召 喚
目が覚めると、陽はすでに高々と上がっていた。もともと天井すれすれの所に小さな窓があるきりで、外からの光はつねに高々と見えるわけだが、天井に映る陽光の強さと、室内のけだるいような温もりとで、もう陽は高いと知ったわけだ。窓の外の樹々をかいくぐって来るせいか、射しこんだ陽光は、ちかちかと緑色に乱舞し、天井にまだらな模様を作っている。梢を渡る風の音も聞こえ、なぜかのんびりした夏の午後の雰囲気が感じられる。しかし季節は冬の初めのはずだ。
血管がふくれあがったように思える左腕をふとんから出して時間を見てみた。十一時を三分ほどまわっている。頭の中ではシマッタシマッタと叫んでいるのだが、その声はただ頭の中を空まわりするだけでからだには伝わらず、霊肉一致はやはり間違いなのかなどとあらぬことを考えてしまう。それでも徐々に考えが押し広がってゆくのが、ちょうど石油が石綿にしみ広がってゆくように感じられ、口に出してシマッタと言った途端、ぱっと火がついて、今度は本式にあわて出した。しまった、とりかえしのつかぬことをしでかした。こんなことになるなら、やはり昨夜案内してくれた男に起こすように頼んでおけばよかった。確かに七時には起床と彼は言っていた。その口ぶりには、もし無理だったら別に起きる必要はないんですよ、という調子が感じられ、だからこそ自分はぜひとも起きる、と決意したはずだったのに。いつも裏目裏目と事態が展開することがうらめしい。
はっきり七時に起床しなければならぬ、というのではなかった。しかし、こちらの意志をためしてくるような意図が先方に感じられ、こうなればずばりと指定されたときよりかえって仕末が悪い。
血管と筋肉と骨とがたがいに相手を邪魔にしているような不安定なからだをやっとのことでベッドから下ろしたが、足うらに触れた床はびっくりするような冷たさで、頭の芯まで痛くなった。急いでベッドの縁に腰を下ろし、覚束ない手つきで部厚い靴下をはき、いざ靴をはこうと手にとってみると、踵のところにびっしりと苔状のものが密生している。どこも湿った場所を歩いた覚えがないのに、いつの間にか苔が生えている。この部屋に異常な湿気があって、それで一夜のうちに苔が発生したのか。眼の前の事実と頭の中での確認とが一枚のガラス板をはさんでなかなかぴたりと合わず、それをうながすつもりでわざと靴を眼の高さまで持ちあげた。窓から射しこむ光の中で、それは緑色から茶色、茶色からまた緑色へ、と微妙な色の変化を見せる。恐るおそる人差指で触ってみると、柔かい天鵞絨の肌ざわりが指先に伝わってきたが、爪を立ててみても剥がれるふうではない。
そのときコツコツとドアを叩く音が聞こえ(いや、聞こえたと思ったが、それは単に叩かれるはずだと思っていたからかも知れない)、答える先に、一人の男がすばやく入ってきた。黒く長い髪をべったりなでつけたその顔は、頬骨がいやに突き出ており、それと調子を合わせるぐあいに、異様に大きな耳が広がっている。一瞬、男の姿はぼやっと薄明の中に消えたが、しばらく眼をこらしていると、また前と同じ輪郭の中に戻ってきた。あわてて靴をはいて立ちあがったが、どうしても意識は靴の方へ向かいがちだ。
「……さんでしょう?」
男は妙に透き通る声で言う。まるで人里離れた山の中で、ふいに聞こえてきた木霊のようだ。ぴっちりと着こなした上着は、いかにも男をしめあげているような恰好で、ごていねいに三つまでしめあげたボタンを外せば、男のからだはばらばらに解体してしまいそうだ。
「ええそうですが、なにかご用ですか」
と答えたが、自分の声も男の出した音域にのせられて、かすかに震えを帯びた。男は落ち窪んだ眼をじっとこちらに注ぎながら、後手でドアを閉めると、ゆっくり近づいて来る。側近くまで来ると、内ポケットに手を入れて、しばらくまさぐっていたが、やがて白い小さな紙片をさし出した。受けとってみると、それはふつうよりかなり小型の名刺で、四隅が丸味を帯び、まるで水商売の女たちが使うそれのようだ。中央にただ大きく「……」と名前らしきものが印刷されている。肩書きを印刷していないのは奥床しさを計量してのことかと思われるが、そのような形にしていることでそれは見事に裏切られていた。
「あの、坐ってもよろしいでしょうか」
男は妙な猫なで声で言ったが、しめっぽい手で首すじをなでられたようで、どうにも答えようがない。すると男は、ある律動を伴ったからだのくずしかたをしてベッドに腰をおろしてしまった。そのとき、かすかに空気の流れが生じて、男のつけているポマードのねっとりした匂いが鼻をついた。男はうながすように見上げている。そうなると坐らないわけにはいかず腰をおろしたが、そのとき鳴ったベッドのきしり音に、なぜかみだらな連想がどろどろにもつれ合って浮かんでは消えた。危険だ危険だ、と胸のうちで叫んだが、なにが危険なのか分かっていたわけではない。なるたけ男とは距離を保とうとするが、厚手のマットが意外にやわらかく、かけふとんがなめらかな布地のため、足でこらえなければいつの間にか男が作った窪みの方にすべり落ちそうだ。案の定、身動きしたとたん、ずるずるとすべり落ち、腿と腿とが触れてしまった。そのとき強い電流のようなものが走り、男と色という漢字が空中をもつれ合いながらぐるぐる回り出した。
「あの、どういうご用件でしょう」
と、内心の狼狽をかくすように男に話しかけたが、自分の声が妙に上ずって醜いものに感じられる。意志に反してこのようにあわてることは腹立たしいが、かと言ってそれがこちらのひとり相撲でないこともはっきりしている。男の周囲にはいやにべたついたものが発散され、こちらが五を出せば十を出すというふうに、あらゆる点に過剰が感じられる。 「いえ、これと言って用はなかったんですが、どうも一人でいると落着かなくって。知らせはいつ届いたんですか」
「知らせ?」
「あの呼び出し状ですよ」
「ああ、あれですか」
と答えたものの、それが正確に何を意味しているのか納得していたわけではない。カナ・タイプであて名が書かれた葉書状のものを受け取った記憶がどこかにこびりついているが、それがあれであるかどうかは疑わしい。あれを持参しないと大変なことになるのではと一瞬暗い想いが走ったが、こちらの気の持ちようで何とか切り抜けられないこともあるまいと気をとり直した。しかしこの男も自分と同じように呼び出されたのであろうか。自分ひとりとばかり思っていたのに。男がこの家の者でないと知って急に緊張が解かれたが、同時に侮辱されたようにも感じた。呼び出し自体が急に色褪せたものに見えてきたのだ。いままでの思いつめた姿勢が、後ろからどんとどやされて浮き足立った感じだ。
「どうも感心しませんね、いまどき呼び出しをかけるなんて」
「そうですね。でも仕方がないんじゃないでしょうか。彼らにしたって(彼らとはだれのことか)もっと別の方法をとりたかったんでしょうが、こういうことは個人の思惑を越えた何かが働くわけですよ」
おや、なんで当局の肩を持つような言い方をしているんだろう。結局自分をどちら側に位置づけるかが問題なんじゃないか。むかし担任の教師に「……君は利口だから::…」と言われたときのことが前後の脈絡もなしに不意に思い出され、俺にとってこれは決定的な評価かも知れないなと思ってしまう。
男はなんとも答えない。聞いていることは聞いているのだろうが、こちらの先走りを冷然と眺めているふうである。行き過ぎた行き過ぎたと頭の中で叫んでいるが、前のめりになった姿勢は急には戻らず、はずみ車がきしりながら回っている。
天井に一度はね返って落ちてくる光が、男の眼鏡を時おりぴかりと光らせた。横を向いて男の顔を直視することもできずに横眼で伺っているだけだが、男の眼鏡の部分だけがぼうっと光を帯び、他は陰画のように黒く沈んでいる。先ほどはあれほど打ちとけていた、いや打ちとけすぎるとさえ思えたのに、男は無気味に黙りこんでいる。こうなると先ほどの態度は反古同然に消えてしまい、もともと男は一言もしゃべらなかったような気さえしてくる。 スチームが利いてきたのか、部屋の中が馬鹿に熱くなってきて息苦しいほどだ。すると行き場のない怒りがくすぶり出し、大人気ない態度に爆発する前に男に部屋を出て行ってもらいたい、という気持がこらえきれないほどにふくらんできた。しかし男はこちらの焦燥に気づいたふうでもなく、相変わらずじっと坐ったままだ。こらえ切れなくなって立ち上がり、窓の下のスチームに近づいて温度を下げようと思った。コックを「閑」の方にまわしてみたが空まわりするだけでひとつも手ごたえがない。しかしいまさら男の方を振り返ることには耐えられず、できれば帰ってもらいたいというこちらの気涛を後ろ姿全体で表わすことにした。両肩に力を入れてなんとか表情を持たせようと努めていくうち、内心のもやもやがぴったり表わせたと思える形になった。そのとき後方にぴりっと緊迫した空気が流れ、男もようやく気づいたようだ。
男はいつ部屋を出ていったのか。出て行くときに何か二言三言いったようにも思えるが、どうしても思い出せない。完全に記億が欠落している。次に気づいたときは、もう夕刻が近いのか、天窓と言っていいような高いところから射しこむ光に勢いがなくなっていた。こんどははっきりノックの音が聞こえた。もしかすると先ほどのことは夢の中のことかも知れないが、こんどは本当にノックの音が聞こえた。「はい」とあわてて答えたが、唾を変な風に飲みこんでしまい、不快な塊が食道、胸部、そして脇腹の方に降りていく。 「ケンチョウがお呼びです」
ドアの外で若い男の声がする。ドアに近づき、そっと開けてみたが、だれもいない。廊下に出て左右を見てみたが、人っ子ひとり見えない。廊下は長いのだから、歩いてゆく後ろ姿なりとも見えるはずなのに、影も形も見えない。もしかすると室内に据えられた拡声器での連絡かも知れないが、それにしてはノックの音がしたのはおかしい。 ケンチョウという呼名ははじめてだが、なぜか遠い昔に口に上せた感触がいまだに残っているような気がする。県長でもないし、検長でもない、などと漢字をさまざまに組み合わせてみるが、どれも歯車がかみ合わない。あるいは今度のことに関係して新たに設けられた職責か。
部屋に何か忘れたような気がして戻ってみた。しかし面接には何も持参しなくてもいいと気づき、また廊下に出た。さしあたってはケンチョウの部屋をさがすことだが、こうなれば盲滅法だ、と左に向かって歩き出した。
そちらはどうも西側に当たるらしく、突き当たりにある大きな窓からは、夕景に近い、しかしまだ明るさを失っていない光が斜めに射しこんでいる。しかし廊下そのものはかなりの長さで、ちょうど遠近法に従って遠くがばかに小さくまとまって見える。両側にはずっと小部屋が並んでいるらしいが、通りすがりに耳をすましてみても、そのどこからもことりとも音がしない。まさか無人の家ではなかろう。おそらく今は共同の行事をどこかの広間でやっているに違いない。そんなことを考えながら油断なく部屋部屋のドアに眼をやっていったが、とうとう突き当たりまで行ってもケンチョウという名札を見つけることができない。
突き当たりの窓から下を見下ろすと、そこはかなり広い中庭が広がっており、芝生が眼にしみるような鮮やかな緑色をしていた。兄弟らしい二人の少年が、ボール投げをやっている。弟の方が落としたボールを拾う瞬間、ふと顔をあげてこちらを見上げたが、どこかで見たような悲しい顔つきなのが気になる。
「もし、どなたかお捜しですか」
急に背後で女の声がした。振り返ってみると、モップを手にした中年の女が、こちらを不審そうに見ている。生活の臭いがからだ中からにじみ出ている感じで、薄汚れた前かけには、ところどころ黄色いしみがついている。しかしどことなくとりとめのない感じ、茫洋とした感じがまさって、ちょっと眼を離せば、はてどういう人だったか皆目思い出せそうにもない。
「あの、ケンチョウ、いやケンチョウ様のお部屋を捜しているのですが」
と答えたが、わざわざ様をあとからつけ加えたことがいかにも見えすいた卑屈なことに思えて、われ知らず顔が赤くなった。
「ああ、ケンチョウさんのお部屋ね。こちらです、ついてらっしゃい」
女はくるりと向きを変え、モップを先に立てるぐあいに歩き出した。女が、様でもなく呼び捨てにもせず、その中間のさんで呼んだことで、なぜか救われた感じを持ったが、また同時に、どこかはぐらかされた感じがしないでもない。
先ほどは逆光だったから気がつかなかったが、いま改めて廊下を見ると、白い埃が雪のように積もっている。長い休みの後の校舎という感じがして、そう言えばどこからかクレヨンの生温いような臭いがたちこめてきたようだ。女は案内の途中でも手を休めたくないのか、力をこめてモップを押してゆく。そのため人ひとりが辛うじて歩ける道が作られてゆく。別に、それ以外のところを歩いてもかまわないと思ったが、せっかく女が磨いてくれるのを無視してはいけないような気がして、てかてかと艶を取り戻した帯の上を律儀について行った。
先ほど歩いたところだから、自分に当てがわれた部屋の前を通るとばかり思っていたのに、なんとなく勝手が違っている。埃の部分に足を踏みこまないように下を向いて歩いて
いくうち、いつの間にか廊下を曲がったのか。しかし曲がったという感じはどこにも残っていない。あるいは、女の後について歩き出したときに、すでに別の方角に向かう廊下に曲がっていたのか。
窓数が少ないため、廊下が徐々に薄暗さを増し、眼の前を行く女のふっくらした白いふくらはぎだけが妙に浮きあがって見える。面と向かいあったときにはかなりの年に見えたものが、いまこうして後ろ姿だけ見ていると、なぜか若い女のように見えてくるのがおかしい。
どこか遠いところで話し声がする。感じとしては、それが下方の、たとえば地下室のようなところから上がってくるのだが、確かいまいるところは三階のはずだ。するとこの建物のいたるところに、通風のための装置が施されているのか。
しばらく行くと、人声に混じって食器、それもアルミニューム製の食器のぶつかり合うような音が聞こえてきた。そしていままでのかび臭い、妙に喉を刺激するような周囲の空気が急に湿り気を帯び、同時にどこか独特な食べ物の臭いがしてきた。前方に明かりとりがあるのか、ぼんやりとした光が周囲に満ち、女の姿がゆらゆらとふくらんで見える。食器のぶつかり合う音がいよいよ間近に聞こえ、華やいだ若い女の声が時おりそれに混じっている。
アルミの食器の音でなく湯桶のぶつかり合う音だったら、そこがてっきり銭湯の中だと思ったに違いない。それほど音がやわらかく反響し合って、湯気が皮膚にべとついて感じられるのだ。
いつの間にか床はタイルに変わっている。だのに女は、相変わらずモップを押してきたらしい。急に女が立ち止まった。ほとんど間を空けないでついてきたので、あやうく女の体にぶつかりそうになったのを辛うじて踏みこたえた。ぶつかったらぶつかったで、そこに新たな局面が生まれたかも知れないのに、自分の中に急速に固まるものがあった。
女はそんなこちらのひとり相撲に気づかず、振り向きもしないで、左手の大きな鉄の扉を開こうとしている。頑丈な体つきに見えたのに、その扉は女の力では無理らしい。
「ぼくが開けましょう」
と言って、代わって大きな取っ手を掴んでみたが、そのあまりに手応えのある感触に、もし開けられなかったらどうしようと、一瞬ひるんだ。しかし力を入れて引張ると嘘のように軽く開いて、内部からの湿化った熱気が全身をつつみこんだ。そこは天井の高い、広い部屋らしく、もうもうと湯気が立ちこめ、天井のあちこちにある電灯の光もかすんで見えた。薄暗いがどことなく活気があふれ、こちらの気後れなど吹き飛ばすほどの生活力がみなぎっている。次第に目がなれてくると、部屋の両隅に大きな釜が据えられ、湯気はそこから出ているのが分かった。部屋の中央には大きく長い調理台があり、その周囲に若い娘たちが十数人、忙しそうに働いている。先ほどの笑い声はこの娘たちのものなのだろう。
「さあ、遠慮しないで中に入りなさいな」
後ろに立っていた先ほどの女が、急になれなれしい口調でうながした。これはどういうことなのだろう。ケンチョウさんの部屋に案内してくれるはずだったのに、こんな給食室みたいなところに連れてきたとは。不信の言葉が口もとまで出かかったが、もしかするとケンチョウさんはこの部屋の中にいるのかも知れない、と思い直し、さそわれるままに部屋の中に踏みこんだ。
だが、入ったもののどうしたらいいのかまったく見当がつかない。先ほどの女の姿を眼で追ったが、女は扉のそばにかけてあった白い割烹着をつけて、忙しく働いている娘たちの中に割りこんでしまった。
こうなれば成り行きにまかせるほかはないと、いくぶん自棄的な気持が湧いてきて、こぼれ水が流れる冷たいタイル張りの床の上で待つことにした。生温い湿った空気が、服を通して肌にまとわりつく。こういうときに風邪を引くんだ、と思うが、いまさらどうすることもできない。そのうち、調理台のはしにいた一人の娘が時おりこちらを見ているのに気がついた。美人というのではないが、清潔で気立てのいい娘らしく、割烹着の襟元からのぞいている赤いセーターが可憐な感じだ。暗い方へ暗い方へと傾斜しはじめた気持が、辛うじて踏みこたえているのはこの娘のせいかも知れない。
そのとき、どきりとするような鋭い音でベルが鳴った。娘たちがそわそわと後かたづけを始めたところをみると、どうやら終業の合図らしい。娘たちはそれぞれロッカーらしい木製の戸棚の前で割烹着を脱ぎ、色とりどりの普段着に着換え出した。すると、部屋の中が急に明るさを増し、空気も一段とやわらかくなったようだ。
そんな娘たちに気をとられているうち、いつの間にか先ほど案内してくれた女の姿を見失ってしまった。どうしよう、いまのところケ ンチョウに面会できる唯一の道は、あの女に従うことであったのに。
ばたばたと騒々しい音をたてて娘たちが帰ってゆく。こうなれば先ほど自分の方を見ていた娘に頼るしかない。こららをもう一度振り返ってほしい、とそれこそ祈るような気持で娘の方を見ていると、それが通じたのか娘は不意にこちらを見た。何か言わなければ、とあせるが、何を言ったら良いのか急には思いつかず、しきりに口をぱくぱく動かしているうちに、「すみません、いまにも倒れそうです。なにか食物をめぐんでください、お願いします」と叫んでいた。おや、そんなこと言うつもりだったのか知らん、とあわてたが、言ってしまったことは言ってしまったこと、いまさら取り消すことなどできない。それに本当に言いたいことなど自分にあった のか、と居直る心の動きがあり、いまは自分の言葉に沿うしかないと思ってしまう。するとからだの方も急速にそれに応じる動きが生じ、眼の前がぼうっと霞みはじめ、同時に下半身がへなへなとくずれ落ちそうになり、事実いつの間にか床の上に膝をついてしまった。
空腹のあまり漆をついたのか、それとも振り返った娘にやさしくしてもらいたいから膝をついたのか、朦朧とした頭の中では判然としない。また判然としないことに、不思議な安らぎを感じる。堅苦しい約束事の世界が意味を失って、そこには当然予想された陶酔があった。
「あらかわいそうに、ちょっと待っててね」
娘は急に目標ができたように元気づき、まるでスキップかと見えるほどの急ぎ足で近づいてきた。すんなりと伸びきったしなやかな娘の肢体が、神の、自然の傑作として眼前に躍動する。するとからだの隅々まで快い戦慄が走り、四囲がバラ色に変貌したかに思える。まるでしたたか強い酒に酔ったみたいに、急にこらえ性がなくなり、ごろりと床の上に横になった。いまはもう、床石の濡れていることなど気にもならない。くるくると周囲世界が回り出し、奈落の底に落ちこむときもかくぞやと思われる。
ぼんやりと眼前に広がるバラ色の光景の中から娘が近づいてくる。突如そよそよと風が吹き始め、次の瞬間、娘の膝の上に自分の頭があった。「さあ食べて」 娘の柔かな声が慈雨のように降り、いや、まさにいずこからともなく慈雨が降ってくる。下から見上げた娘の顔は、まるで巨大な観音像を下から見上げたときのそれに似、そう言えばちぢれた頭髪の合い間から青空が見え、それがますます広がってゆき、やがて燦々たる陽光が顔の上に降り注いだ。娘の発する声は、峨々たる岩山に木霊する雷鳴、あるいは崖めがけて押し寄せる波濤のつぶやきとも聞きなせる。いや、ふたつながらに真であった。もっと正確に言うなら、陶酔の坩堝の中で、ぐらりとからだが傾く瞬間につかみ取ったものが真となった。
背中や臀部の冷たさもまた、岩を洗う海水のそれと変わった。空にはもくもくと入道雲がひしめき、いまだ侵蝕されない空間は紺碧の空である。その空を切り裂くように巨大な岩山がそそり立ち、時おり雷鳴が響き渡った。磯臭い風が心地よくからだを吹き抜け、眼底に痛みを覚えるほどの強烈な光があたりを領した。どこかでコウトウムケイという声がしたように思ったが、なにかまうものか。
『青銅時代』、第二十号記念号
昭和五十二年