3. 私の恩師(1981年)


私の恩師


 毎年三月になると、私は憂鬱な気分に襲われる。卒業式そして謝恩会の時節だからである。学生と別れるのが悲しいのではない。学生が適当に悲しんでくれないのが悲しいのである。学芸会の舞台衣装を着た小学生よろしく、生まれて初めてのキャップとガウンで興奮し、教師などそっちのけで仲間や親たちとの記念撮影ではしゃぎまわる学生たち。慣例で教師に声はかけるが、正確には自分たちだけの卒業記念パーティーと化した謝恩会。事実、ある年の招待状には、「御参加下さいませ」などと書かれてあった。「謝恩会」はいまや死語なり、とつぶやきたくもなる。
 だが他人のことは言えない。私にも人並に、恩を受けた多くの師があり、足を向けて寝れないような多くの先生がいるが、日頃は思い出すことも季節ごとの便りを出すことも、ましてや恩に酬いることもないからである。先生方から見れば、それこそ「不肖の弟子」に違いない。
 とは申せ、いささか弁解じみてくるが、自らを不肖の弟子と意識することによってのみ恩師は恩師たりうると言えないだろうか。なぜなら「恩」は、受けたものが過分のものであり、自分はそれにふさわしくない、と意識することによって初めて浮上してくる価値だからである。なぜなら、「彼はぼくの弟子です」という表現も押しつけがましく嫌味なものだし、「あの人はぼくの恩師です」という表現もどこかうさん臭い。はっきり言うなら私にとって「恩師」とか「弟子」という言葉は、素直な気持では使えない言葉、ある屈折した感情を喚起する言葉なのだ。その意味で私が素直に理解でき共感できるのは、たとえば藤野先生と魯迅のような場合だけということになる。つまり、師の期待するところと弟子の実際に歩み出した方向が微妙にくいちがい、それが弟子にとって一種の痛み、負い目として意識され、まさにそれゆえに、師の恩を想うことが絶えざる勇気と励ましの根源となるといった師弟関係である。そして私にとっての藤野先生は、一人のスペイン人宣教師ミゲル・メンデイサーバル神父である。
 神父との最初の出合いは、私が上智大学でスペイン語を勉強していた一九五九年ごろ、スペイン語科の信者学生の集まりにおいてであった。会ってまもなく神父はローマに行かれて接触はとだえたが、しかしバスク人特有の彫りの深い顔だち、そして他の何よりも、強い信仰に裏うちされたその温かな人柄が強烈な印象として残された。
 次に会ったのは、それから数年後、広島市郊外のイエズス会修錬院においてであった。つまり私は、大学四年のとき思うところがあって聖職を志し、卒業と同時にイエズス会に入会したのである。神父との再会は、修練二年目に入った一九六三年四月のことであった。その日の日記にはこう書かれている。「今朝こそ新しいマギステル(修練長)が来る日だ。いや今の自動車で来たらしい。足音が聞こえてくる……今お部屋に入られた」。いかに師の着任を持ち望んでいたかが分かる。
  神父との再会は、私にとって文字通り解放の日であった。分刻みの日課、そして外面ばかりか内面までも厳しく規制された修行の中で、私はほとんど窒息せんばかりになっていた。メンデイサーバル神父の指導を受けることで、私はまるで大空に放たれた小鳥のような自由を味わったのである。つまり自分が自分であることがすなわち喜びであるような解放感とでも言えばよいであろうか。そのころ私が訳し、後に出版された神父の令弟ルイス・メンディサーバル神父(元ローマ・グレゴリアン大学教授)の著書につけた題のようにまさに「新しき展望」が開かれたのである。
 しかし結局私は、広島での三年間の修錬期、そして東京に戻って二年間の哲学の勉強の後、思うところがあって、還俗した。おそらく神父の眼から見れば、私はいささか、いや限度を越えて、勝手気ままに飛びすぎてしまったのであろう。魯迅が、医者になって祖国中国のために働いてほしいと願う藤野先生の期待を裏切ったように、私も、神父になって日本人の救霊のために働いてほしいと願う師の期待を見事に裏切ってしまった。
 ともあれ、私にとって五年間の修錬生活は、魂の《兵役》、自己発見の時代、真の意味での《青春》であり、そこにおいてメンディサーバル神父からもっとも良質の、もっとも貴重な感化を受けた。修道生活を断念しただけでなく、いわゆる信者の務めからも遠ざかっている私が、しかもなお神を信じ、人類の救済に希望を託すことができるのは、神父のような掛け値なしの、本物の信仰者、聖職者がいるからである。昨夏から師は遠いエクアドルの地にあられるが、師を想うたびに、私も魯迅のように「たちまちまた良心を発し、かつ勇気を加えられる」のである。


「S日報」、一九八一年一月二〇日(金)号

※掲載紙と背後の宗教団体の関係は後に知った(知っていたら?)