8. 病後のたわごと――架空インタビュー(198?年)


病後のたわごと――架空インタビュー



「のっけからナンですが、なぜ架空インタビューという形式を?」 
「いや、べつだん深い理由があるわけじゃない。ただこの原稿の締切が明日というときになって、ここ十数年来かかったことがないような流感にやられて二日間寝っぱなしだったもんでね。それでちょっとまともな文章を作る気力も集中力もなくて。一日目などは眼が覚めたら八時、てっきりアシタになったと思ってね、それにしてはずいぶん外が暗いな、って言ったら家人に、なにブリッ子してるの、まだキョウよ、って言われてね」
「カッワイーッ」
「よしてくれよ。でもほんとに可愛いと思う? まさかね。でもね、この《可愛い》と いう言葉の使い方は、そうだなここ七、八年来のものだな。タモリの『笑っていいとも』 のスタジオに集まった女の子たちよろしく、なんでも《カッワイーッ》だもんな」
「いいじゃないですか。要するに先生がそれだけ年をとったということですよ。若いも んのフィーリングについていけない……」
「そんな意味でなら、ついていく気はさらさらないね。ともかくだね、日本中がブリッ子になってきたってこと。まだほんの青二才のときからオジン、オバンと言われまいとしてみんな汲々としているじゃないか。このあいだも『ナウ・ゲット・ア・チャンス』とかいうテレビ番組を見ていたら……」
「どうでもいいですが、ずいぶんつまらない番組を見てますね」
「ン……幼稚園の保母さんたちの大会でね、見ているうちゾーっとしてきたね」
「若さムンムンで?」
「よしてくれよ、あんな保母さんたちにゃ金輪際子供なんか預けたくないね。まるで餓鬼のまんま」
「だって子供好きで子供と一緒に遊ばなきゃならないんだから当然じゃないですか。あれでけっこう大変なんですよ、保母さんの仕事」
「それは分かるよ。でもね、そこにはまったく落差が感じられない」
「……? 何です、そのラクサとか言うもの?」
「つまりだね、子供に近付くのはいい、しかし、いい大人が子供の世界に入るにはそれだけの精神的負荷の一瞬の放下というか、つまりだね、もっと分かりやすく言うと、餓鬼が餓鬼に近付いても面白くも可笑しくもないということだよ。つまり、子供は子供になれない、なぜならもともと子供なんだから。いまさらキリストや良寛和尚を引き合いに出すまでもなく、子供になる、子供の背丈で物を見るというのは実は至難の技なんだよ」 
「そうかも知れませんが、でも面白可笑しいで教育は済まないと思いますけど……」
「そうかね、ひょっとすると教育にとっていちばん大切なものかも知れないよ。いや少なくとも今の教育にいちばん欠けているものとは言えるね。すべてが前もって決められた枠から豪も出ようとはしない。教育とはそれこそ未知のものとの遭遇であり冒険であり、知的食欲をそそる旅への誘いであるはずなのに、今じゃただ食べたくもないのに無理矢理消化しなければならぬメニューとして重くのしかかっているだけだ」
「先生、そうは言っても現場じゃいろいろと大変なんじゃないですか? 先生は比較的自由な大学の先生だからそう言えるかも知れないけれど…::」
「なるほど、今の受験戦争の中じゃ、学ぶ喜び、教える楽しさなんていうのは、それこそ理想論にすぎない、もっと現実的に、というわけなんだろう?」
「ま、そういうことですね。現実はどうしようもなく学歴社会なんだし、競争原理で動いている社会なんですから……」
「しかしね君、その現実というのは何だい?」
「そう面と向かって言われても……」
「いや、べつだん君とここで哲学論議をしようなんて思っていないよ。ただね、君の言い方だと、現実というものはすでにそこにあるもの、ということになるけど、それは人間的現実のほんの一部、というかその物的部分にすぎないということさ。人はパンのみにて生きるにあらず、むしろより多く夢を食べて生きているのさ。たとえばね、この世はすべて金さ、学歴さ、と言っている連中だって、実はそういう夢を見ているに過ぎないのよ」
「要するに、ものは考えよう、ということですか?  それはちょっとおかしいですよ。だって制度なり社会といったって所詮人間が作ったものなんだから」
「だろう? それじゃあどうする? 制度を変えるか、それとも社会改革を目指すかい?言うは易く、行なうは難し、だよ。それに先ほどのような物の見方だったら、いくら制度を変えてもあんまり意味がないよ。つまりね、人間的現実の物的な部分にしばられている限りいくら制度を変えても意味がないということ」
「……つまり発想の転換がない限り?」
「そういうこと。たとえば最近問題になっている《いじめ》は、結局は現在の学校的環境を支配している画一主義や管理主義に繋がっているが、それだって親や教師のあいだに、発想の転換がない限り問題は解決しないさ。この間題で槍玉に上がっている先生たちは実に心外だろうね。だって自分たちは学校の評判と威信のため、それこそ一身を捧げて来たんだからね」
「およそ的はずれの滅私奉公?」
「そう。だいいち気色悪い図柄だね、いい年した男が(あるいは女が)女生徒のスカートは膝下何センチでなければならないとか、前髪は眉の上何センチでなければならないなんてしょっちゅう眼を光らせているなんて光景は。僕にも高一の娘がいるけど、そんなことコッパズカシクテ見たことないよ」
「何です、そのコッパなんとかというの?」
「東北の方言で、とても恥ずかしくて、という意味。それはともかく、僕がいいたいのは規則を無視しろということとは全然違うんだな」
「規則は理にかなったもの、それも必要最小限に、でしょう?」
「よく分かったね」
「あたり前でしょ、先生が僕をしゃべらせているんですから。あっ、分かった、インタビューの形式をとったわけが……」
「そう言わないでもう少し付き合えよ」
「それじゃ先生にとってずばり学校教育とは何か?と聞いてもらいたいんでしょ?」 
「しごく簡単明瞭さ。要するに学校教育とは、人間形成にとって比較的有効な一手段であって、それ以上でもなければそれ以下でもない、ということ。ついでに言わせてもらえば、学問とは、結局は人間の蓄積された知恵とも言うべき常識あるいは共通感覚に戻るにしても、絶えずそれを疑い批判していく作業であり、物事を外面からではなくそれの生成状態において見ること。つまり現在の教育の荒廃は、実に逆説的だが、学校教育の物神化にある。
  確かに学校教育に対して昨今異常とも言える批判が集中しているが、しかしその学校教育そのものがそれほど自明的に、あるいは絶対的に必要なものなのか、といった問題提起は一度もされてこなかった。昔なら日本のそこかしこに住んでいた古老というか知恵の人がつぶやく次のような言葉、どんな偉い教育学者も顔色なしとする次のような言葉、つまり《学校? 行きたけりゃ行くがええ。いい友達が見付かっかも分かんねぇしな。だけどな、爺っちゃんらは学校さ行かねども物事の道理を違えたことなどねぇ》といったなどは、今では小説か映画の中でしか聞けなくなってしまった。だからね」 
「なんですか、論文口調になったり話し言葉になったり」
「今日もとつぜん教育機器の会社だか予備校からだか電話がかかってきてね。あっお父さまですか、お宅に◎◎君いますね、どうですか元気に勉強してますかね、とやけに馴れ馴れしくずうずうしいんだよな。要するに受験とか学校という名を出せばだれでも平身低頭すると思ってるんだな、お前にカンケイねえよ、ってすぐ電話を切ったがね」
「先生ガラが悪いな。恥ずかしいなこんな先生持って」
「受験受験で尻引っぱたかれて来たはずの君たちが、いざ大学に来るとまったく勉強しないんだもんな。どうなってるのこれ。なまけ者のこの僕だって毎晩三時すぎまで勉強してんのよ」
「どうも雲行き悪くなってきたな。ここらで退散しましょ。先生ほんとに風邪引いてたの? それともまだ熱あるんでねぇかい?」


一九八?年  「常葉大きゃんぱす」第?号