6.『死の棘』の世界 島尾敏雄論(2)(1967年)


『死の棘』の世界 島尾敏雄論(二)



 二年ばかりまえ、私は「妻への祈り」という手記を書いた。「妻への祈り」という言い方は、ことばとして、あるいは成立しないかもわからない。祈りは妻へではなく神へでなければならないだろう。私の気持では「妻のための神への祈り」であった。しかし妻は私にとって神のこころみであった。私には神はみえず、妻だけが見えていたと言ってもいい。……

(島尾敏雄著『非超現実主義的な超現実主義の覚え書』から)



 島尾敏雄の文学にとって、その持異な戦時体験は別に大きな意味を持っていない、といういささか誤解されやすいことばを先月書いてしまった。しかしそのとき、私の頭には、今月書く予定だった『死の棘』の体験のほうが、島尾文学のより本質的な部分とかかわりその改変を余儀なくしたのではないか、ということがあったのである。
 あるひとりの作家の文学を簡単に色わけすることはつつしむべきかもしれないが、今、論を進める便宜上、島尾敏雄の文学を一言で特徴づけるとすれば、私にはそれが《現実否定の文学》、《罪またはかげりの文学》あるいは《死の文学》だと思われる。ひとりの人間が、文学という営為を通して世界に打って出るとき、かれを駆り立てる内発的な衝動がいかなるものかに、私は限りない興味を覚えるのが常である。もちろんここで言っているのは、単なる《文学青年》のことではない。いや、どんな作家も突如として生まれるはずはないのだから、それぞれ文学青年であった時期を持っているはずであろう。しかし、真の意味でかれが、作家として生まれ変わる瞬間は必ずあるのではなかろうか。私はこれを一種宿命的な、厳粛な一瞬だと思っている。
 島尾敏雄にとって、特攻隊長としての特異な戦時体験は、以上のような意味でその《厳粛な一瞬》だったといってもよい。しかし、かれの場合もそうだろうが、この《厳粛な一瞬》は必ずしも本人にとって自覚的に受けとめられるというわけではない。島尾敏雄はその一瞬を《あの時》ということばで表現しているが、戦争を宿命的な何かとして受けとめたかれにとって、その一瞬がかれの《思想》の中に組み入れられ明白な意味と形を与えられるには十数年の年月を必要としたのである。たとえば、昭和二十一年の『孤島夢』という短編に次のような一節がある。

 艇は砂の谷間のような所にはいり込んだのであったが、奇妙なことに艇の針路は沼になっていて逃げ水のように進むほどに先へ先へと水をたたえているのだ。そうだ。この島こそ、人のうわさにきいていた “あの” 島ではないか。(“” 作者)

 また、二年後の昭和二十三年に書かれた、かれの代表作のひとつに数えられる『夢の中での日常』には、次のような一節もある。

 私は瞬間瞬間の私の感情的な反応を信じない決心をしていたのだ。それは “あの日” 以来そうなっていたのだ。(“” 引用者)

 どちらともかれ独特の超現実的手法を使った作品であり、内容をここで素描することは無意味であり、また紙面の余裕もないが、どちらもあの決定的な一瞬をさしていることだけはまちがいない。私の考えでは、それは死との対面であり、そのとき島尾敏雄の中に、その後のかれの創作活動の根本的モチーフとなるべき死の種がまかれたのである。これはあるいは私ひとりの深読みかもしれないが、この時期の島尾敬雄にとって死は末だその相貌をあらわには示していない。つまり死は肉体的なそれであって、死の本質である罪とは自覚的にはまだ作者の中で結び合わされていなかったのである。
 しかしおもしろいことに、それからさらに三年後に書かれた『いなかぶり』という作品、作者の幼年時代を素材とした作品に末だ暗示的にではあるが、死と罪のモチーフが結合される。太平洋の荒波が押しよせる崖際を少年思無邪が祖母と渡りながら、突然死の恐怖におそわれるくだりから、話は始まる。

 波は岩と岩の間から盛り上り白い歯で泡立ちながらそのあたり一帯を呑み込んでしまうかと思われ、すると又岩の間に地底のうめきに似たうつろな響きを反響させて、吸い込まれて行く。…中略…
 午後の太陽は傾いてはいたが、まだその姿をかくしてはいなかったので、つかのまの白昼に似た光線を山や平地や海に投げかけていたが、思無邪には、“太陽の光は急にかげり出し、やがてひどい嵐がやって来る” かも知れないように思えた。それは光がはたての丘にさえぎられ、磯でくだける波のひびき、そしてそのしぶきとなまぐさい磯臭さ、海鳥の白い糞やふくれ上る海の岩底でのつぶやきなどに彩られた思無邪の恐怖の心が海からの冷えた潮風になぶられて、“視界が狭く” 限られ、“かげり” を帯びてきたのだ。…中略…
 然し危機はあっけなく過ぎた。……村上の浜には真夏の午後の陽が、砂浜の上に照りつけている。それは、へんてこな、狐につつまれたような違和の感じであった。あのはたての下の荒磯での、かげりと寒々としたものと風や怒号やうめきが、一切 “まやかし” であったのか。(“” 引用者)

 少々長い引用をしてしまったが、それはほかでもない、このなにげない一節に、島尾文学の風土があますところなく描き出されているがらである。これはかれの戦時体験と重ね合わせて書かれているのであり、またその後の病妻物のいわば前秦をかなでているのである。
 ところで、この『いなかぶり』は、次のような一節で終わっている。

 表の長廊下の方に出て行った思無邪は、その陽なたをまぶしいものに思い、唐突に、縁の下の白い土の中にかくれ棲むベーコ虫の醜い格好が思い起こされた。摺鉢型の蟻地獄の底を素早くすくい上げて、その中にひそむべーコ虫を掌にのせると、毛深く不釣合いに、大きな尻を蠕動させてあとずさるのが、何とも言えず滑稽なのだ。(はたて、藁すべ、たんぼ道、うすばかげろう)

 この直前、思無邪が幼友だちのおキイとふとん部屋の中で幼児のあやまちを犯したことを思い合わせるなら、この一節がいかに自虐的な一節かがわかるだろう。これと同じような死と罪の対比、昆虫のイメージを使っての罪のやりきれなさ、醜さは、戦時体験を描いた「朝影」(昭和二十七年)にも展開されている。
 いったい島尾敏雄の作品には、奇妙な名まえがひんぱんに使われているが、それぞれにかなり深い意味が与えられているようだ。『いなかぶり』の主人公思無邪も、私の記憶違いでなければ、中国の古典「詩経」の中に出てくることばで、その意味は「ああ、かれが失敗しないように!」である。作者がこの意味で使つたかどうが知る由もないが、もしそうだとしたら、まことに意味深長な名まえである。ここには、否応なく(と作者は考えていた)死と罪の深淵に引きつけられていた、執筆当時の作者の願いと祈りがこめられている。しかし、島尾敏雄の「思想」の中で、死が単なる肉体の死ではなく、罪と死がさらに緊密に結ばれるのは、つまり罪の結果としての死が明白にその位置を定めるのは、いわゆる病妻物という一連の作品においてである。
 昭和三十六年、島尾敏雄の作品集『死の棘』は第十一回芸術選奨を受けた。社会的評価によってすぐさま作品の価値が決まらないのは、文学の世界のおもしろさだが、しかし今まで述べてきたことからも納得していただけるように、これら一連の病妻物は、たしかに島尾文学にとって重要な位置を占めている。評家によっては、島尾敬雄がそれまで駆使してきた独特の手法、夢を使っての超現実的手法がなりをひそめたこれら病妻物は、島尾文学の後退と見なすかもしれない。たしかに『夢の中での日常』や『兆』などに見られた大胆な方法上の実験はみられず、かれの言う、「目をあけて周囲を見た」手堅いリアリズムが目だっている。しかし、見様によってはこれらの作品は後退ではなく、いうならば深化であり、前期に使ったさまざまな実験が作品の中に確実に定着するための必然的な過程ではなかったろうか。その証拠は、かれが今なお執拗に書き続けている[ものぐるい]の作品がみごとな開花をみせていることである。
 『死の棘』を含む一連の病妻物の世界は、相変らず卑少な現実のわくから一歩も出ないどうにもやりきれない世界である。妻の狂気と優柔不断の夫とのいつ果てるともないやりとり。両親の異常な「家庭の事情」に、何かわからぬまでも騒ぎたつふたりの幼い子供。外界との通常の接触を断たれたこの小世界では、猫までが変に人間じみてきて、人間どもの因縁ごとに奇妙な意味を与える。
 さて「家庭の事情」の発端は、昔も今も夫や妻たちによっておろかしくも繰り返される浮気である。「そのころ私の心は家の外にあった」という一文で『家の中』という作品は書き起こされる。「のめりこむように一箇所ばかりに気持が執着」している「私」には、「視界が狭く限られ(『いなかぶり』)それに神経をすりへらしている妻の気苦労にも気づかない。「私は思いとどまるべきであったが、そうしないで、同じ日の上に同じ日を重ねた。」(『家の中』)しかし妻の異常はある日突然に「私」を強襲する。今まで夫の一挙一動におどおどしてきた妻は、ある晩を境にその立場を逆転するのである。「その夜も私は終電車で帰ってきた」が妻は酔いしれて寝ており、ゆりおこす夫に向かって「あなたもたーいしたもんね」と言ったかと思うと、急にげらげら笑い出したのである。
 「私たちはその晩からかやをつるのやめた。どうしてか蚊がいなくなった」という『離脱』の書き出しは、まことに不気味である。「前の日までの、三日と待たずに外泊のために出かけて行く夫に哀願していたときのおもかげ」は、もはや妻から消えうせ、その妻からどこまでつづくかわからぬ尋問を受けるあけくれがはじまるのである。

 次の日気づくと、故障してずっと止まっていた机の上の目ざまし時計が、動いている。機械もいじらなかったし、衝撃を与えたわけでもないので、なぜ動くようになったか、わからない。前には、すこしぐらい手あらく振りまわしても反応のなかったものが、いまたしかに勤勉に動きはじめたのだが、それがそうなったのは妻の意志が乗り移ったからだと、すぐ考えてしまう。

 これは『死の棘』の書き出しである。妻の意志が時計に乗り移ったと「私」が考えてしまうほどこの家庭には妻の狂気が支配してくる。「やはり根の深い一つの変化が、妻に衝 動を与えた “あの日” に起きてしまったのだと思わないわけにはいかない。」(“” 引用者)
 狂気の妻につき添って精神病棟にまではいった「私」、狂おしい妻の発作におろかな反応を繰り返す夫。おそらく人は、かれのとった行為に、あるいは貧欲な作家魂を(わが国の伝統的な私小説作家に見られるような)、あるいは主体性のないあわれな男を見るかもしれない。そのような要素がひとつもなかったと言えばたぶん嘘になるだろうが、しかしそれだけでは『死の棘』が内包する問題の核心には全く到達できないであろう。
 なぜ「私」はうじうじと病める妻に服従するのだろう。それは妻につきささった棘が、実は「私」の心をも確実につきさしていたからである。つまり妻の精神の病をいやすことなしには、「私」のそれをもいやすことの不可能なことを「私」は無意識にだが感じとったからである。今、島尾文学がそれまで立ち向かってきた敵がその姿をあらわにしたのである。すなわち「罪」と「死」。そして、いわゆる病妻物の最初の一編が『われ深きふちより』という詩編からとられた題名であったことをここで注意しよう。言うまでもなく『死の棘』という題名は、コリント前書(十五の五十六)の文句である。すなわち《死の棘は罪である。》
 手塚冨雄は一九六三年『文芸』二月号の「新文学の実証」に次のような文章を書いた。「表現は突飛に聞こえるかも知れないが、このような仕方で自分の内面を絶対者の前におき、それを表現した文学は、これがおそらく最初である。その意味でこれは日本にめずらしい宗教文学ともいえる。……こうして絶対者への恐れと、そこから来る不安が、この作品の一字一句一行の運びのすべてを、新しい様式に化したのである。すばらしいことである。質は違うが、カフカと同じ道筋で彼自身の文体を作ったのである。」
 もちろんこの手塚氏のことばを額面どおり受けとる必要はない。額面どおりあてはまるのは、むしろこの期以後の、たとえば『帰魂譚』『島へ』などの作品だと思うが、この問題は次号にのばしたい。とにかく『死の棘』など一連の作品が、一種宗教的なモチーフから書かれていることにまちがいないし、読者の胸をうつのは、これら作品の背後にある作者の祈るような姿勢からくることは確かであろう。
 昭和三十年十月、島尾敏雄は夫人とともに、夫人の故里である奄美大島に渡ったが、一年後の三十一年、次のような回想を書いている。「そうして私と妻は二人一緒に入院した。……そして半年近い間、私と妻とはその精神病棟の中で世間と隔絶して暮した。そこでの奇態な生活の一端を、『われ深きふちより』という短編集に収めた二、三の作品の中で、私は表現しようと試みはしたが、入院中に妻の発作のあいまを盗んでむしろ祈りのような気持で、そしてそれがいくらかでも妻に通うことを願って書いたそれらの作品が、果して何らかの表現をなし得たかどうか。」
 それから二年後には、次のような文章がある。
 「二年ばかり前、私は『妻への祈り』という手記を書いた。「妻への祈り」という言い方は、言葉として成るいは成立しないかも分らない。祈りは妻へではなく、神へでなければならないだろう。私の気持では「妻のための神への祈り」であった。しかし妻は私にとって神のこころみであった。“私には神が見えず”、妻だけが見えていたと言ってもいい。その限りにおいて、あの題名は私の精神状況を示していた。」(どちらもエッセイ集『非超現実主義的な超現実主義の覚え書』からの引用、“” は引用者)
 これ以上作者の証言は不要だ。作品自体がより多くを語ってくれる。
 『死の棘』など一連の作品に描かれた世界は、まことに悲惨なこの世の地獄である。そして読者が受ける感動は、おもに二つのことに由来する。ひとつは、ここに描かれた事件がどうも作者の身にふりかかった事件らしいということ、つまり、ドキュメントの持つリアリティへの感動。もうひとつは、ここに描かれている「私」夫婦の醜態や罪障の深さがどうも日常ざらにくり返される人間のそれではないか、いや、ひょっとするとこの私のそれではないかという恐怖に裏うちされた感動、つまり、より高度で普遍的なリアリティへの感動である。そして言うまでもなく、これら病妻物が文学的にすぐれているのは、ひとえに後者に由来するものでなければならない。
 先ほど私は、これら病妻物が、それ以前に使ったさまざまな実験が作品の中に確実に定着するための必然的な過程だと言ったが、事実、島尾文学のみごとな開花は、それ以後の諸作品まで待たなければならない。
 体験を自己の中に摂取し、時間をかけてそれを反芻するという苦しい作業を経て、初めて作者は世界と確実につながるのである。たとえそれがいかに狭く細い道であっても。

(ささき・たかし イエズス会神学生)

「あけぼの」、一九六七年二月号