3. ウナムーノの詩と真実 (1972年)



ウナムーノの詩と真実

  ――その言語観をめぐって――




 多作であることがその作家を偉大とするものでないことはもちろんだが、しかしそれにしても,たとえばエスセリセール版のウナムーノ全集全九巻を前にして、われわれはその厖大な量にまず一驚する。全巻を通せば、ぎっしりつまった活字で、一万二千五百余ページ。それぞれの巻のタイトルを見れば、第一巻「風景論とエッセイ」、第二巻「小説集」、第三巻「新エッセイ集」、第四巻「民族と言語」、第五巻「戯曲集」、第六巻「詩集」、第七巻「霊的エッセイ集」、第八巻「自伝と回想」、第九巻「講演ならびに記事」となっており、その多様性にまたまた圧倒される。いったい何が彼をして、かくまで厖大な量の作品を産み出させるに至ったのか。


夢見つつ死ぬこと、だがしかし
死ぬことが夢見られるものであるなら
死は夢である(1)


 これは一九三六年十二月二十八日、つまり死の三日前に書かれた彼の詩の冒頭の一節である。七十二年という長い一生のあいだに書き残された莫大な量の言葉の堆積。夢なる人生のつれづれに紡ぎ出されたこれら言葉の山は、死にゆくウナムーノの眼にいったい何と映ったか。不滅に生き続けることを切望しつつ生きたウナムーノに、「ひとたび言葉に具現され、このように着飾られて世に出るやいなや、それはもはや他人のもの,いやもつと正確には皆のものであるがゆえに誰のものでもなく」(2)なった言葉の堆積は、おそらくいかにも頼りなく見えたのではなかったか。われわれが驚嘆した莫大な量の言葉も、彼にはまだまだ足りなく思えたことであろう。彼はエッセイ、小説、詩、戯曲と、さまざまなジャンルを駆使して、その内心の真実を吐露せんと苦闘したが,もしもそれら以外にさらに効果的な手段があるなら、いやあったなら、喜んで従来の手法を放棄したであろう。ウナムーノにとって、人間の真実の声を放たねばならぬという必然性の前には、ジャンル別などあっても無きに等しかった。「わたしは苦痛を感じたときには大声で叫んできたし、それも公然と叫んできた。わたしの『詩集』に収めた詩篇は、わたしの心の叫びに他ならず、わたしはそうした叫びで、他の人たちの苦悩に満ちた心の琴線をどうにかしてふるわせようとしてきたのである」(3)
 彼は詩人だったのであろうか、思想家だったのであろうか、それとも小説家だったのであろうか。彼はそのいずれでもあり、そのいずれでもなかった。ウォルト・ホイットマンは、自分の詩集を前にして、「これは本ではなく、一個の人間である」と言ったそうだが、ウナムーノの作品を読んでわれわれが出会うのも、ウナムーノの作品ではなく、作品としてのウナムーノ、ウナムーノ自身である。作品集の序論の末尾に、ただ「私」(ジョ)とだけ署名した黄金世紀の偉大なる奇人ケべードの系譜に正当に連なるこのウナムーノも、作品のいたるところにその個性的な面貌を現わす。「私は読者に観念を与えるのでもなければ認識をもたらすのでもない。私が与えるのは魂の断片である」(4)


そうだ孤独なる読者よ、そのように
一人の死者の声に心向けるならば
これら私の言葉は君のものとなろう
おそらくそれらは
別の口を借りて
土となった私の上に鳴り響くだろう
その源である私がそれを聞くこともなく(5)


 もしも彼が、言葉以外に己れを表わす手段を持っていたならば、言葉を使わずとも自己の内心の叫びを表現することができたならば、果たして披が作品を残したかどうかは疑問である。しかし無益な想像はつつしもう。彼は言葉による以外に自己を表現するすべを持たなかった。そればかりか、一生その魔力から抜け出せないまでに、言葉の神秘にとらえられたのである。一九〇八年に発表された自伝『幼少年期の思い出』(Recuerdos de mi niñez y mocedad)の中に、その意味できわめて暗示的な一節がある。それは彼が六歳のとき(ということは父の死の直前ということだが)一家のいわば聖域ともいうべき広間にもぐりこみ、一人のフランス人と応対している父の言葉を聞いたときの思い出である。彼にとって、自分たちと違う言葉で意志の疎通が可能であるということが、言葉の神秘を啓示する衝撃的な体験だったのである(6)
 事実、われわれがウナムーノの作品を読んで,まず率直に感じる印象は、言葉に対する異常といえるまでの執着である。単なる言葉遊びと思えるような唐突な類語・語源の指摘、濫発する新造語に関してである。言棄に対するそうした執着は、同国人にとっても異様に感じられるらしく、オルテガなどは、それを、彼がバスク人であったこと、スペイン語(カスティーリャ語)が、ウナムーノにとってあくまで学習された言葉であったことに帰している(7)。確かにそれは否定できない事実かも知れない。しかしそれはあくまできっかけであって、それがすべてを説明するものではない。



言葉と真理


 先ず指摘しておかなければならないのは,前述の『幼少期の思い出』中の文章にあった言葉の神秘(あるいは秘儀)という表現からも明らかのように、言棄に対する彼の考え方には、彼の宗教観が色濃く反映されているということである。彼の言う言葉(palabra)は大文字の言葉、すなわちみことば(la Palabra Divina)、創造主なるみことば(la Palabra Creadora)との関連のもとに考えられている。つまり言葉は、みことばに参与することによって、その創造の力を汲みとるものなのである。
 「私はしばしば、シュイクスピア [ハムレット] の “言葉、言葉、言葉” という文句や、われわれに必要なのは言葉ではなく行為であるという文句を聞く。これを言うのが世にキリスト者と言われている者たちなのだ。つまり第四福音書によれば、“はじめにみことばがあった。みことばは神とともにあった。みことばは神であった。万物はみことばによってつくられた。つくられたもののうち一つとしてみことばによらずにつくられたものはない。みことばに生命があり、生命は人の光であった”(ヨハネ第一章1-5)ということを知っているはずのキリスト者たちがそう言うのである」(8)
 ウナムーノにとって、言葉は何よりもまず創り出すもの、創造的なものであった。キリストが病者を癒したのも、罪人をゆるしたのも言棄に、言葉の秘跡によってであった。もし言葉が真実の言葉であるならば、みことばに参与する言葉であるならば、実は言葉を発することこそ最高の行為、もっとも創造的な行為なのである。しかし人間の発するすべての言葉が真理でもなければ、真理を述べ伝えるものでもない。なぜなら、肉体となったみことばは、その受難、その苦悶の後に、文字に、大文字のTにつけられて死んだからである(9)。ここに人を真に殺すところの虚偽がしのびこんだ。生きた音声を伴った、具体的かつ個別的言葉、たとえば初めてパンを乞う子供の発する「パン」という言葉は、概念化され文字となるとき、そうした個的性格は捨て去られて、共通内容を抽象して得られる一般表象のみが残される。言葉は生かすものだが、字は殺すものである。しかし言葉は概念なしで存在することはできない。普遍が個なしで普遍たりえないのと同様、個も普遍なしで個たりえないのである。ここから言葉の苦悶的(agónico)論争的(polémico)性格が生じる。あるいは言葉のダイナミズムが始まる。なぜなら言葉が死を内包する概念(あるいはその表象たる文字)に支えられて存在するものである以上、それは絶えず生き続けなければならないからである。つまり言葉は真理そのものでもなければ、一度かぎり永遠に真理を表現するものでもなく、刻一刻、真理をつくりあげて行かねばならないからである。
 しからば、ウナムーノにとって真理とは何か。ウナムーノの思想の最初の定式化ともいうべき『ドン・キホーテとサンチョの生涯』(Vida de Don Quijote y Sancho)の出版されたのは一九〇五年であるが、この年をはさむ数年は、彼の思想が実にさまざまな形で開花した時期でもある。一九〇六年に雑誌『近代スペイン』に発表された「真理とは何か?」は、その意味で彼の真理観がきわめて直截に語られた好エッセイである。
 その中でウナムーノは,真理とは全身全霊をもって信じられたもの、という大胆な意見を披瀝している。つまり彼にとって、俗流スコラ哲学の言う形而上的真理、すなわち「事物がその本質によって、神の悟性(entendimiento)のうちに永遠からすでに存在するところの、事物それ自体についての典型的理念に呼応するかぎりの、その事物の客観的実在性」も、また論理的真理、すなわち「認識主体と認識客体とのあいだの合致」も共にしりぞけ、ただ道徳的真理のみを肯定する。つまり「外的言語と主体の内的判断との合致」のみを肯定するのである。これによれば、人間の発する言葉が、その人間の内的判断、内的真実に合致するかぎりそれは真理となる。内的判断を主観的判断と言い換えることもできよう。したがってウナムーノにとり、虚偽と誤謬は峻別されなければならない。つまり論理的真理に対立するものが誤謬であり、道徳的真理に対立するものが虚偽なのだ。人を殺すものは虚偽であって誤謬ではない。全身全霊をもって信じられたものは、論理的には誤謬であっても道徳的には真理たりうる。真理は信仰がつくりだすものなのだ。このようなウナムーノの考え方を、主観論であるとか、信仰を想像カと混同していると非難することは容易であろう。そうした非難をつきつける人に対して、彼はおおむね次のような反論を試みる。すなわちあなた方は、主観的信仰をしりそげ客観的信仰を擁立することによって、実は信仰というものを三段論法の中に窒息させているのだ。あなた方がつねに攻撃しているところの合理主義に自ら陥っているのだ。宗教を哲学にしようとしている。客観的真理、客観的信仰をふりまわすことによって、その信仰と己れ自身との切実な繋がりが断ち切られてしまっている。つまり自分自身を偽っている。それこそ虚偽ではないか(11)
 われわれは彼のそうした真理観を、『ドン・キホーテ』に関する彼一流の注釈のうちにいくつもひろいだすことができる。たとえばあの「マンブリーノの兜」にまつわるエピソードへの注釈である。ドン・キホーテは、一人の床屋が陽の光に反射させながら頭の上にかぶっていたただの金だらいを、かの有名なマンブリーノの兜だと信じた。常識的な眼からすれば、金だらいはあくまで金だらいにすぎない。
 しかしドン・キホーテは断固としてそれをマンブリーノの兜であると主張する。ウナムーノはこう注釈する。「まったくその通りだ、わが主ドン・キホーテよ、その通りなのだ。大声で、それも皆の見ている前で主張したり、おのが生命をかけて自分の主張を守り通すという不敵な勇気というものは、そのようなものであり、それがあらゆる真理を創り出すのである。物事というものは、信じられれば信じられるほど、それだけより真実のものとなるのであり、そして物事に真実性を与えるのは、知性ではなく意志なのである(12)」。
 また、あのあまりにも有名な風車の冒険に関しても同様の注釈をほどこす。ドン・キホーテはクリプターナの平原に佇立する三、四十の風車を「とほうもない巨人ども」と見たててしまう。前述の論理的観点からすれば、それらは確かに風車以外の何物でもない。しかし「思慮分別と善意が充分熟してはじめて狂気が開花した」(13)ドン・キホーテにとって、それらはまちがいようもなく邪悪な巨人どもなのだ。われわれは風車を前にして、あれは巨人ではなく風車であると言う。しかし巨人ではないと言い切るためには、その巨人なるものが、ある意味で風車と同じ実在性を持っていなければならない。そうでなければ巨人ではないと言い切れるものではない。肉眼に見えるものだけを、あるいは見せかけだけを真実と見なすことは、もしかして、それこそとほうもない錯覚なのではなかろうか。事物は必らず二つの側面を持っている。すなわも、”意味”と”物質性”である。ドン・キホーテにとって、それら風車は意味として巨大なもの、巨人であった。それを幻想というのか。ももろん幻想である。しかしそれなら人間の世界、真実の世界、つまりただ見かけだけでなく、物質界も精神界もすべてひっくるめての全き世界は、ただあるがままのものによってのみ構成されているとでも言うのであろうか。「人は自分で信じていると思っている現実よりも、むしろ自分では信じていないと思いこんでいる幻想をより多く糧として生きているのではなかろうか」(15)。人類の歴史をつき動かしてきたのは、実はすべて幻想ではなかったのか。人間の尊厳、正義、自由、平等、そして愛さえも。風車の中にただ風車しか認めまいとする態度は、人間からあらゆる幻想を、夢をもぎとり、そうすることによって人間を不活性の物質性の中に閉じこめてしまう。
 しかし風車の中に巨人を見ようとする人たちは、“物質性” と “意味”、“現実” と “幻想”(あるいは “夢” あるいは “虚構”)との絶えざる緊張とダイナミズムのうちに生きなければならない。ドン・キホーテの肉眼にとって、風車はありきたりの風車のたたずまいを見せていたに違いない。だが「五官を通じてわれわれの中に入ってくる小麦を、霊的パン粉を、その翼で挽きかつ作りあげる風車……を頭の中に持っている者だけが、他の見せかけの風車、風車の姿を借りている無類の巨人に立ち向かってゆくことができるのである」。「それらは現代ではもはや風車としてではなく、機関車、発電機、タービン、汽船、有線もしくは無線電信機、機関銃や卵巣切除器具として現われるが、くわだてているのは同じ害である。つまりサンチョ・パンサ的な恐怖心のみが蒸気や電気に対する礼拝や崇拝をわれわれに教えこむのだ。つまり恐れ、サンチョ・パンサ的な恐怖心だけが、機械や化学という無頼の巨人の前にわれわれをひざまずかせ、それらに対してあわれみを乞わせるのである。そして最後に人類は、疲労と倦怠に憔悴したその精神を、不老長寿の霊薬を作る巨大な製造工場の足もとに投げ出すであろう。しかし風車に挽かれたドン・キホーテは生き続けるであろう。なぜならば、彼は救いを自らのうちに求め、そして敢然と風車に立ち向かったからである」(16)。これは現代に対する、高度産業社会に対するドン・キホーテの、そしてウナムーノの不敵な挑戦の言棄でなくて何であろう。幻想や夢や信仰(信仰は、神の夢なる人間が夢見る最高の夢である)を切りつめ排除してきた近代人、現代人は、科学万能主義という巨大な風車の前に卑屈にひざまずいているのではなかろうか。



言葉と詩


 さて少しばかり風車にこだわったようだ。本題にもどろう。ウナムーノにとって、言葉が創造的なもの、その意味で真理を述べるもの、というより真理をつくりだすものであることは見てきた通りだが、その彼にとって創造(ποιηοια)的言棄はすなわち言葉本来の意味において詩(ποιηοια)であり、創造者はすなわち詩人(ποιηοια)である。
 近代派の詩人ルベン・ダリーオ(1867-1916)は、「詩人ウナムーノ」という文章の中で、「ミゲル・デ・ウナムーノは何よりもまず詩人、おそらく詩人以外の何者でもないであろう」(17)と言った。ウナムーノが詩集を出版したのは一九〇七年、すなわち彼が四十三歳のときの『詩集』(Poesías)が最初であり(18)、いわゆる詩人としては遅咲きであろう。しかし彼はそのとき以来、『叙情的ソネットのロザリオ』(Rosario de sonetos líricos)(一九一二)、『べラスケスのキリスト』(El Cristo de Velazquez)(一九二〇)、『内部の調べ』(Rimas de dentro)(一九二〇)、『テレーサ』(Teresa)(一九二四)、『フエルテべントゥーラからパリへ』(De Fuerteventura Paris)(一九二五)、『亡命詩集』(Romanceros del destierro)(一九二七)と次々と詩作を発表していった。生前その一部が発表されただけの『歌集』(Cancionero)は、死の直前まで書き続けられたものであり、一千七百五十五の歌が含まれている。詩人としても決して少なくない数の作品を残した。しかしルべン・ダリーオが言う「詩人」は、こうした明らかに詩の形を成す作品を書いているという意味での評語ではなかった。いやそれら詩にしても、伝統的な詩形を大きくはみ出すまったく独自な “詩” であった。ルベン・ダリーオも、彼がウナムーノを詩人であると評したときの聞き手たちの当惑した顔つきを語っている。しかし詩というものを、その言葉本来の意味に使うなら、ウナムーノは正真正銘の詩人であった。「わたしの詩の中に林野の神、木々の神、森の神、すいれん、“にがよもぎ”、浅緑の眼やその他どちらかといえばモダニズム流の俗っぽい装飾がないという理由から、そこに推理とか論理、あるいは方法とか注解とかを見出そうとする人があれば、それはわたしの知ったことではない。わたしはヴァイオリンの弓や琴槌でそうした人の心をかきならすつもりはないからである」(19)
 確かに彼の詩には、たとえば一世代あとの、しかし詩人としては同世代のフワン・ラモン・ヒメネスのような豊かな音楽性が欠けている。しかし外面的音楽性には欠けるが、彼ほど内部の調べ(rimas de dentro)に忠実な詩人はいなかった。いかなる粉飾もほどこされない赤裸な魂の声を大切にした。彫刻家が、掘り出された石塊から夾雑物を取り除きつつ、そこに埋められている姿(フォルマ)を取り出すように、ウナムーノも空疎な装飾語を切り捨てつつ赤裸な言葉を、魂の裸形を追い求めた。彼が荒涼としたカスティーリャの荒地を愛したのも、むき出しの(desnudo)の魂の風景を大切にしたからである。エスセリセール版全集の第七巻の巻頭写真は、カスティーリャ高原に立つウナムーノの姿を写しているが(これは法政大学出版局の「ウナムーノ著作集」第一巻に再録されている)、それを見ていると、まったく唐突だが、岩手県太田村の山道を歩いているわが高村光太郎の姿を連想してしまう。
 この音楽性の排除、そして彫刻的造形については、『詩集』に収められている「詩的信条」(Credo poetico)という詩の中で、ウナムーノ自身はっきりとうたっている。


感情は考え、思考は感じる
汝の歌は地上に巣を持たねばならぬ
そしてそれらが天に舞い上がるとき
翼の彼方に消えてしまってはならぬ

汝の歌はその翼に重さを必要とする
雲の柱は跡形もなく消えてしまう
音楽でない何か、それが詩なのだ
考えられた詩のみが残る

考えられたものは感じられたもの
純粋感情? それを信じる者は
感情の源泉に、生きた深い
水脈に達することはけっしてできない

衣裳を気にし過ぎてはいけない
汝の仕事は彫刻家であって仕立屋ではない
観念は赤裸であるとき以上に
美しいときはないことを忘れるな

魂を肉体のうちに具現する者
観念に形式を与える者、それが詩人なのではない
肉体の背後に魂を見いだす者
形式の背後に観念を見いだす者、それが詩人だ

われらに対して真理を隠さんとするもの
定式という潅木で隠すもの、それが愚かな科学
汝の手で真理を裸にするとき
汝の眼はその美を享受するであろう

われらを茫漠とした雲の中に包みこまんとするときにも
裸形の線を求めよ
雲といえども線を有し、自らを刻みこむ
それゆえ心して線を見失うな

汝の歌が刻みこまれた歌であらんことを
高められると同時に大地に錨をおろさんことを
言語は何よりもまず思想であり
その美は考えられたものである

はかない形式の内部を
霊の真実に従属させよう
観念がすべてにおいていと高く君臨せんことを
それゆえわれら雲を刻みこまん


 ウナムーノが彼の詩から音楽性を排除せんとしたのは,大久保哲郎氏が適確に指摘しているように(21)、「音楽は一面、人間の魂の微妙な感情の起伏に呼応するものであるが、他面、しばしば人間の悲劇的感情を偽って、抽象的な諧調のなかにその苦悩を揚棄することがある」からである。



詩と哲学


 しからば詩人ウナムーノは、自己の抱く思想を、信念を、詩の中に盛りこむいわゆる思想詩人であったのだろうか。確かにウナムーノの詩は、快よい響きを持つ詩語もちりばめられていないし,詩のリズムそのものによって読者を酔わせることも少ない。しかし前述の彼のクレドからも明らかのように、「観念に形式を与える者が詩人なのではない」のだ。むしろ詩人は「肉体の背後に魂を見いだす者、形式の背後に観念を見いだす者」である。彼はあくまで、言棄そのもののいわば創世の瞬間に立ち合わんとする。「たとえば “パン” という言葉を完全な意味で知っているのは、初めてそれを口に出してパンを乞う子供である、そしていちばんそれを知らないのはパン屋である」(22)
 つまりウナムーノは、散文で表現できることを韻文で表現するという意味での思想詩人ではないのだ。彼は詩を通してしか語れないことを詩を通して表現するのである。「自然科学者は木を理解する、哲学者は木を考える、詩人は木を夢見る―― 哲学者的詩人、詩人的哲学者はそれを夢見つつ考える、あるいはそれと同じことだが、それを考えつつ夢見る――、そしてたきぎ取りは、木を理解することも、考えることも,夢見ることもせず、ただそれを切り、それを利用するのである」(23)
 ここに述べられていることは意味深長である。なぜならウナムーノにとって、詩と哲学は双生の姉妹だからである。いやもっと正確に言うなら、哲学者は詩人と重なるその部分においてのみ真に創造的哲学者なのだ。「詩人は人格化された世界、すっかり人間となった世界、世界となった言葉をまるごとわれわれに与えてくれる者である。しかし哲学者は、詩人的要素を持っているという限りにおいて、こういったものを与えてくれる……哲学者は、コロンブスの仲間たちが新世界を遠くに見て、胸の奥底から、“陸だ!” と叫んだときのその言葉にこめた実体を与えることができぬ。私が自分の霊を霊の腕で抱きしめる時に静寂のうちに感じるもの、言棄て表現できる以上のもの、言棄で表わすとすると、“私の魂よ!”といった叫びに漠然としか訳すことのできないもの、これを哲学者は表現できない。……なぜならこれは絶叫的な祈りであり、論理的な命題ではないからである。私の霊の炸烈であり、私の知性の表現ではないからである」(24)
 ウナムーノにとって哲学者とは、人間の言語能力の可能性を最大限高めることのできる者、ちょうどプラトンがギリシア語に対して為したように、自分たちの言語が有する何千年にもわたる隠喩をその極限にまで展開させる者であった。ここで思い起こさなければならないのは、彼が職業としたのは大学教授であり、それもギリシア語、カスティーリャ語史の教授であったということである。しかし彼は言葉をいろいろ集めてその意味を詮索し、その構造や相互関係を調べあげる学者ではなかった。
 一八八四年の彼の博士論文『バスク族の起源ならびに先史に関する問題の批判』においてもそうだが、一八九五年の『生粋主義をめぐって』においてより鮮明にされているのは、言語というものを「民族の経験の容器でありその思想の沈殿物である」とする考え方である。「各民族は、その言語に世界と生についての抽象的概念を定着させて行き、また各言語に与える外延と内包の中にその哲学が含蓄されていく」(26)
 詩人哲学者ウナムーノは、民族の隠れた内面に、底部に、彼の言う内歴史(intra-historia)、永遠の伝統に沈潜し、そこから霊感を受けようとする。ウナムーノはきわめて独創的、つまり風変わりな作家として知られている。しかし彼の作品を虚心に読んでいけば、彼がおのが民族の伝統にいかに深く根を下ろした典型的なスペイン人であるかに気づかされる。それは彼が、いわゆる階級としての人民というより、歴史の騒音の下に沈黙しつつ生まれ、生き、そして死んでいく無名の庶民とつねに深い交流を保っていたからである。『歌集』の序論において彼は、自分はすべての人々が、いや少くとも選ばれた大衆がうまく表現できずに感じていることを、もっとも平易な方法で表現しようとしてきたと述べ、言葉そのものが、民衆の言葉が主要な霊感源であったと告白している。また、人は言葉をもって考えるが、もっと正確に言うなら、われわれのうちにあって考えるのが言葉それ自体であるとも言っている。
 「作者が言わんとしていること、あるいは言いたいと思いこんでいることだけをわれわれに伝える文章は、実はわれわれに何も語ってくれない。それらは死した文章である。……しかし私は、私の内部で、私を作りあげた人々、雲の下を歩んだわれわれの先祖たち(コリント前書、十の一)の言葉が語られるのを欲する」(27)
 われわれがウナムーノの作品を読んで感じるあの不思議な奥行き、逆説的な言葉の展開は、彼が実にこの言葉の神秘に深く参与し、それを熱情的に生きていることの何よりの証左である。

(一九七二・九・一五)


(1) Obras Completas de Unamuno, vol. VI, Escelicer, S. A., Madrid, 1969, p.1424.
(2) 法政大学出版局「ウナムーノ著作集」(一九七二)第一巻所収の「知性と霊性」、201ページ。
(3) 『キリスト教の苦悶』(法政大学出版局、一九七〇)所収の「私の宗教」、10-11ページ。
(4) O. C. de Unamuno, vol. III, p.393.
(5) O. C. de Unamuno, vol. VI, p.173.
(6) O. C. de Unamuno, vol. VIII, p.4.
(7) Obras Completas de Ortega y Gasset, vol. V, Revista de Occidente, Madrid, 1964 (6 ed.), p.266.
(8) O. C. de Unamuno, vol. III, p.857.
(9)『キリスト教の苦悶』、五三ページ。O. C. de Unamuno, vol. VI, p.946.
(10) O. C. de Unamuno, vol. III, pp.854-864.
(11) ウナムーノと神の問題はここで取りあげるにはあまりに大きすぎる問題であるので他日を期したい。
(12) 法政大学出版局『ウナムーノ著作集』(一九七二)第二巻『ドン・キホーテとサンチョの生涯』、一五三べージ。
(13) 前掲書、三十ぺージ。
(14) こうした表現を使っているのは、実はウナムーノではなくオルテガである。同じ風車の問題奴を扱うにも、両者にはかなりの違いがあるが、また類似点も少なくない。オルテガ『ドン・キホーテに関する思索』、現代思潮社、一二一–一二二ページ参照。
(15) O. C. de Unamuno, vol. VI, p.853.
(16)『ドン・キホーテとサンチョの生涯』六三ページ。
(17) O. C. de Unamuno, vol.VI, p.553.
(18) もっとも、全集には一八九四年作のものが一篇含まれているが、まとめて書き始められたのは一八九九年ごろからである。
(19) 『キリスト教の苦悶』、 一一ページ。
(20) O. C. de Unamuno, vol. VI, p.946.
(21) 大久保哲郎「ウナムーノの詩の世界」、『オルフェ』第二十号(一九七〇年五月)、二八ページ。
(22) O. C. de Unamuno, vol. VI, p.946.
(23) Ibid., p.941.
(24) 法政大学出版局『ウナムーノ著作集』第一巻所収の「充実中の充実」、二四八–二四九ページ。
(25) 前掲書、三八ページ。
(26) 前掲書、二四八ページ。
(27) O. C. de Unamuno, vol. VI, p.232.

「清泉女子大学紀要」 、第二十号、 一九七二年