7. オルテガ哲学と隠喩(1975年)


オルテガ哲学と隠喩


はじめに

 「オルデガ著作集」全八巻(白水社、一九六九-七〇)ならびに彼の個人誌「傍観者」の翻訳(1)によって、オルテガの代表作はほぼ余すところなくわが読書界にも紹介されてきた。しかし『危機における人間と学問』(一九六九年、未来社)の中でオルテガを論評した折原浩氏、そして故三島由紀夫氏という思わぬ共鳴者の存在を別にするなら(2)、彼の著作はいまだしかるべき評価を受けていないというのが実状である。というのは、三島氏の場合にも典型的にうかがえるように『大衆の反逆』、『無脊椎のスぺイン』など、現代文明批判や大衆論という社会科学の分野における彼の業績にもっぱら関心が寄せられ、彼の思想が哲学の世界にもたらした根源的な視点の変革の方はあまり注目されていないからである。
 その理由はいろいろ挙げることができよう。たとえば、彼が、ハイデッガーの『存在と時間』(一九二七)やサルトルの『存在と無』(一九四三)のように、まとまった形で(体系的に)自己の哲学を展開しなかったこと、あるいは彼の文体が、いわゆる哲学的な文体とは異なり、言うなればきわめて文学的な装いを持っているため、そこに盛りこまれている重要な哲学的内容が見過ごされてしまう、などの理由である。つまり彼の思想展開における体系の欠如と彼の文体の問題である。
 確かに彼の著作にはへーゲル流の体系は見当たらない。ほとんどの作品が未完の趣さえ呈している。良く言えばそれは常に「開かれている」ということだが、しかしそれが一つの欠点であることは否定できない。たとえば中期の代表作『ガリレオをめぐって』(一九三三年、ただし一書にまとめられたのは一九四七年である)は次のような文章で終わっている。
 「しかし私は、十五世紀の後半において勝利を収めようとしている、この改革的で人文主義的な新しい生の形式のほんの入口に立っただけにすぎません。時間が限られていたからであります」(3)
 もちろんこれには、連続講演という形式をとった論考であるという事情を考慮に入れなければならないが、しかし大なり小なり、彼のすべての著作には、この 「尻切れトンボ」いう感じがぬぐい切れない。彼が「観念の狩人」と評されるのもこうした彼の姿勢と無縁ではなかろう。すなわち狩人がもっとも喜びとするところは、獲物をとらえることにあるのではなく、獲物を追いつめることそれ自体にあるからである。
 だが、彼に本当の意味での体系がなかったかというと、事情は少々複雑となる。ここでわざわざ「本当の意味での」とことわったわけは、体系というものをたんに形式的な論理一貫性、斉合性としてではなく、その哲学思想の根源にまぎれもない一つの光源が存在し、そこからすべての思考が発し、流れ出る、そのような内面の体系を想定したからである。
 もしそのような意味での体系を考えるなら、オルテガはきわめて体系的な思想家であったといわなければならないであろう。彼の哲学の光源、それは「生」である。それは生物学で言う「生命」ではなく、いわば伝記的な「生」、つまり個々人の生である。それは「究極的実在の領域、すなわちそれが根本的であり、自分の下に他のどのような実在をも許さず、むしろそれが根底であることから、必然的にその上にあらゆる実在が現われるような領域もしくは実在界」である。
 この 「生」が、彼の思想の中に初めて登場するのは、 一九一〇年の『楽園のアダム』においてである。
 「人間が生まれ、そして生き始めた時、同時に世界の生も始まった」。
 「ちょうど一本の若木のように、楽園にアダムが現われた時、われわれの言う生もまた存在しはじめたのである」(4)
 こうした考えは、四年後、『ドン・キホーテに関する思索』(一九一四)において、初めて哲学的な命題へと結晶してゆく。すなわち、「私は私とその環境である」という有名な定式である。なぜなら、この定式は、「私は私の生である」と言い換えても同じだからである。
 だが拙稿は、オルテガの「生」理論を考察の直接の対象とするものではない。ただ、ここで、オルテガの全哲学が、この「生」を中心に据えた巨大な体系以外の何ものでもないことを指摘したまでである。オルテガはおよそ雑多なテーマをめぐって思索を展開したが、しかしその根底にはつねに、彼の言う「生」の観点が厳として存在していた。『大衆の反逆』や『無脊椎のスぺイン』も、実は彼の「生」理論の応用例以外の何ものでもないのである。オルテガの作品としては比較的近づきやすいこれらの著作が、しかし根底においてはかなりの難解さを秘めているのは、この新しい観点が彼のすべての思考をつらぬいているからにほかならない。



一 哲学と文体

 ところで、オルテガの哲学がしかるべき評価を受けていないという理由の第二は、前述のように彼の文体にかかわっている。ふつう文体とか表現の問題は文学に属する問題であっで、哲学それ自体にとってはさして重要でない二義的なものだ、と思われている。深い思索を問題にするとき、文体などは物の数ではないというのであろう。特にわが国では、翻訳の問題とからみあって、哲学における文体の問題がなおざりにされているきらいがある。だが、はたしてそうであろうか。先のような考え方は、文体とか表現というものを、ひじょうに挟い、偏った意味で、つまり「美文」とか「詩的表現」というふうにとらえていないであろうか。しかしながら、プラトンが真に哲学者たりえたのは、彼がギリシア語という知的遺産を駆使して、新しい文体を創り出したからであり、デカルトが後世にもなお大哲学者たりえているのは、彼がフランス語を用いてきわめて高度な文体を創始したからであるという、あたり前の事実が看過されている。
 「この文章はうまいが、内容はない」ということをわれわれはしばしば口にするが、しかしよく考えてみると、これは矛盾した言葉であるということに気がつく。そこには、「言葉はたんなる表現の手段にすぎない」という素朴な誤解があるようだ。だが、「文章がうまい」ということと、「内容がある」ということは、ほんらい別々のものではない。すなわち、文章を作る、何万とある言葉の中から、特にこの単語を、この表現方法を選ぶという行為のうちに、すでにその人の価値観・世界観が映し出されているのである。なぜならそれは、「作者が現実世界のなかで<社会>とのひとつの関係を選びとる行為を意味する」(5)からである。そして哲学というものが、その同じ現実世界の根本把握を志ざす学であることを考えるなら、文体あるいは表現が、哲学それ自体にとっていかに本質的なものかが分かるはずである。だから、もし真実に「うまい文章」なら、必然的に「うまい内容」があるはずなのだ。
 さて、オルテガ哲学の、いわばつまづきの石は、まさに彼の文章のうまさにあった。彼がいわゆる哲学的な文章の持つ固苦しさ、無味乾燥さを捨てて、文学性豊かな魅力的文体を駆使したからである。
 彼がそもそもの初めから、このような文学的装いをこらした文体によってその思想を展開しなければならなかったのには、主に二つの理由が考えられる。
 一つは、彼が世に出たころ、スぺインには哲学的著作を受け入れるだけの素地ができていなかったということである。彼がマドリ―ド大学形而上学正教授になったのは、一九一〇年、そして、一九〇二年ごろから雑誌・新間などに散発的に書いてはいたが、初めて一書を世に問うたのほ、一九一四年の『ドン・キホーテに関する思索』である。そしてこの処女作の冒頭で彼は次のように書いた。
 「第一巻は、思索という題の下に、およそ哲学不在とも言うべき状況に生きる一人の哲学教授が出版しようとする、様々の教えから成るいくつかのエッセイを予告したものである」。 文中、「哲学不在とも言うべき状況」とあるが、これは原文ではラテン語で in partibus infidelium となっている。直訳すれば「不信の徒の中」である。筆者は、一九六八年発行の現代思潮社版では、それを「不信の徒にあてて」と訳出しておいた。しかしその翌年の白水社版「オルテガ著作集、第一巻」で、長南実教授は、そこを「未信者たちの土地における司教のごとき」と訳された。なるほど後者の方が、ラテン語の前置詞 in の訳としてたしかに正確である。というより、この場合 in を「あてて」と訳すことは絶対に無理である。なぜならその場合 in の後に対格が来なければならないからである。
 それに、彼の姿勢からして、「あてて」というより「おける」の方がよりふさわしい。なぜなら彼は、思想的に貧困だった当時のスペインを、「外から」啓蒙するというより、むしろ「内から」揺り動かそうとしていたからである。それで一九七四年の第三版において、筆者はその箇所を、「およそ哲学不在とも言うべき状況に生きる」と修正した。象嵌修正のため、字数をそろえなければならなかったという制限があったが、これによってオルテガの真意をかなりの程度まで訳出できたのではないかと思う(ただし、隠喩を隠喩として遇さないという無念さは残るが)。
 話が少々脇道にそれたが、筆者の言いたかったことは、オルテガが哲学者として世に出たころ、スペインには哲学的著作を受け入れる地盤がなく、ために、彼は内部から、すなわちスぺイン語そのものの可能性を極限まで掘り起こしつつ、徐々に地盤を整地していかなければならなかったこと、そのためのもっとも有効な手段は、新聞・雑誌などを通じて、文学的装いのもとに、徐々におのれの思想を展開することであったということである。
 しかし問題は、オルテガならびにその仲間たちのたゆまぬ努力によって、スぺインにも哲学的著作を受けいれる素地が(彼の著作、ならびに彼の起こした「レビスタ・デ・オクシデンテ」が現代の代表的哲学者たちの著作を精力的にスぺインに紹介してきたことなど)かなりの程度までできあがったあとでも、なお彼の著作には、いわゆる専門哲学風の展開が無かったということである。
 つまり、第二の理由は、そしてこの方がより本質的な理由なのだが、オルテガが切り開いた新しい地平が、従来の哲学的用語法をもってしてはとうてい表現できないものであったということである。だからといって、新造語を濫発することはむしろさらに混乱を招く。既製の言葉を用いて、しかもなお新しい現実を表現することはできないか。かくして彼はその方途を隠喩のうちに発見するのである。
 「探究者が新しい現象を発見したとき、すなわち新しい概念を形成するとき、それに名前を与える必要が生じる。新しい単語は他の人たちにとっては何の意味も持っていないゆえに、彼は通常言語のレパートリーを理解してもらうために、その通常の意味が新しい意味と何らかの類似性を有する言葉を選択する。かくして、その用語は、古い言葉を越えて、またそれを仲介者として、つまりそれを放棄することなく、新しい意味を獲得する。これが隠喩である」(6)
 つまり隠喩は、けっして冗長なものではなく、まさに簡潔への確固たる意志から生まれるものなのだ。隠喩は数え切れないほどの説明を節約し、まわり道を避け、その望むところにまっすぐ向かうものなのである。
 したがって、オルテガが自己の思想を述べる際に、好んで隠喩を用いたというのも、彼がことさら文学的に飾ったり、あるいは曖昧に表現するためでなかったことは明らかである。彼自身、このような意味での哲学の軟化を極度にいみ嫌い、警戒している。一九二四年の「生命主義でも合理主義でもなく」の中では次のように言っている。
 「漸進的に哲学に、言葉の持つ最も厳密な意味での哲学に近づいていく以外に方法はない……今までは叙情的な手段をもって哲学的な問題へと人々を導いてゆくことが必要だった。しかし今は第二歩を踏み出すべきとき、そして哲学を哲学的に論ずべきときである……哲学は、精神的な厳しさ、正確さ、そして抽象という空気を呼吸してのみ生きることができるのだ」。
 しかしここで言われている「叙情的な手段」のうちに、隠喩が含まれていないことは明らかである。もしある人が哲学の中に隠喩が使われていることに反対をとなえるとしたら、それは多くの場合、哲学とは何か、隠喩とは何か、を知らないことを端的に表わしている。すなわち隠喩的に表現されていることを、つまり斜めにゆがめられて言われていることを、字句通りまっすぐに解釈しようと無理するところから来る誤解である。たとえば、「心の底から」という表現を前にして、「何だ、精神的なものに<底>などという空問を表わす用語を使うとはけしからんではないか」という非難に、この誤解は相当する。だがわれわれの住む世界が、そしてわれわれ自身が、彼の望むような直截な、そのものずばりの表現の中に押しこめられないものであることの方が、より大きな問題なのである。



二 隠喩とは何か

 オルテガの著作をひもといて、まず感じるのは、その豊かなイメージに満ちた文章の魅力である。そしてその魅力の根をさぐっていくと、われわれの前に立ち現われるのは、彼の文章にちりばめられた隠喩である。
 オルテガ哲学の自他共に許す後継者であり良き紹介者でもあるフリアン・マリアスは、これに関して次のように言っている。
 「オルテガにとって隠喩が何を意味していたかに関して明確な見解を持たないならば、彼の思想研究は不可能であり、また同時に、それは彼の哲学の理解をほかにしては不可能である。彼の哲学と彼の隠喩とのあいだには、二重の関係、すなわち往還の関係がある。つまりオルテガは、隠喩についての哲学理論を作りあげ、同時に、彼において隠喩は哲学的探究の表現手段、というよりむしろ実在に関する哲学的表現なのである」(8)
 一九一四年、つまり彼の処女作『ドン・キホーテに関する思索』が世に出た年、彼はJ・モレーノ・ヴィーリャという当時ほとんど無名の詩人の作品『旅人』(El pasajero)への序文を書いた。「プロローグの形をとった美学の試み」(9)と題するこの作品は、彼にとって隠喩が何であったか、を知るための恰好の材料を提供してくれる。
 ただし、この序文の内容それ自体はいささか焦点がぼやけ、言葉づかいも、ネルソン・オリンジャーが言うように(10)、「不正確で動揺し、曖昧」なところが見られる。しかし隠喩としてこれを見るとき、実に卓見に満ちたすぐれた論考であることは否定できない。
 彼はそこで、レバンテ地方出身の詩人ロぺス・ピコーの詩の一節を例として出す。

 És com l’espectre d’una flama morta
 (死せる炎の幻影のごとき)

 これは糸杉の隠喩である。ところでここで隠喩の対象となっているものは何であろうか。それはもはや糸杉でも炎でもないし、ましてや幻影でもない。これらはすべて現実界のイメージに属している。しかしわれわれの前に立ち現われる新しい対象は「糸杉―炎の幻影」である。つまり、ここで生まれた新しい実在たる糸杉は、従来の糸杉でなく、また炎も従来の炎ではない。糸杉と炎とのあいだにある唯一の共通性はその輪郭である。つまり詩人は荒野の中に佇立する糸杉を見て、それを炎のごときものと感じとったとき、その連想の端緒には輪郭の共通性があったことは確かである。
 しからば隠喩の本質は、異なったもののあいだにある類似性に基づいているのであろうか、一見そのようにも思える。だがどのような隠喩であれ、それがわれわれに何か新しい実在を啓示するものであるとき、実はわれわれの心をとらえる感動は、現実に存在するいかなる類似性よりもはるかに深い、また決定的な同一性から生じる感動なのである。つまり積極的な類似性(この場合は輪郭の類似性)は、隠喩を成り立たせるきっかけではあるが、それ以上のものではないのだ。
 注意しなければならないのは、隠喩がその支えとする類似性は、現実的視点からとらえるならば、つねに非本質的なものであるということである。先ほどの例からするならば、糸杉と炎のあいだにある輪郭の類似性はきわめて外面的なものである。
 したがって、隠喩のメカニズムは、現実の糸杉と対置された、いわゆる美としての糸杉という新しい対象を作りあげることにあると言えよう。そしてそれを可能にするためには二つの操作が必要である。すなわちその第一は、視覚的かつ物理的な実在としての糸杉からわれわれ自身を解き放つこと、つまり現実の糸杉を消去すること、そして第二は、現実の糸杉に美という性格を付与すること、或るきわめて繊細な新しい特性を付与することである。
 隠喩は、相互に異なる事物間の類似(アシミラシオン)あるいは等置だと考えられてきた。しかしそれはまちがいである。もし両者間の類似性だけを主張するなら、隠喩の魅力と効力は消滅し、ただ幾何学的な、意味のない観察が残るだけであろう。そうではなくて、隠喩は比べられる両者問を、現実の類似性によりかかりながら、絶対的な同一性を (先ほどの例だと、糸杉と炎の絶対的な同一性) を主張するのだ。そしてこれは現実には不合理のことゆえ、実は逆に現実の非同一性を強調することになる。「メタフォラは非同一性の、まざまざとした意識につらぬかれている」。しかし、「ひとたび同一性が現実の像の中にはないことに気づいても、隠喩はかたくなにそれをわれわれに押しつけてくる。そして一見それが(つまり同一性が)可能であるような別の世界へとわれわれを押しやるのである」。
 だから、とオルテガは結論する、「各隠喩は世界についての、ひとつの法則の発見である」。この引用文は、純粋に美学的な論文からのものではあるが、オルテガの哲学思想とこれを比べ合わせるとき、けっしてたんに芸術や美学についてだけの言葉でないことをわれわれは知る。なぜなら、この文章が発表される五年前の一九〇九年、つまりフッサールが「イデーン」(一九一三)において、現象学と実在としての意識の理論を発表する四年前、次のように隠喩について語っているからである。
 「人問的感情、痛み、希望などのつまった倉から、ニュートンやライプニッツは微積分を引き出した。セルバンテスは美的メランコリーの精髄を、ブッダは宗教を。これらは三つの異なった世界である。材料はすべて同一である。ただ精製の方法が違っていた。真実らしきものによって成る世界は、ひとつの特異な解釈にゆだねられた実在物の世界とそれなりに同一なのであり、この解釈とはすなわち隠喩である」(11)
 それゆえ、隠喩は実在についての解釈である。われわれは、主に隠喩から成る世界に住んでいる。いや、それ以上に、これらの隠喩は、日常の現実の基礎であり、地下の動かすべくもない地層なのであって、われわれはその上に生きているのである。
 とすると、われわれと世界との関係を理解させてくれるのはメタフォラであり、これこそ、われわれの世界を成り立たせているかなめ石だということになる。かくしてオルテガは、ギリシアから始まる過去の哲学史全体を、二つの大きな隠喩の線上に再構成してみせる。



三 二大隠喩とは何か

 二大隠喩のうち、第一のものは古代と中世を織り成す糸であり、第一のものはルネッサンスに始まる近代を織り成す糸である。すなわち、古代人、中世人にとって、主体が対象に気づいたとき、両者は共に類比的関係(レラシオン・アナロガ)に入る。つまりロウ板(タブラ・セリーナ)に残されたしるしのように、双方がぶつかり合うとき、一方は他方にその刻印を残すのだ、と考えた。プラトンはこれについて『テアイトス』で述べ、アリストテレスも『デ・アニマ』の第三章でそれを繰り返している。そしてこの隠喩は、その後ずっと中世の世界までも支配するのである。
 このような解釈によれば、主体と客体は、二つの物体の関係と同じ関係にあることになる。つまり両者はたがいに独立して、そしてときたま結ぶ関係の外に存在し持続する。われわれが見る対象は、見られる前にも存在し、またわれわれがもはやそれを見ていないときにも存続するし、精神の方も、何も考えず何も見ない場合でも精神であり続けることになる。
 一見すると、この説はもっともらしいが、しかし物質的なもの(対象)と非物質的なもの(意識)とを同列に置いている。意識や主客関係が何か現実の継起のように、つまりあたかも二つの物体がぶつかり合ったときのように考えられている。ともかくこれをひとまず実在論と呼ぶことができよう。
 同時にこれは、実在論ならびにアリストテレスから霊感を受けたあらゆる哲学(たとえそれがいかに唯心論と呼びなされようとも)の根底にある唯物論でもある。「このような種子から、古典的な世界観が派生した。そうした考え方にとって、存在は他の事物の中に在ることを意味した。……主体はダンテの言う大いなる<存在の海>に沈められた他の多くのものの一つにすぎない。意識は小さな鏡であり、そこに周囲が反映するにすぎない。<自我>は古代の世界観において重要な役割を持ってはいない。……盲人の嘆願するような腕――アリストテレスは、魂は手のようなものと言っている――たる自我は、世界のさまざまな道を手さぐりし、それらから彼のつつましい道筋を作りださなければならないのである」。
 だが、ルネッサンス以後になると、この「ロウ板と刻印」の隠喩は新しい隠喩にとって代わられた。つまり「容器と内容」の隠喩に。事物は外部から意識に達するのではなく、かえって意識の内容、つまりイデアなのである、と。だから意識の外にある対象について語ることは、ひとつの仮定にすぎない。事物がある意味で、「われわれの中」にあることは疑いを入れない事実だが、しかしわれわれの外での存在は大いに疑わしいというのである。つまり、われわれが富士山を見ても、実は富士山そのものを見ているのではなく、われわれの中の表象を見ているのだ、というのである。ここでデカルトは一大革新を行なった。すなわも、事物にとって唯一の確実な存在は、それらが思考されたときの存在だ、というのである。このような新しい学説を、一応、観念論(アイデアリズム)と呼ぶことができよう。
 言うなれば、古代哲学は知覚(ペルセプシオン)に専念し、近代哲学は想像(イマヒナシオン)に焦点を合わせたということである。「ゲーテ、ライプニッツ、カント、ショウぺンハウアー、ニーチェ、これらの人々は幻想、想像力(Einbildungkraft)、表象、幻覚、夢をおおいに高く評価した。ライプニッツは人間は小さな神だと言い、フィヒテは自我はすべてなり、と喝破してもまだ物足りないと言ったであろう」。
 以上は、オルテガが一九二四年に発表した「二大隠喩」(12)の大要であるが、しかし一九一六年、彼がブエノス・アイレスで行なった講演は「三大隠喩」と題され、彼独自のメタフォラ論を披瀝しているのである。ではなぜ八年後の著作において、その第三の隠喩を省略したのであろうか。
 これはマりアスも指摘しているように、オルテガが自己の思想を何か堅苦しい定式に押しこめるのを嫌うことからの結果だと思われる。
 しかしわれわれは、彼の言う第三の隠喩を彼の作品のいたるところから再構成することができる。次にその第三の隠喩とは何かを見てみよう。



四  第三の隠喩

 自分たちと関係を持たないようなことについて、われわれほ何も話すことはできないが、さて、われわれとものの最小限の関係とは、意識の関係(レラシオン・コンシエンテ)である。およそ考えられるかぎり相互に異なる二つの事物は、にもかかわらず、われわれの精神にとっての対象であるという共通の特徴を持っている。
 だが意識といったものは、容器と内容の関係とか、ロウ板と刻印の関係とはおよそかけ離れたものである。つまりそれは、相互排除の関係なのである。主体と客体は相入れないものであり、可能なかぎりもっとも異なった二つのものである。対象と「私」は、一方が他方に対しているのだが、しかも、一方は他方の外にあり、また一方から他方を引き離すこともできない。主体と客体は互いに還元できず、同時に不可分である。実在論が「私」をもう一つの「もの」とする一方、観念論はすべてを「私」のうちにとり込んだが、オルテガは主体と客体を dii cosentes つまり地中海沿岸の神話に見られる対になった神々、すなわち共に生まれ共に死なねばならぬ神々のようなものとみなし、両者の共存を認めるのである。
 観念論は、「私」と対象の他に、「内容」を含みつつむものとしての意識があると考えた。しかし実際にあるのは、「事実と共にある私」であり、オルテガはそれを realidad ejecutiva すなわち実践的現実と名づけている。
 ここまできてわれわれは、彼の有名な定式「私は私とその環境である」が、それ自体見事に彼の言う第三の隠喩になりえていることに気がつく。私が糸杉を見る、糸杉を考えるとき、「私」と糸杉は共にたがいを排除する関係にありながら、しかし共に存在し、そして私の存在を共に形成するものである。こう考えてみると、先に掲げた『楽園のアダム』は、持にその楽園の描写全体もまた、まさに彼の言う第三の隠喩の展開であったことが明らかとなる。
 「楽園のアダムは、純粋で単一な生であり、生という無限なる課題のひよわな軸受けである。世界の重力、世界の苦痛、無機物、有機物、人間の全歴史、その苦悶、その歓喜、ニニベやアテネ、プラトンやカント、クレオパトラやドン・フワン、肉体的なるものと精神的なるもの、一時的なるものと永遠なるもの……、そして持続するもの、これらすべてが、瞬時にして成熟したアダムの心臓、その赤き実の上にのしかかったのである。小さな心臓の収縮と拡張、これら尽きることのない物たち、すなわちわれわれが限りないほどの意味をこめて生という一語で表現しているもの、その脈拍の一つひとつに具体化され、そして凝縮された生、これら全てがいったい何を意味するかだれが理解できよう? アダムの心臓は世界の中心、つまりアダムの心臓には全世界があるのだ。ちょうどコップの中の泡立つ液体のように」(13)
 かくして、オルテガの言う「生」こそ、まさに豊饒かつ深遠な一つの隠喩、第一級の隠喩にほかならないことは明らかである。なぜならオルテガの言う「生」は、(従来の概念からすれば)生ではなく、しかも生であるもの、つまり否定と肯定のダイナミズムの上に立つまったく新しい実在であり、しかも根本実在だからである。

   


(1) 小編ながら重要な作品を収録した『傍観者』は、西澤龍生氏の翻訳で次の三冊に分けて出版された。『傍観者』、1973年、筑摩書房、『現代文明の砂漠にて』、1974年、新泉社、『沈黙と隠喩』、1975年、河出書房新社。
(2) 森本哲郎氏によれば、「あなたの信用する思想家は」という質問に対し、「さあ、誰だろう。サルトルなんかぜんぜん信用しない。カミュ? カミュも思想家として大したことありませんね。そう、信用できるといったら、オルテガ・イ・ガセットかな」と答えている。「新潮」臨時増刊、「三島由紀夫読本」、昭和四十六年第二号。
(3) A・マタイス、佐々木孝訳、1969年、法政大学出版局、262ページ。
(4) A・マタイス、佐々木孝訳、『ドン・キホーテに関する思索』、1968年、現代思潮社、160-161ページ。
(5) 吉本隆明、『言語にとって美とは何か』、1965年、勁草書房、I、154ページ。
(6) Ortega y Gasset, Obras Completas, Ⅱ, p. 388, Revista de Occidente.
(7) O. C. Ⅲ, p. 270.
(8) Marías, Julián, Ortega, circunstancia y vocación, 2, P. 41, 1973, Revista de Occidente.
(9) O. C. VI, pp. 247-264.
(10) Orringer, Nelson, R., El goce estetico en Ortega y Gasset y en Geiger, “Revista de Occidente”, noviembre, 1974.
(11) O. C, I, p. 449.
(12) O. C, Ⅱ, p. 387-400.
(13) 前掲書、161-162ページ。

「清泉女子大学紀要」23、1975年