大学人ウナムーノ
はじめに
ジャン・カスーは、ウナムーノの『小説はいかにして作られるか』のフランス語版に付した序文「ウナムーノの肖像」の註で、ウナムーノは「何よりも先ず教授たちに対する憎悪を表明した教授」であると言っている(1)。またウナムーノが、生涯、激しく博学を嫌悪した大学教師であったことも良く知られている。そして彼が、三十六歳の若さでサラマンカ大学総長に選ばれたのも、大学人としての業績よりも、彼が、久しく低迷していたこの名門大学でようやく国の内外に名を知られる、いわゆる「タレント」教授であったためであろうという、うがった解釈もなされてきた。しかし事実はけっしてそうではない。カスーの意見には明らかに誇張がある。確かにウナムーノは、スぺインの大学が等しく陥っていた知的混迷と退廃、そしてそれを助長し、そこに何の疑いも問題性も感じていない多くの大学教師を憎悪したが、しかし彼が教師そのものを憎悪したことはけっしてなかったのである。彼自身の明快な言葉を聞いてみよう。
「何よりも先ず必要なことは、教授が教壇に対して抱いている憎悪の念を持たないことです。説明するより探究することの方が快いことは私も分かっています。しかし、別に偽善的に語るつもりではありませんが、このようなわけで規律とか方法論が有する深遠な道徳性が無視されています」(2)。
分類、方法論、技術的側面に対して終始否定的な見解を述べているウナムーノの、これまたもうひとつの逆説と受けとれないこともない言葉だが、しかし逆説は逆説なりの真実性と重さがここには含まれている。
ウナムーノが大学教授になったのは一八九一年であり、一九三六年の死に至るまで(もっとも一九三五年には現役を退くが)、六年間の亡命生活を除いて終生大学に席を置いた。ただ単に席を置くだけでなく、職務に忠実な熱心な教師であったことは、多くの証言がそれを認めている。
一九一四年八月二〇日、時の文部大臣べルガミンは、何の理由も示さずに、一九〇〇年以来総長の席にあったウナムーノを突如罷免したが、そのときももちろん職務怠慢のためであろうはずがなかった。だれもそのことで彼を非難することは不可能であった。むしろ彼は、あまりに几帳面すぎて、同僚に煙たがられた方である。
もちろん職務に忠実であることが、すぐさま良き教師であることの保証にはならない。しかしウナムーノの場合、単に職務に忠実であったばかりでなく、さらに良き教師でもあったのである。ウナムーノのかつての学生の一人であり、後に有名な歴史家、批評家になったフェデリコ・デ・オニス(一八八五年生まれ)は、師ウナムーノの姿を後年次のように回想している。
「もし誰かに師(マエストロ)という言葉、すなわち地上においてだれをもそう呼んではならぬとキリストが命じられた師という言葉を奉らなければならぬとしたら、彼 [ウナムーノ] だけがそう呼ばれる権利と、そして義務を持っている。彼の授業には、およそたくまれたものがなかった。それはちょうど友人たちの集まりのようなものであり、そこにおいて師は、学生たちの前で日毎に若返ったものだし、われわれの個人的な心配事や、世界に対するわれわれの衝動的で情熱的な感受の仕方に歩調を合わせてもくれた。われわれを結びつけていたのは、狭い意味での学問的関係ではなかった。そうではなく、われわれの精神的生全体が結ばれていたのであり、そしてわれわれは、共に培った学問の具体的諸問題から出発して、根源的かつ永遠の、そしてその本質からして人間的な諸問題へと自らを高めたものである」(3)。
ウナムーノ研究書の多くは、彼が大学教師であったことをつけ足しのこととして、或いは自明のこととして、作家、思想家としての側面に焦点を当てることに専らだが、しかし果してそうであったのかどうか。むしろ、作家、思想家であることは、彼がまず教師であったということから逆に照明されなければならないのではないか。
これについて思い起こされるのは、夏目漱石の場合である。彼は作家業に専念するために大学教師をやめたが、しかしそれによって彼が教師であることをやめたわけではないだろう。もちろんここで言う教師は、職業としてのそれというより、より広義の、或いはより深層の、すなわら天命としてのそれを指してはいるが。
最近、ウナムーノの教師像に焦点を当てたルビオ・ラトーレは、「たとえいかに彼の文学的ならびに哲学的影響力が大であろうとも、ウナムーノの仕事、彼の日常の務めは教授のそれであった」(4)と述べている。また『スぺインとウナムーノ』の著者アーサー・ウィルスも、ウナムーノが現代スペインにもたらした偉大な業績は、「彼が政党人であったとしたら不可能であったろう。彼がサラマンカ大学のギリンア語教授であったからこそ可能であった」(5)と書いている。
さて拙論では、以上のような意味合いから、従来、作家、思想家としての側面の影にかくれて目立たなかったウナムーノの教師像に焦点を合わせてみたいが、しかしその前にウナムーノが大学生活を送り、そして初めて教壇に上ったころのスペインにおける大学の状況一般に関して、ひとわたり眺めてみなければなるまい。
一. 当時の大学の状況
スペインのみならず、およそ大学というものはその国の文化、知的水準、政治のあり方、あるいは国民的宿願と無縁ではありえない。一九世紀、それはスぺインにとって、まさにヨーロッパの水準にいかにして追いつくかが、さまざまな分野で模索された時代である。政治的、経済的、文化的な遅れには歴然たるものがあった。もちろん後に「米西戦争」(一八九八年)において表面化するときのような切迫感をもって感受されていなかったにしても、特に十九世紀中葉から、目覚めた少数者たちの念頭を離れなかったのは、いかにしてヨ―ロッパ先進諸国に追いつくかという課題であった。
しかしこと教育に関しても、スペインの体質に深く喰いこんだあの対立、《二つのスぺイン》、すなわち伝統的なスぺインと革新的なスぺインとが激しく対立していた。
ごく大離把に言って、革新的な陣営は、サンス・デル・リオ(一八一四–一八六九)の流れをくむ《人自由教育協会》La Institución Libre de Enseñanza であり、それと対立したのは、たとえばオルティ・イ・ララやフライ・セフェリーノ・ゴンサレスなどの保守派、《教皇至上主義者(ウルトラモンターノス)、《新カトリック者》、あるいは単に《反動主義者》と呼ばれる人たちであった。
ウナムーノが一貫して前者に好意的であったことは、サンス・デル・リオの衣鉢を継いだとヒネル・デ・ロス・リオス(一八三九–一九一五)に対する時おりの賛辞からもうかがえる。たとえば一九〇三年のあるエッセイで次のように言っている。
「あの幸運なクラウシスモ [サンス・デル・リオがドイツから移入した哲学運動] が換起し助成したもの以上に、スペインにとって実り豊かで有益な精神運動は少ない。この運動は、それをろくに知りもしない者たちによって野蛮だと非難されたり、あるいは逆に賞揚されたりしたが、しかしその彼らにしても、その精神に少なからず浸透され生気付づけられてきたのである」(6)。
だがウナムーノは 彼らクラウシスタたちあるいはインスティトウシオニスタたちのいき方を全面的に肯定していたわけではない。以前、彼の『生粋主義をめぐって』に触れて述べておいたように、彼は一方では、不毛な伝統主義に攻撃の矢を放った革新派に賛意を表しながらも、他方で、真の意味での伝統、すなわち彼の言う《永遠の伝統》を無視する彼らには常に反対の立場をとったからである。
ところで、スペインの大学を考えるにあたって一八五一年は、重大な日付である。すなわちこの年「ローマ教皇庁との和親条約」、いわゆるコンコルダート(8)が締結されて、それまで断絶していた教会と国家のあいだに妥協が成立し、カトリック教会が国教として、改めて正式に宣言された年だからである。そしてその線上で(9)、一八五七年の《公民教育法》 La Ley de Institucioó Publica が発布された。特にこの条令の第二九五条と第二九六条は、教育の自由に関するもので、そこではカトリック正統信仰の教義に抵触する学説を阻止するため、司教や高位聖職者の監督権や書物の検閲権が確立されている。これは先のコンコルダートの第二条を基礎として制定されたものであった(10)。
ウナムーノが教職についたころのスペインの大学は、そうした条例がほとんど有名無実なものとなったとはいえ(おそらくはそのためにこそ)、教育の自由は大きく減退し、無気力と怠惰こむしばまれていた。ウナムーノが奉職したサラマンカ大学は、一二一八年に創立された大学で、かつてはオックスフォード、パリ、ボローニャの各大学と並び称される学問の殿堂であった。
今日もなおプラテレスコ様式の一大傑作として、その見事な建築学的美術的名声を享受している大学正門のファサードには、カトリック両王からの特権授与を示す碑銘が刻まれている。ビトリア(一四八三–一五四六)やルイス・デ・レオン(一五二七–一五九一)の名は、サラマンカ大学の往時の隆盛を証明する。
しかし前述のごとき、スペインのすべての大学がこうむっていた知的混迷と怠情は、このサラマンカ大学にとっても無縁ではなかった。ウナムーノがその後を襲った前総長は一八六九年以来(!)長らくその席にあったマメス・エスラべーである。彼は大きな問題を起こしたことのない、人の良い、しかしきわめて保守的な総長であった。赴任当時の模様を、ウナムーノは後年次のように回想している。
「団体、学園、集合体としての大学? そんなものはほとんど存在していなかった。それぞれの教授は自分の講義に精一杯という有様で、同じ教授団に属する同僚たちがしていることに関心を寄せることはまず無かった。教授たちは試験をするためとか学期の始まりのときだけ威儀を正して集まったが、それはその日割り当てられた講演の断片を聞くためだけであり、その講演にしても、後に何の印象も残さないのがふつうであった」(11)。
二. 教訓的(didascalico)ではなく身をもって(entitativo)
ところで近代教育学の最大の貢献あるいは発見は何であろう。オルテガは、『大学の使命』(井上正訳、桂書房、一九六八年、四二ページ)の中で次のように言っている。
「疑いもなく、ルソーやペスタロッチやフレーべルの、まだドイツ観念諭の精神によってなされた、あの独創的な転換であった。この転換は、一つの自明の理に対する無条件の承認によって成立した。教授 enseñanza には、より一般的に教育 educación には、三つの基本的要素がある――⑴ 教えねばならぬもの、すなわち知識、⑵ 教える者、すなわち教師、⑶ 学ぶ者、すなわち生徒。ところで従来、教授といえば、妙に頑迷に、知識と教師を中心にしてきた。生徒は教育学の原理的要素からはずされていた。それゆえに、ルソー及びその後継者たちの革新は、全く単純なことであった。
すなわち、教育学の基本を、知識と教師から生徒の側へ移すこと、そして、教授を通して、なんらか有機的なものを作りあげる導き手となり得るものは、ひとえに、生徒及びその諸特質なのだということを認めること、ただこれだけのことであったのである」。
ウナムーノが教育を通じて目指したものも、まさにこの近代教育学の目覚めの線上にあったのだが、しかしこのことはスペインの大学において実に希有のことであった。それだけ近代以前にとどまっていたわけである。
先のフェデリコ・デ・オ二スの言葉にもあったように、ウナムーノが目指していたものは、知識の伝達よりもむしろ人間的交流による真実の探究であった。このことはしかし、知識の伝達をないがしろにするということではなく、ただ人間的交流を通じてのみ、真の知恵が涵養されるというほどの意味である。一九〇二年のエッセイ「教育」の中で、彼は自分の教授法について次のように語っている。
「私は授業において、依託された教材を教えるだけでなく、学生たちの心を陶冶し生気づけること、彼らの一人ひとりの上に働きかけることによって教育の務めを果たすよう努めている」(13)。
先に天命としての教師ということについて少し触れたが、その特徴、それを見分ける一つの目安として、次代の青年たちに対する愛情、配慮、期待ということを挙げることができよう。ウナムーノは、「メルキュール・ド・フランス」(一九〇四年二月号)でゴメス・カリーリョが、青年に対して厳しすぎると彼を批判したのに対して次のように答えている。
「カリーリョは、私が青年たちを評価していないようだと言う。ところがそれはまったく逆である。私以上に青年たちに関心を持っている人が他にいようとは思わない。私以上に熱心に新人を捜し、それに関心を持ち続けている人が他にいようとは思わない。私以上に熱情をこめて、彼らが理想への突撃のために一致団結して進軍するのを見たいものだと望んでいる人がいようとは思わない」(14)。
三. 総長就任
一九〇〇年十月、七十歳の停年を迎えた大学教授たちの中に、サラマンカ大学の総長マメス・エスラべーも含まれていた。そして空席となる総長席のため、文部省は内々に就任の意向をウナムーノに打診してきた。
十月十九日の手紙で、ウナムーノは友人のヒメネス・イルンダインに次のように書き送っている。
「マドリードから、総長就任を受諾するかどうか書簡で聞いてきました。良く考えたすえ、私は引き受ける旨を答えました。文部大臣からは、私を任命すると言ってよこしました。事態はかくのごとくなのですが、まだ私は半信半疑です。考えてみてもごらんなさい。保守的な政府が、三十六歳にも満たない他所者、教授になってからわずか九年のこの社会主義者、異端者、破壊的思想の鼓吹者を総長に任命するというのです。それも、先日のような講演をしたあとだというのに」(15)。
ウナムーノのとまどいと驚きも理由のないことではない。というのは、一般に地方主義が強固に根を張っているスペインにおいて、土地者の他所者に対する警戒心と排他主義は珍らしいものではないからである。現在までのところもっともすぐれたウナムーノ伝を書いたエミリオ・サルセードもサラマンカの出身だが、その彼でさえ次のように述懐している。
「サラマンカはレオン王国にしているが、レオン的というよりむしろエストレマドゥーラ的である。アメリコ・カストロ言うところの vividura すなわちスぺイン人たちの生活様式が形成され始めた国土再征服の期間中、ここはアルマソソールの通り道であり、だれの土地でもなかった……フランス人、モりスコ、カスティーリャ人たちによって交互に入殖されてのちも、その大学ともどもつねに精神的洪水に侵された土地であった。ポルトガルに隣接しているため、悲しみ tristeza など少なからずの共通点を持ってはいるが、やさしさ ternura はひとかけらも共有していない。歴史に登場するかしないうちにすべてから切り離され、すべてに背を向けて生きてきた。サラマンカは他人の個人主義を容認しない断固たる個人主義の土地柄である。それは己れの過去をわずらわしく思い、己れの現在には足並を乱し、己れの未来には盲目だ。サラマンカにおいては「そうだからそうなんだ」(ca cual es ca cual)がまかり通り、仮装は何の役にも立たない。なぜならばここではたがいに知りつくしており、各自は他人の弱点を知悉しているからである。野心家の存在を想定させる屈辱はけっして許容しないが、落伍者の恥じらいに対する思いやりも持ち合わせていない」(16)。
もちろんここには、自分の住む土地柄に対するいささか自虐的な観察が見られる。しかしウナムーノがこの異郷にあって常に孤独であり、周囲の無理解、ときとして悪意ある誤解に苦しんでいたことも事実である。
ところで先の書簡にあった講演のことであるが、それはウナムーノがその年(一九〇〇年)の学年始めの式典で行った講演のことである。これはウナムーノ全集(エスセリセール版)第九巻に収録されているが、この講演はそれまでの同種の講演とはがらりと変わった、実に新鮮で大胆な内容のものであつた。簡単に言うなら、そこには前述したような、 ウナムーノの人間中心の教育理念が謳われている。
「私たちのスペインを発見してくれるのは、そして次にそれに一つの目的を刻印してくれるのは諸君です」。
「私たちを教授に、教師にするのは諸君でなげればならない。私たちが言うところの上から(何故そう言うのかははっきりしないが)では、教育の再生はほとんど期待できない。なぜなら教育は行政命令の意のままになるものではないからである。それは私たち教授から来るものでもない。それは諸君からの刺激と励ましを通じてもたらされるものである。私たちを叱吃激励してほしい」。
いままで形式ばった演説を聞いてきた聴衆に、このウナムーノの言葉はまったく場違いなもの、不謹慎なものに思われたに相違ない。しかし最初のとまどいの瞬間が過ぎると、彼らは徐々にウナムーノの真剣さに、その熱誠にひきこまれ、ついには大きな感動の波にゆさぶられた。ウナムーノの杞憂とは反対に、彼の講演は多くの人に感銘をもって迎えられたのである。恒例により、彼の開期演説もマドリードの新聞にさっそく掲載された(17)が、もしかすると文部大臣にウナムーノ総長の構想を思い立たせたのも、この講演であったのかも知れない。
四. ドクトール・モンタルコ
ところでウナムーノがギリシア語教授になったのは、いわば偶然であった。というのは大学の教師になるのがまず当面の目標だったからである。事実彼は、ギリシア語教授の席を得るまで、数回にわたって、心理学、形而上学などの教授職をねらって失敗し、ようやくギリシア語教授の席を獲得している。だから彼には、もともとへレニストになるつもりはなかった。しかも、これが他の科目に合格していたとしても事情はさして変わりがなかったであろう。
つまり、彼にはそれが何であれ専門家になる意志ははじめからなかったということだ。しかしだからと言って、彼がギリシア語の教授をおろそかにしたということではない。彼の学生の一人であったG・エスピノは「彼の教授法は実にすぐれたものであったので、きわめて短期問でわれわれはギリシア語の基礎構造をマスターすることができた」(18)と言っている。
また彼自身の次の言葉もある。
「私にはへレニスト的な要素が非常に少なかったにせよ、私の最大の内的労働はギリシア語ならびにギリシア文学を教えた日々がおそらくそれであろう」。そして「いつの日かギリシア語の授業の成果を発表しようと思う」(19)とも書いている。残念ながら、彼のその計画は実現することはなかったが、しかし彼がギリシア語教授に全力を傾注したことは以上で明らかである。
もちろん彼が授業を通して求めたもの、彼が目指した最終の目的は、単なる知識の伝授ではなく、学生たちが真理探究の意欲に燃え立つこと、さらにウナムーノ的な表現に従うならば、学生一人ひとりのうちに真の懐疑が、真の不安が目覚めることであった。
しかしウナムーノは、自分が専門とするギリシア語研究の分野でほとんどその成果を発表しないことに関して、内心忸怩たるものがあったのかも知れない。というより、周囲の冷たい眼を終始感じていたのかも知れない。その意味で、一九〇四年に書かれた「ドクトール・モンタルコの狂気」(20)は示唆的である。モンタルコ氏が架空の人物なのか、それとも実在の人物から想を得たのかは分からない。しかしとにかく、モンタルコ氏が実はウナムーノの自画像であることには異論が無かろう。ウナムーノ同様彼も他所者であり、医者としてはすぐれているが、時おり幻想的な小説を発表するという気まぐれがあり、そのため保守的な町の人たちからは次第に警戒され、また気違いであるとのうわさを立てられ、ついには本当に精神病院に入れられてしまう。さてこのモンタルコ氏は、どうして専門とする医学の分野で研究を発表しないのかという質問に対して次のように答えている。
「この恥知らずどもは、どうして私に専門分野について書くことを望むのだろう? 私が医学を学んだのは病人を癒すため、またそうすることによって生活の糧を得るためだ。事実私は彼らを癒しているだろう?それなら彼らの愚かさなど意に介さず、私のことなどほっといてくれたまえ。他人のことにくちばしをつっこまないでくれないか……他人をそれぞれその専門に押しこめようと熱心な人たちがよくいるものだが、君はそこにどれだけ測り知れないほどの道徳的悲惨が秘められているか想像することもできないだろうね」。また彼は、自分の創作が人々から実に偏見に満ちた眼差しで迎えられていることに関してこう言っている。
「他の国であったなら読者をひきつけるはずのそうした風変わりなところも、ここではただ人々を驚かせるだけなんだ」。
もちろんここで彼の言う風変わりなことというのは、芸術のための芸術のことでもなければ、美のための美でもなく、またいたずらに珍奇さをねらったそれでもなかった。彼ならびにウナムーノが目指していたもの、それは「彼らに既成の思想を与えることでは決してなかった。わたしはいつも人の心を揺り動かすことを求めてきたのであり、教えさとすよりもむしろ暗示することを望んできたのである」(21)。
一九〇二年、ウナムーはブンヘの『教育論』のための序文を書いたが、これは彼自身の教育理念を知るための重要なエッセイと言える。まず彼は、自分が専門とするギリシア文学、ギリシア語研究に専念しないことに関して、「わが国のように非常な遅れを見せ、 一般教養がかくまで衰退し狭小な国にあっては、学問上の専門化は、たとえその効用がいかに大きかろうとも、不都令の方がさらに大きい」と述べ、また一国にとって教育というものが領土の拡大、産業の発達よりいかに重要なものであるかを述べている。
当然、彼の授業はカリキュラムに則ったものではなかった。ギリシア語の授業にしても、彼は文法から教えたのではなく、初めからギリシア語原典を味わいつつ読み進めていく過程で、学生が自然に文法上の規則や活用を習得するように努めた。
「講義計画! 私はかって一度も授業のために、そのいわゆる規則上の講義計画を作成したことなどなかった。ただ私は、そこらの教科書の目次を写すだけにとどめてきた。講義計画!| 学科目! これらの言葉は《大過去》Pluscuamperfecto という言葉に次いで、カスティーリャ語が有するもっとも醜い言葉である。未来のために計画を立てる者は反動主義者であるとカール・マルクスが言ったのは正しい。過去のために構想を練るというわけにもいかないわけだし……なぜならその場合にそれらはメタグラム [後からの計画] となるからである。いや言葉遊びはやめておこう」(23)。
五. 講演者ウナムーノ
毎朝八時からの授業、総長職にまつわる種々の雑務、新聞・雑誌への寄稿、創作、休日を利用してのスペイン発見のための旅行。第三子ライムンディンの不幸(一八九六年に生まれたが、脳水腫をわずらい、寝たきりの生活を送ったすえ、一九〇二年に死去)を別にすれば、ウナムーノの日常は波風の立たない静かな生活のそれであった。次女フェリーサ夫人は現在もなおかくしゃくとして、サラマンカの町に住んでいるが、彼女の思い出によれば、ウナムーノは太陽と共に起き出し、太陽と共に一日を終える几帳面な人だったらしい。しかしそうだとすると、ウナムーノはいつ創作したのだろう。フェリーサ夫人によると、それは勤めから帰ってから夕食前のひととき、そして夕食後就寝までのわずかな時間ということだが、生涯書き残した厖大な量の作品はきわめて短時問のうちに書きとどめられたことになる。ということはウナムーノの作品が、決して日常生活と分離したものではなく、創作活動そのものが日常と化した、そのような状況下で書かれたものということになる。古きローマのことわざのごとく、ウナムーノにとって「一行とて書かぬ日はなし」 Nulla dies sine linea というわけである。ウナムーノの創作法が即興的であり、「思いつくまま」a lo que salga であったこともうなずける。
しかし拙論の主題にもどらなければならない。つまりここで言いたかったのは、そうした多忙なウナムーノの活動の中に、書簡作者ウナムーノと講演者ウナムーノという側面をつけ加えなければならないということである。(さらに後年、そこに政治家ウナムーノという重要な側面を追加しなければならないことは言うまでもないが)。
そしてここでは総長職にまつわる講演者ウナムーノについて述べてみたい。一九〇〇年の例の開期講演については先に触れたが、エスセリセール版全集第九巻に収録されている講演草稿あるいは講演筆記だけでも五十二ほどあり、A5判にぎっしりつまった活字で約四百十ページほどになる。その量はともかくとして、「荒野に叫ぶ人」としてのウナムーノの姿を彷彿とさせる講演の数々である。ウナムーノは口べたではなかったにしても、決して話上手ではなかった。ガルシア・ブランコは、「彼の身ぶりには派手なところはまったくなかったが、しかしきわめて表現豊か」であり、その声は「金属的な音色をしたどこかかん高いものであった」と言っている(25)。
ところでウナムーノの数多い講演の中でも、先の講演以上に重要なものは、一九一四年十一月二十五日、マドリードの「エル・アテネオ」で行った「スぺインにおいて大学総長はいかにあるべきか」と題する講演であろう。その年の八月二〇日、文部大臣ホセ・べルガミンは、まったく突然にウナムーノを総長職から罷免した。その理由はいまもって謎である。七月九日、べルガミンは、ウナムーノがコロンビア出身の学生にサラマンカ大学の学位を授与したというのは本当かどうか手紙で問い合わせてきた。ウナムーノは何をいまさらそんなことをと大いにいぶかりながらも、同月十三日の書簡で、その学生への学位授与はコロンビアとの相互取りきめで認められている範囲内のことであり、事実コロンビアの文部大臣、ならびにスぺイン外務省の次官によっても査証されている旨を答えた。それでその件は落着したと考えたウナムーノは、夏休みをポルトガルで過す家族を送ってフィゲイラ・ダ・フォスに行った。そして、三〇日にサラマンカに帰った彼は、プラサ・マヨールに貼り出された新聞のトピックスの一つに、べルガミンが自分を罷免したとの見出しを見て愕然とした。
サラマンカの市民にとっても、その頃ヨーロッパの空を覆っていた戦雲のことより、この総長罷免の二ユースの方が衝撃的であったろう。この事件はウナムーノのその後の生き方そのものに重大な転機をもたらすものとなる。
しかし罷免の理由はともかくとして、ウナムーノがこの事件を、大学の自由、教育の自由に対する重大な侵害とみなしたこと、そしてこの事件を機に、スべインの良識ある知識人たちが意見の相違を越えてウナムーノを擁護し支援したことの方がより一層重要である。前述した「エル・アテネオ」での講演は、前総長ウナムーノが切迫した状況の中で、そのぎりぎりの教育理念を打ち出したという意味でとりわけ興味をひく。
「大学総長がいかにあるべきかという問題は、私がいままでそうあらんことを願ってきたものが何であるか、またそうした総長職の理想に実際上の職務を適合させるために払った私の努力についてお話ししないでは不可能です」
こういう言葉で始められたこの講演は、罷免された己が立場の擁護を初めから越え出て、むしろ教育の自由を侵害したロマノーネス体制への攻撃であり、果敢な告発であった。
「現在のスペインの大学についてそれを瓦礫であると言うことはできない、なぜならそれはもともと存在していないからである」。ウナムーノの告発は激烈であり、歯に衣を着せなかった。そして彼の罷免がもしも高邁な思想の争いの犠牲であったならまだしも、実はくだらない党派争いの犠牲にすぎなかったと激しく抗議している。
六. 大学の自治、教育の自由
結局ウナムーノが政府からにらまれたのは彼が政府の言いなりになるロマノニスタにならなかったからであり、各大学から出る上院議員 (もちろんロマノーネスの禁衛隊員となる) を出すことをことわったからである。ロマノーネスの言いなりになっている文部大臣、そしてその文部大臣の下僕になりさがる総長、ウナムーノはここに大学の嘆かわしい権威失墜を見た。そして知性と理念への恐るべき憎悪を見た。
しかしウナムーノは、大学が国の監督からまったく自由であることを主張しているわけではない。むしろ大学の自治を主張できるほど大学に秩序が打ちたてられていないことを指摘するのである。ウナムーノが総長職にあった十四年間、大いに苦慮したのは教授たちの怠慢、無気力についてであった。政府への抗議もさることながら、無気力で怠惰な大学教師たちに対する告発も辛辣をきわめている。「彼らの三つの主な気がかりは、序別表、教科書、そして休暇であるのがふつうだ」。
「それゆえ私はスぺインの大学生たちに向かって、明らかに愚かしい講義の聴講を義務づけられることに我慢していてはいけないと口をすっぱくして忠告してきた。たとえばラボアジエ以前の化学、プトレマイオス時代の天文学、十八世紀どまりの論理学、地獄の存在をつかっての倫理学……そして何たることか、世界が創造されたのはキりスト生誕前の何年何月何日かを説明する講義までがあるのだ!」
「諸君、もうお分かりのことと思う。もしも私が総長としての務めにおいて誤ちを犯したとするならば、私が国の活動、法の働きへの熱心な崇敬から国家管理論者だったことである。私はかびのはえた法律を再生しようと望んできた。私がいま誤ちと言ったわけは、(私は諸君に告白しなければならない)、おそらく国家管理論というものは、私たちの場合のように、そしてとりわけ教育問題に関して、真の国家すなわち市民的国家、正義の国家が存在しないときには一つの重大な誤ちであるからである。われわれのうちにあっては、そうした国家の機能を政府と呼ばれるものが奪いとっている。そしてこの政府はふつう哀れな選挙機械、実入りが多くて楽な職業の分配人以上のものではないのだ」。
ウナムーノの言わんとしていることは明らかである。己れの怠慢と怠惰を糊塗するための大学の自治などむしろウナムーノは嫌悪したろう。しかしだからと言って、反知性的かつ党派的な政府の監督下にある大学をそれ以上に嫌悪した。
ウナムーノの念頭にあったのは、決してサラマンカ大学のことでもなければ、ましてや己れの総長職のことでもなかった。彼が望んだのは大学教育を通じて、スぺイン民族を精神的かつ道徳的に高めることであった。言うまでもなくそれは狭少な民族主義的信念などではなく、彼の言う「永遠の伝統」に根ざしたすぐれて普遍的な信念であった。
ウナムーノはダーヴィン生誕百年祭を記念したのがスペインの大学中わずかバレンシア大学だけだったことを嘆いている。「はたしてわが国の大学にとってヨーロッパは、世界は存在しているのだろうか? 否! である。そしてヨーロッパにとってもわが大学は存在していない。いやスぺインにとっても存在していない。それ自身にとっても存在していないのだ」。
七. 知性万歳!
ウナムーノは、総長職に復帰することを望んではいなかった。副総長になることも拒否した。そしてこの事件以降、ウナムーノの存在は以前にも増して為政者たちにとって脅威であり、スぺインの自由を望む人たちにとって希望の象徴となった。それが総長罷免のときよりも劇的に表出するのは、一九二四年、独裁者プリモ・デ・リべラにより国外に追放されたときである。
国外追放の詳しい事情、そしてそれがウナムーノに対して持った意味、さらにその輝かしい帰国についてここで触れることはできないが、そうした一連の事件、行動を通して現われてくるウナムーノの姿は、やはり国民の教師たらんとした師(マエストロ)ウナムーノのそれである。彼の精神的先達ラーラのように、ウナムーノにとってそのスペインはつねに痛んだ。彼の夢想したスペインは、現実のスぺインにつねに裏切られた。一九三四年、共和国政府により終身総長に任命された彼が、二年後の八月にその同じ政府によって罷免され(あるいはその特権が廃棄され)、次いで九月一日にはブルゴスの国民防衛評議会によって再度身分を回復され、十月二十八日にはまたもや罷免されたことなど、先の事実を悲しく物語っている。
その年(一九三六年)の誕生日を迎えるころ、ウナムーノは病に倒れた。そして右翼政権に妥協したかに見えたウナムーノに失望したのか、かっての友人たちも彼から次第に遠ざかっていった。
ウナムーノが総長としての最後の務めを果たしたのは、十月十二日、「民族の日」の祝典に際してである。何人かの講演のあと、ウナムーノが立ちあがってこう語り始めた。
「私は今日は話をしたくないと言いました。なぜなら私は自分のことを承知しているからです。しかし舌が勝手に動き出したので、私はお話をしなければなりません。先ほどキリスト教文明の擁護のための国際戦争についてのお話がありました。私自分も何度かそのための戦いをやってきました。しかし私たちのそれはただの非市民戦争にすぎません。……勝つことは納得させることではありません。しかし私たちは何よりも先ず納得させなければならないのです。同情のための余地を残さない憎悪は納得させることができない。……またカタルーニャ人やバスク人について、彼らは反スぺインであると言われました。そうであるなら、彼らとて同じ理由からあなたたちに同じことを言うことができましょう。ここにおられる司教はカタルーニャの人ですが、彼はあなたがたの知ろうとしないキリスト教の教えをあなたたちに教えています。また私はバスク人で、あなたがたの知らないスペイン語を生涯あなたたちに教えてきました……」(27)
このとき演壇にいたミリャン・アストライ将軍、このフランコの右腕(もっとも彼自身は戦闘で片腕になっていたが)、外人部隊の鬼将軍がたまらず「知識人は死ね!」と叫んだ。それに対してウナムーノが「知性万才!」と答えたかどうかは伝記作者たちによってまちまちだが(28)、右翼の怒号と喚声の中で叫び返したが「知性万才!」であってひとつも不思議ではない。彼が生涯愛してきたサラマンカ大学、その講堂が知性を憎む右翼の集合所と化したことに彼は底知れぬ淋しさと、そして怒りを覚えたに違いない。
二月後に訪れた彼の死は、左右両翼のたがいに醜い憎悪をむき出しにした、兄弟相争う「非市民戦争」の始まり、長い「知性の死」の季節の始まりをさらに確認するものとなった。しかし彼が『生の悲劇的感情』の終章で祈ったように、スぺインの荒野に叫ぶ声は、「いつの日か音の反響する森へと変化するであろう。そして種子として荒野にとどまる孤独の声は巨大な杉となり、その幾万という舌でもって、生と死を司どる主なる神に永遠に讃歌(ホザンナ)をうたう」(29)であろう。現在のスペインの大学が、ウナムーノが望んだ意味で、真の学問の殿堂、良識の府であるのかどうか、それはまた別の問題である。
註
(1) Obras Completas de Unamuno, vol. VIII, Ed. Escelicer, Madrid, 1966, p. 714.
(2) 一九一二年三月十八日、フェデリコ・デ・オニスあての書簡。後述のラトーレ著一〇七ぺージ参照。
(3) Cfr. María de Maeztu: Antologia-siglo XX, Espasa-Calpe, Madrid, 6 ed., p. 138.
(4) R. Rubio Latorre: Educación yeducador en el pensamiento de Unamuno, Ediciones Instituto Pontifico San Pio X, Salamanca, 1974, p.117.
(5) Arthur Willis: España y Unamuno, Ed. Instituto de Las Españas en Los Estados Unidos, New York, 1938, p. 93.
(6) O. C. de Unamuno, vol. I, p. 1069.
(7) 「生粋主義をめぐるウナムーノ」,清泉女子大学紀要、第一九号、一九七一年。
(8) コンコルダートには、一七五三年のもの、一八五一年のもの、そして現在なお有効なものとして一九五三年のものがある。しかし最後のものは前二者と違って、係争関係にある両者の和解ということではなく、むしろ従来の依存関係をさらに強化せんとしたものである。しかし現在、スぺインの知識人たち、とりわけて聖職者、大学関係者の最大の問題の一つとなっているのがまさにこのコンコルダート問題である。本年四月、筆者はこの問題のために持たれたパネル・ディスカッション(マドリード、チャミナーデ寮)を見学する機会を持ったが、満堂を一杯に埋めた学生たちやパネラーたちの熱心な討議は、一種異様な印象として残っている。いったい世界のどこで、これだけの問題意識と熱心さをもって、教会と国家の関係が議論されるところがあろうか。時代遅れも甚だしいと一笑に付すことは容易だが、また同時に、こうした問題をめぐって熱論をたたかわす状況に対する、言わくいいがたい羨望を感じたことも事実である。ところでローマ教皇庁とコンコルダートをとりかわしている国は、現在ではスぺインを除いてはイタリアとドミニカ共和国のみである。
(9) より直接的には、一八四五年の王の勅令の結果である。これはフランスのナポレオン体制からインスピレーションを得たもので、大学ならびに高等教育のすべてを一本化するもの、すべてを国の管理下に置くものであった。J. L. Abellán: La cultura en España, Editorial Cuadernos para el Diálogo, S. A., Madrid, 1971, p. 230参照。
(10) これと同じ内容のものは、一九五三年のコリコルダート第二条でも繰り返されている。
(11) O. C. de Unamuno, vol. IX, p. 1195.
(12) Cfr. P. Laín Entralgo: El problema de la Universidad, Editorial Cuadernos para el Diálogo, S. A., Madrid, 1968, p.127.
(13) O. C. de Unamuno, vol. I, p. 1022.
(14) A・マタイス、J・マシア編『ウナムーノ、オルテガ往復書簡』、以文社、一九七四年、一〇五ぺージ。
(15) Cfr. Hernán Benítez: El drama religioso de Unamuno, Buenos Aires, 1949, p. 320.
(16) Emilio Salcedo: Vida de don Miguel, Ediciones Anaya, S. A., Salamanca, 1970, p. 201.
(17) Cfr. O. C. de Unamuno, vol. IX, p. 9.
(18) Cfr. R. Latorre, op. Cit., p. 133.
(19) Ibid., p. 131.
(20) O. C. de Unamuno, vol. I, pp. 1127-1136.
(21) 「私の宗教」、神吉敬三、佐々木孝訳『キリスト教の苦悶』所収、法政大学出版局、一九七〇年、十二ページ。
(22) O. C. de Unamuno, vol. I, pp. 1012-1023.
(23) O. C. de Unamuno, vol. VIII, p. 1154.
(24) 同名のエッセイがある。エスセリセール版全集、第一巻、一一九四-一二〇四ページ。
(25) Cfr. O. C. de Unamuno, vol. IX, p. 8.
(26) O. C. de Unamuno, vol. IX, pp. 297-313.
(27) E. Salcedo, op. Cit., p. 415.
(28) この事件に関しては、Margaret Thomas Rudd: The Lone Heretic, University of Texas Press, Austin, 1963, pp. 294-303 に詳しい。
(29) O. C. de Unamuno, vol. VII, pp. 301-302.
「清泉女子大学紀要」、第二十二号、一九七四年