27. 名著のことば オルテガ『大衆の反逆』(2001年)


名著のことば オルテガ『大衆の反逆』

「歴史的現実とは、生への純粋な希求であり、宇宙的エネルギーにも似たエネルギーである」(三四ページ)

とかく人は歴史の中に王朝の交替や華々しい合戦を見ようとするが、しかしそれらを現実化させたものは、人々の希望や願望、そして時には恐れや憎悪なのである。波(表層の事象)を深部から支える海底、ウナムーノならそれを「内―歴史」と言うであろう。


「世界は、われわれの可能性の総計である」(四三ページ)

現代人の前にはこれまで考えてもみなかったようなとてつもなく大きな可能性が開かれている。またそれらの可能性を実現するための手段や能力も増大した。しかし皮肉なことに、そのあまりに膨大な可能性の中で人間は途方にくれている。


「文明とは、力を最後の理性に還元する試み以外のなにものでもない」(八八ページ)

要するに、文明の高さとはどこまで実力行使を手控えて、話し合いを根気良く続けるかどうか、というところに現れる。これとは反対に、大衆人は堪え性がなくすぐ直接行動に出ようとする。


「大衆的人間は、自分が利用している文明を、自然発生的であると思っている」(一〇八ページ)

文明といい文化といい、すべては変幻極まりない現実をなんとか安定させようとする試みであり、その仕掛けであり、その結実である。ところが大衆人はそれらをあたかも空気や水のように無償の恵みとみなしてしまう。


「あらゆる生は、自分自身であるための戦いであり、努力である」(一二一ページ)

生は絶えざる実体変化である。したがってもしその変化を免れるものがあるとすれば、それは不活性の《物》に属する。つまり「人間的生それ自体は、人間的かつ人格的なものである限り、生まれつつ死ぬものである」(『人と人々』)


「いまは《風潮》の時代であり、《押し流される》時代である」(一二九ぺージ)

大衆化社会のもっとも悪しき面と言えよう。誰も責任をみずからに引き受けることを嫌い、すべてを他人のせいにする。生の重心が絶えず上方にあり不安定極まりない。


「今日、かつてないほど多数の《科学者》がいるのに、教養人がずっと少ない」(一四〇ページ)

真の教養とは「事物と世界の本質に関する確固たる諸理念の体系」(『大学の理念』)、あるいはそれを積極的に求めようとする努力である。しかるに現代の科学者は、己れの専門領域については豊富な知識を有し精緻な思考を駆使するが、それ以外に関してはまったくの無知をさらけ出す。


「リンチ法がアメリカで生まれたのは、まったく偶然とはいえない」(一四四ページ)

犯人に巨額の懸賞金を掛け、しかも生死の別なく(dead or alive)捕まえろという野蛮な掟がまかり通る国、銃保持が基本的な権利として憲法で認められているアメリカとは、ふしぎな国としか言いようがない。


「国家創造の原理は抱擁的であるのに、国家主義は排他的である」(二四五ページ)

あらゆる思想的営為は、その始まりにあっては創造的かつダイナミックなものであるが、ひとたび体制の中に組み込まれてしまうと、とたんに閉鎖的なものに変じてしまう。伝統と伝統主義の違いもここに由来する。そしてこれに続く「ヨーロッパ大陸の諸国民を一丸として…」という言葉の中にすでに今日のヨーロッパ連合の理念が先取りされている。


「まるで嘘のように見えるかも知れないが、青春はゆすりになってしまった」(二五二ページ)

もともと青春(adolescencia)とは「病んでいる(adolescer)」もの、一種の欠乏状態である。だから青年が足りないものを求めるのは当然である。しかしあくまでそれは出世払いあるいは信用貸しとしてであった。しかるに現代の青年はそれが当然の権利であるかのように要求するのだ。



中公クラシックス版『大衆の反逆』しおり、2001年