3. 乙吉の受難 (未完、執筆時特定できず)



乙吉の受難


 前夜、裏山で崖くずれがあって、近隣のものが朝から交代で復旧作業に駆りだされていた。三日前の夕刻から降り出した雨は、執拗な意思を持つもののごとく、間断なく降り続いていた。裏山の妙見様へ登ってゆく山道が、前から地盤が弛んでおり、その雨のために一部がくずれてしまったらしい。一郎が朝方、当住の豊治について行って見てきた話によると、崖くずれの現場は、乙吉たちがいつもチャンバラごっこをする石段のすぐ近くということだった。

 しとしとと降っていた雨は、午後になるとみぞれに変った。当住と隠居の前の庭はコンクリートで固められているので、白い筋を引いて落ちてくるみぞれは、すぐ溶けてしまう。外便所の側のざくろの木の枝が、真鍮でできた枝のように、夕方の薄い光の中で鈍い光を放っていた。
 乙吉は、母が使ったスコップを、排水のため他よりは一段と低く溝のようになっているところで、先ほどからつけたりあげたりしている。こびりついた泥は、それだけではなかなか落ちなかった。下駄でこすったら、そこだけ白い地が見えるが、水につけるとまた、周りの泥がかぶさった。
 乙吉は、ときどき、さりげない風を装って、斜め向かいに見える一郎の家の方を見た。当住と隠居は直角に繋がっており、一郎の家族はその当住のはずれに住んでいた。玄関からすぐ茶の間になっており、色あせたこたつぶとんが見え、英子の赤いセーターが見えた。一郎の姿は、乙吉の場所からは見えなかった。
 一時ころ、英子は、夏あんちゃと一緒に下から上ってきたのだ。夏あんちゃはこれから順番で現場に行くところであった。英子だけが一郎の家に残った。
 乙吉は、スコップを雨戸のところにたてかけたまま、まだ部屋の中に入ることができず、いじいじと縁側に腰かけていた。自分が影うすいものに見えた。寒さが悪寒のようにゾクゾクと這い上がってきた。
 「乙ちゃんは、なんだべえ相馬弁のうめぇこと、ここらへんのわらしとちっとも変わんねした」

 乙吉の一家が、北梅道から移ってきた当初は、乙吉の如才なさは、遠い親戚に当たる伯父伯母たちには好評だった。菊あんちゃにそう言われたとき、乙吉は照れたが、満更な気もしないではなかった。そして努めて土地っ子の口調を真似た。そこに計算が働いていなかったとは言えない。自分がいかにもこの土地に満足していることを、ここの人たちに知ってもらいたいと思っていたに違いない。その点、兄の敬一や幸子は不器用だった。
 しかしそのような乙吉の詐術も、だんだんと神通力を失ってきたようなのだ。それがいつから、とは分からないが、乙吉には今まで自分の周囲に垂れ込めてめていたヴェイルが、少しも特別な力を発揮しなくなっていることに気づきはじめた。健気にも土地言葉に同化しようとしている、という乙吉の姿勢が、好意の風をひとつも誘いださなくなったのだ。乙吉自身の姿勢には以前と比べてなんの変化もないのだが、受け取る側がそれに馴れてしまったらしい。すると、乙吉の同化への意思は、可愛気があるどころか、少し嫌味なものに変っていった。こういう場合、大人たちより子供たちの方が敏感である。嫌味を本能的に感じるらしい。なんだあいつ、つまりは他所者ではないか。  
 ある日、乙吉は一郎や裏山の治吉たち四、五人と当住の裏で遊んでいた。一郎の一家が住んでいる一角は石垣がすぐ側まで迫っているが、その間を通り抜けると、裏手に物置きがある。ふだんは農機具やむしろなどが雑然と置かれているところだが、収穫の後には、米の入った俵などが山と積まれた。子供たちには、願ってもない遊び場となる。そこが楽園のように思えたのには、大人に見つかるとさっそく追い払われるという番外のスリルが加わっていたからだ。乙吉たちは、わけもなく込みあげてくる笑いを、腹をよじって、歯をくいしばって堪えた。
 「笑うな」、この「な」に力がこもるのだが、そう言い合いながらも、湧き上ってくる笑いの圧力は、容易に爆発へと結びつく。頭を俵の中に突っ込んで、両手で腹を押えつけながら、笑いを噛み殺さなければならない。するとそれは他の子供にも感染して、みんな同じように俵の間に頭を突っ込む。別に面白いことをやったわけではない。ただこの物置きに入っただけで、おこりのように腹の皮がキユッと痛くなるほどおかしくなってしまうのだ。

 物置きの中では、空いたところでとっくみあったり、俵の山に登って、そこから頭を下にずり落ちたりして遊んだ。藁屑が汗ばんだ首筋や二の腕にチクチクし、喉が変にいがらっぽくなった。
 その日の遊びも、自然と相撲に落着いた。土俵の大きさを決めないで、どちらか相手を倒した方が勝である。はじめ、乙吉は一郎とぶつかった。痩せた一郎の体は羽のように軽いが、倒れそうでしぶとく乙吉にからみついてくる。とうとう乙吉は最後の手段に出た。右腕を一郎の首に巻いて、左手をバンドにかけ、体を右に引きながら一郎の体を振り回し、ねじるように地面に転がした。
 次の相手は治吉だった。いざ取組む段になって、乙吉は治吉と今まで一度も勝負したことがないのに気づいた。毎日のように遊んでいるのに、互いに相手を牽制し合っていたのだ。だが今日は事態が違っている。乙吉が一郎と組合っている間、治吉はしつこく「ほら一郎、足を掛けろ、でんぐせ」を繰り返していたのだ。明らかに乙吉を敵に見立てた口振りだ。乙吉は本能的に、自分を土地者に囲まれて孤立した他所者として意識した。
 治吉の目は茶色がかっている。そしてそれが光の具合で猫の目のように変化した。虹彩の部分が矢車のようにクルクルと回る。茶色の目は、きかない人の特徴だ、ということをずっと以前に乙吉は母から聞いたことがあるが、初対面のときから乙吉は治吉の中に、ある堅さを見た。注意しなければならない。自分の腰くだけの姿勢では、いつか手痛いしっぺ返しをされるに違いない。そして今日、治吉の目の中に、自分にはっきり向いた敵意を露に感じるのだ。
 乙吉は相手の頂から立ち昇ってくる汗の臭いの中に、他所者を頑として拒否する、土俗の強靱な意思を感じた。水の中に顔をつけて、いま少しいま少しと我慢するときに持つ、あの漠とした恐怖にいま捕えられたのだ。こういうときに踏み堪えなければ自分は失格するのだ、という思いが痛いほど胸をしめつけてくる。

 一郎のときに使った手を二度三度試みたが、そのたびに治吉のてこでも動かない腰の重さにはね返された。ドキドキと激しく動悸がして、 鼻から頭にかけて熱い血のようなものが禍巻いた。もう駄目だ、と思ったとたん、それを待っていたかのように、治吉が右足を乙吉の右にかけて、大外刈りのようにして乙吉の体をねじった。乙吉は倒れまいと治吉にあくまでしがみついたので、乙吉を下に二人の体はもんどりうって地面に倒れた。 
 肩と腰を、治吉の重さも加わって、地面にいやというほど打付けた。治吉は上になったまま乙吉を押えこむようにした。乙吉は、事態が今や遊びではなく、喧嘩に変ったことを、しまったと頭のどこかで考えた。こういう風にならない前にどこかで冗談を装えばよかった。だが、肉体の方がどんどん硬直していって、それに気持ちがついていった感じだ。
 あっという間に、治吉は乙吉の腹の上に馬乗りになり、両手で乙吉の腕を十字形に押さえつけた。体をねじって起きあがろうとしたが、駄目だ。悔しさで胸がつぶれるのではないか、と思った。急に涙がこみあげてきて、目の前がかすんだ。治吉の勝ち誇った顔が縦に伸びたり横に広がったりする。
 「畜生!畜生!」と叫んだが、治吉はなおも腕に力を入れながら、
 「お前なんか帰ってしまえ、北海道に帰ってしまえ」と毒づいた。
 畜生、とうとう言いやがった。
 「ここはお前の土地か、だれが住んだっていいじゃないか」と、乙吉は涙声で叫んだ。だが、治吉はそれに取り合わず、「帰れ、帰れ」を繰り返した。   

 あんな屈辱的な事件があったから周囲がすべて自分に白い目を向けはじめたのではないか、と乙吉は思う。まさか大人たちにもあの事が知れたとは思えなかったが、なんとなく自分を見る彼らの目付きが、以前ほど好意的ではないようなのだ。又従兄弟に当たる一郎も、いままでのような遠慮深さが消えて、自分を押し出してくるようになった。
 
 乙吉は一時的に隠居に間借りしている自分たちが、急に影薄い存在に見え出した。根を張ろうにも、その足場がない、という感じがした。それに母が近頃、慣れないかまどいじりで目が赤くただれてきたことも気になる。母がメッチャになったことは、外に向かう自分の力を、内部から切り崩されるように思えるのだ。どうしてこんなときにメッチャになどなったんだろう。外に対して言い訳が立たないのに。だが、どんな言い訳をしようというのか。

 赤い鼻緒の下駄の上を、赤い足袋をはいた足がまさぐって、英子が出てきた。隠れようにも今さら逃げ場を失って、乙吉はじっと縁側に腰かけたままでいた。英子はチラっとこちらを見たが、はねが上がらないように足もとを注意するふりをして、無言で過ぎていった。思わず、乙吉は顔が火照ってくるのを感じる。こちらの気持ちが見透かされたか、とひるんだ。なにもしないで縁側に腰かけていた自分を、彼女はなんと思っただろう。番傘の下で赤い綿入れが茶色っぽく見え、その下の黒いモンペが、はずみをつける風に動いている。角の馬小屋の所で振りむくな、と思っていたら、やはり小首をかしげる具合に乙吉の方を見た。その瞬間を恐れていたのに、どうすることもできない力が、乙吉の目をそこに釘づけにしていた。二重に恥が重なった!そして乙吉は、いままで気づかなかった側の内便所のすえたような臭いが、ツンと鼻孔に広がるのを感じた。

 乙吉は食事時が苦手だ。それでも朝や昼なら、他にも広い世界があることに気休めがあるが、夜はどこにも逃げ場がないような、胸苦しい感じがした、松之介大伯父の前に座って、まるで借りてきた猫みたいにちぢこまって食べることは、一種の難行である。自分の弁解や申し開きが、いっぺんに吹き飛ばされてしまうような強迫観念じみたものをいつも感じるのだ。もっとも、この松之介大伯父を恐れているのは、なにも乙吉ばかりではない。彼は近隣で音に聞こえた雷おやじで通っている。

 三日ほど前も、下の空地で紙芝居屋が、この大伯父に怒鳴りつけられた。乙吉たちが『黄金バット』を見ているとき、いつの間にか、竹のステッキをついた大伯父の姿が背後から現われ、「こら!だれに許可もらって店開いているのか!」と叫んだのである。子供たちが縮みあがったのはもちろん、紙芝居のおじさんも青くなってしまった。大伯父がステッキを威張りくさって振り回しながら去っていった後、子供たちへの面子もあってか、紙芝居屋は、「へっ、あれが住田の天皇か。くそ面白くもねえ」と捨てゼリフを吐いた。乙吉は、その天皇の庇護の下にいる自分たち家族が、日陰者のように頼りなく思いなされたものだ。
 蠅の糞で黄色くなった笠の下に、蜜柑のような黄色い電灯が、暗い光を食卓に落としている。献立はいつもの通りの野菜の煮付け、白菜の漬物、きんぴらごぼう、昆布の入った味噌汁、それらが雑然と並べられている。人生の縮図みたいなものだ。なんの変化もない毎日の生活の標本みたいなものだ。

 


未完、執筆時期特定できず