5. 盲学生のスペイン留学(1983年)



盲学生のスペイン留学


 去る二月二十四日午後二時から、麻布のアオイスタジオで、石森史郎プロダクション制作、上田偉史監督の『私は越えた――ピレネーを』(仮題)のラッシュを見た。これは昨年春、清泉女子大学を卒業して同年九月からスペインに留学した赤沢典子さんの、彼地での生活を追ったドキュメンタリーである。
 画面は無心に遊ぶ子供たちの姿、暗転して成田での出発光景、そして彼女の失明以前の幼児期の写真や、同道した盲導犬コーラルの出身校(?)紹介、家庭環境などをフラッシュ・バック風に挿入しつつ、パンプローナからマドリードへ、さらにサラゴサやマラガへの小旅行、そして最後はマドリードの市中を歩く彼女の姿で終わっている。
 商業ペースではおよそ考えられぬ、たっぷり時間をかけたカメラ・ワークから浮かびあがるのは、「やらせ」ではない素顔の赤沢さんの姿であり、向こうでの生活を彼女からの手紙(タイプで打たれたスペイン語文)とテープだけで想像するしかなかった私などには、映像を介してであれ、彼女の体験をいちいち確かめられるという喜びがあった。彼女の出発以来、心配のし通しで身もやせる思いという(いや、事実かなり面やつれしていた)父親重夫さんも、ラッシュの後ずいぶんと明るい顔になったのは何よりであった。
 画面は、長谷川きよし氏の歌が入った以外はすべて現場音のみで、予定されている王貞治氏のナレーションもこれからという編集前のものであり、最終的にどのような形になるのか素人の私に予想はむつかしい。というより、映像作品としてどこまで普遍性を持ちうるのか、的確に判断するにはあまりにもわが身に引きつけて見てしまったということであろう。しかし現段階でもはっきり言えるのは、この映画が何か珍らしいものを好奇の眼で追っているのではなく、一人の盲人を通して、実はその盲人がわれわれの隣人であり友であり、さらにはわれわれ自身でもあることを訴えようとしているものであることだけは痛いほどよく分かる。
 確かに珍らしさはあろう。盲人として最初のスペイン語科卒業生、そしてスペインへのやはり最初の盲人留学生、おまけに盲導犬まで連れて。しかしそういった道具立てをすべて取り払ってもなお残るのは、自己の可能性を求めて果敢に挑戦する(といって、赤沢さんの場合は物静かに、しかも根気づよくだが)一人の人間の姿である。実際、あの華奢で童顔の彼女のどこにあれほどのチャレンジ精神がひそんでいるのかといつも驚かされてきた。確かあれは彼女がコーラルを手に入れてすぐの三年生の初夏のことだったと思うが、ある日研究室にやってくるなり、夏休みにアンデスを汽車で越えたいと言い出した。話を聞いてみると、授業中にいまは停年で退職されたS教授のアンデス紀行を聞いて、矢も盾もたまらなくなったらしい(そのときは、二年後にひかえているスペイン留学のことを考えてようやく思いとどまったが)。
 確かに盲人は、われわれ晴眼者の想像もつかぬ特殊な世界に生きている。物が見えない世界のことなど、試みに眼をつむったぐらいではうかがい知れぬ世界である。しかしわれわれは、そうした特殊なもの、未知のものに眼を奪われてしまって、もう一つ別の、いやもっと大切な事実をとかく忘れがちだ。つまり彼あるいは彼女もまた、われわれと同じ世界に生きているということ、もっと正確に言うなら、人間としてそのあらゆる夢と希望を共有しているという事実を忘れがちだ。いや、健常者(だれが作ったのかいやらしい言葉だが)以上に、人間らしく生きることを激しく希求しているというべきであろう。
 幸い赤沢さんは多くの善意ある人たちに支えられて四年間の学業を無事修了し、立派な成績を残して卒業した。だが彼女の受験がすんなり認められたわけではなかった。真剣な、しかしだからこそ腹立たしい討議の末の受験であった。盲人の入学に危惧の念を表明する人たちの意見を要約すれば、次の三つになろう。

 一、彼らがはたして大学で無事勉学できるか(つまり怪我などの心配)
 二、無事卒業できるか(つまり学力の問題)
 三、施設などに関して法外な要求をするのではないか(つまり経費の問題)。

 そのうち、一と二はいかにも盲人の身を思っての心配のように見える。そうであることを全面的に否定するつもりはないが、しかしそうした御心配の裏には、言っている本人自身も気づかない奥深い差別意識がひそんでいる。そういう思いやり派の本音はこうだ。「盲人は盲人に指定された安全な学校で学び、指定された職業につけばいい。本当に勉強しようと思っているなら大学以外のところでも勉強できるわけだし、大学卒の肩書きも欲しいというのは動機として不純である」。
 そしてこの人たちが結局は受験を認めざるをえないのは、それが時代の趨勢だからである。ということは、身障者差別が時代の趨勢となったら、またもや反対にまわるということであろう。こうした考え方は、一見思いやりに見えるからこそ、盲人側から見れば実に仕末におえない差別となる。面と向かっての差別より数段こたえる、つまりじんわりと利いてくる差別である。三の問題に関しては、私も身障者(あるいはその支援団体)と大学とのあいだに過去いくつかトラブルがあったことを知らないわけではない。しかし、当事者でないから断言はできないが、両者のあいだに本当の意味での信頼関係があったとはどうしても思えない。
 学業をまっとうできるかどうかという心配に対しては、盲学生自身の明決な答えがある。都内の盲学生を囲んでの座談会で、一人の男子学生がこう言った。ご心配は大変ありがたいのですが、しかし卒業できるかどうかはまったく本人自身の問題ではないでしょうか」。あたり前すぎて泣きたくなるような道理である。そうなのだ、盲人もどんどん進学して、落第したり留年したりするダメな盲学生が出てくるのが自然なのだ。その同じ座談会で別の学生が述べた言葉がいまも私の耳にこびりついている。列席した一人の修道女の「盲人の方は、私たち眼の見える者が知らない深い内面の世界をお持ちです」という言葉を受けての発言である。「賛辞は身にあまる光栄ですが、しかし私たちを《盲人》という類型でくくらないでください。盲人の中には、僕のようなどうしようもないやくざ者もいるのですから」。
 われわれは盲人にかぎらず身障者に対して《思いやり》を持ちすぎるのかも知れない。神経過敏でありすぎるのかも知れない。しかし本当の思いやりは.彼らの可能性を広げてやることであって、それを限定したり縮小させることではないはずだ。必要なときに必要な程度の援助の手を差しのべること、そして何よりもまず、夢と希望を彼らと共有することではなかろうか。
 先日もらった赤沢さんの声の便りの平に、ドキリとさせられる言葉があった。それはそれまで献身的に彼女の世話をしてきた人が、のっぴきならぬいくつかの理由ゆえの赤沢ささんのある決断に心証を害している、そのことに心を痛めながらの言葉である。「人を当てにしてしか行動できないということは、一見楽そうに見えるかも知れませんが、実際には自分でやるよりもずっとずっとつらいのだということを、あの人たちは分かってくれないようです」。
 つまりこの人たちにとって、身障者はいつのまにか御主人の庇護をただありがたく受けるべき者(自己主張は飼い主の手を咬むに等しい)に成り下がっているのである。われわれの中にひそむ差別意識は、かくのごとく根が深いと言わなければならない。
 赤沢さんの卒業した大学には、いまその三年後輩としてもう一人の盲学生I・Sさんが学んでいる。彼女は赤沢さんとはまるで違った性格で(これまた当たり前のことだが)、はっきり自己主張をするタイプである。たとえば彼女は、今まではごくかぎられた数の善意の人たちの奉仕にゆだねられてきたテキスト点訳などの作業は、大学など公的な機関が管掌すべきではないかと考えている。彼女からそう言われたとき、私は正直言ってうろたえた。赤沢さんが何の問題もなく(彼女が彼女なりに悩んでいたことは後で知ったが)めでたく卒業したことですっかり安心していたからである。
 確かにこれは、福祉問題全般にも通じるむつかしい問題ではある。個人の善意の代わりにすべてが公的な機関にゆだねられるとき、そこに現出するのは血の通わない冷たい福祉社会かも知れない。といって、すべてが個人の善意にゆだねられるなら、そこに結果するのは、当事者たちの意に反してか、慈善家と受益者という幾重にも屈折した内的隷属関係かも知れない。いずれにせよ不完全な人間の作り出すもの、この世にユートピアは望むべくもない。とすると一応の妥協点は、例のごとく例によって、それら両極端の中ほど、つまり制度的にも身障者の権利が充分保証されながら、しかも個人の善意が有効に機能するようなバランスを保つことであろう。
 今回の映画で、私ははじめてONCE(スペイン盲人協会)の存在を知ったが、そこで赤沢さんが知り合ったスペイン人たちの何と屈託なくたくましいことか。電話交換手として働く二人の若い女性の底抜けの明るさ。スペイン人の熱中するロテリア(宝くじ)売りの首人たちの胴間声の迫力。万事ひかえめの赤沢さんが可哀そうに思えるほど、息もつかずにまくしたてる手芸教室のおばさんたち。なるほどスペインは『ラサリーリョ・デ・トルメス』(盲人の手引き小僧を主人公とする十六世紀スペインのピカレスク小説)の国なんだなと納得させられる。
 美術には門外漢なので確言はさし控えるが、おそらくスペインは、ベラスケスの絵に見られるように、身障者が堂々と自己を主張した最初の国なのではなかろうか。つまり王侯貴族のなぐさみ物、いわば刺し身のつまとして画面に登場するのではなく、一箇の人間として、王侯貴族とまったく対等の権利を主張しているのである。 そのことを知ってか知らずでか、前述のI・Sさんは、昨年九月末に行なわれた関東学生スペイン語弁論大会で、「私がスペイン語を学ぶ理由」を次のように語っている。「不滅の騎士ドン・キホーテを創造したスペイン語は、私たち盲人もまた社会に役立つことができるということ、そして私たちが偏見なしに受け入れられるなら、より良き世界の建設のために働くパートナーたりうることを認めてもらうことに役立つかも知れません」。
 もちろんスペインとて、身障者にとって理想の国であるはずもない。日本とは別の多くの困難が横たわっているであろうことは容易に想像できる。ロテリア売りの胴間声にも象徴されるように、大声で自己主張をしなければ踏みつぶされてしまう乾いた人間関係が存在しよう。日本のようにおためごかしの、それゆえに陰湿な差別の構造とどちらが住みやすい状況か即断は許されまい。
 赤沢さんはいま、一週のうち一日はマドリード大学で講義を聞き、他の日はONCEで手芸やピアノを習ったり点字図書館で読むという生活を続けている。しかし彼女は、スペイン語の力を伸ばすこと以上に、身障者の社会参加に関する貴重なヒントを、スペイン留学最大の成果として帰国することであろう。
 最近エスカレーターで怪我をしたという忠犬コーラル君(しつけの悪いスペイン犬に囲まれてじっと耐えているコーラル君)の傷の具合はどうだろうか。赤沢さんのいましばらくのスペイン滞在を、どうか無事最後まで手引きしてくれたまえ。

              「本」、一九八三年四月号、講談社