師の自由裁量にゆだねられていたものが、大幅に制限されるようになってきました。この息苦しさは、学長も十分実感なさっているはずです。私などはほとんど生理的と言ってもいい皮膚感覚でその息苦しさを感じています。ところが若い教師たちは、そうした事態になんの問題も不自由さも感じていないようです。大学の未来に希望が持てなくなった最大の理由が、次代を託すべき若い世代の、私の表現を使わせていただければ、「没道徳(アモラル)性」です(もちろんそうでない人が少数ながらいるからこそ、一縷の望みが残っているのですが)。
 ところで学長のお手紙のなかにも「消費者契約法」なるものが言及されていました。しかしはっきり申し上げれば、この言葉が公的な文書(講義内容紹介文の作成依頼に関する文書)に出てきたとき、ああ事態はここまで来たか、と暗澹たる気持ちになりました。それこそ「事務方」の研修会みたいなところで、いわば内輪話として出てくるならまだしも、大学の公的な文書に「四月から消費者契約法が施行されます、したがって授業計画作成にはじゅうぶん注意してください」という文言が明記されているとは。これはみずから教育というものを物品購入のレベルまで貶めたということで、時代が時代なら大物議を醸したことでしょう。ところが今ではだれも、心のどこかでこれはおかしいぞ、と思いつつ口には出さないという時代になったわけでしょう。
 昨今の大学は、理想主義も消えてしまい、幅を利かせているのは、事務屋さんたちです。昔教務を手伝ったことがありますので、教員の横暴さや世間知らずは十分知っており、だからこそ大学の心臓部たる事務局の重要性を認識することでは人後に落ちないつもりですが、しかし大学が少子化のあおりをくらってぐらつきだした昨今は、どこの大学も官僚的事務屋的思考が一気に表面に吹き出てきました。これも時代なんですかね。本当は学生が勉強しやすく、そして教師が教えやすい環境を整備するのが「事務方」の責務だと思いますが、昨今は教師をコントロールしようとばかりしているようです。それで、何が良くなるのでしょうか。結局後に残るのは、相互に対する不信感であり底知れぬ徒労感です。事実、今回のことで(お手紙を授業前に拝読して)学生たちの前に元気な姿で立つために、そして嫌な気分を一掃するために大変なエネルギーを消耗しました。
 思わず長い手紙になってしまいました。この辺で結論を急ぎます。冒頭でも申し上げたとおり、今回のことは私の教師生活、大袈裟に言えば教育哲学にかかわる問題であると認識しています(つまり一回の休講に対してどう処置をするかは、その学科目をまかされた担当教員の判断にま かされるべきものであるとの見解)。ですから私としては、むしろこういう考え方の教師がいる、彼の見解は添付書類のとおりである、と書類で残して、外部審査の対象にしていただいた方がすっきりします。もちろん私は、その私の見解が否定されるようなことがあれば、より広い土俵で堂々と自説を主張させていただきます。
 実はこの休講問題に関して他大学の例も少し調べてみました。たいていの大学は、原則論として補講措置についての言及はありますが、本学のように補講をいわば強制的義務的に課している例はないようです。
 教師生活最後の年にこういう問題にぶつかったのは運が悪いとしか言いようがありませんが、しかし無駄なことだとは思いません。教師をやめてもインターネット(そのうちホームページを開くつもりです)や本を通じて教育問題に本格的に発言していこうと考えていますので、いい機会を与えていただいたと感謝したいくらいです。
 ともあれ、ご多忙ご心労の学長に、私の為に貴重なお時間を割いていただいたという事実は否定できません。その意味ではたいへん申し訳なく思っております。どうぞお許しください。ご健康のこと心配しています。どうぞご無理なさらぬように。


二〇〇一年 六月二十九日

佐々木 孝

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