8. オルテガ哲学における生の理念 (1976年)


オルテガ哲学における生の理念



はじめに

 一般に、オルテガは「生の哲学」者、もう少していねいな分類に従えば「生・理性の哲学」者、あるいは「歴史理性の哲学」者とみなされる。周知のごとく、いわゆる「生の哲学」Lebensphilosophie は、狭義にはその源流をショーペンハウアーに有し、へーゲルに代表されるドイツ観念論の理性主義、主知主義への反動から生まれた潮流で、ニーチェ、ベルグソン、ディルタイ、ジンメルらがその流れを汲むとされている。しかし、いまショーペンハウアーからジンメルまでの名前を一瞥しても分かるとおり、「生の哲学」として明確に他と区別できるような特徴を抽出することは困難である。これはなにも「生の哲学」に限らず、あらゆる哲学的潮流についても言えることだが、しかし「生の哲学」についてはとりわけ、そうした曖昧さが濃厚であり、またその非合理的傾向と相俟って、「生の哲学」という呼称には、ある種の侮蔑が含まれているようである。
 体験としての生から出発し、生の直接的把握を目ざす(平凡社「哲学事典」)という一般的特徴も、たとえばショーペンハウアーの「盲目的意志」、ニーチェの「権力意志」、ベルグソンの「生命の飛躍」あるいは「直観」、そしてジンメルの「超越の内在」などの主張の中で相互にかなりの差を見せはじめる。
 なぜそのような差が生じるかといえば、もちろん、彼らが抱懐する「生」の理念が、たがいに最初から相当の開きを持っているからにほかならない。
 さて拙稿の目的は、主に前述のごとき「生の哲学」とオルテガの思想が、どこで接近し、どこで乖離するかを考察することである。



生の理念の形成

 前稿 (「清泉女子大学紀要」23)で述べたごとく、オルテガがその著作の中で「生」を自己の哲学的思索の中心課題として明らかに意識しだしたのは、一九一〇年の「楽園のアダム」においてである。この奇妙なタイトルを持つ初期の作品は、一種の芸術論の形をとってはいるが、とつぜんアダムが登場する(5) において明確にされるように、四年後の『ドン・キホーテに関する思索』の中心テーマ「私は私と私の環境である」のいわば先駆けとして、彼の生・理論の初めての表明である。
 「ちょうど一本の若木のように、楽園にアダムが現われた時、われわれの言う生もまた存在しはじめたのである。アダムは、自分の生きていることを意識しながら生きた、最初の存在者である。アダムにとって、生は課題として存在するのだ」(1)
 ところでいま、とつぜんアダムが登場すると書いたが、しかしわれわれはこのエッセイを読み進むにしたがってアダム登場の内的必然性がいつのまにか納得させられる。それはこのエッセイが「絵画の理想を定義するような定式を捜そうというぼんやりした意図の下に」書き出されたとはいえ、また「どうしてそう名づけたか、自分でも良くは知らずに」『楽園のアダム』というタイトルを付したとはいえ、実は隠れた意図が、芸術論あるいは絵画論をはるかに越え出るものであったからである。
 「絵画の理念的テーマは、したがって、自然の中の人間である。歴史上のあれこれの人物ではなく、人間、そしてこの地球の住人たる人間の課題、がそのテーマなのだ」
 それならアダムとは、そも何者か。「楽園のアダムは、純粋で単一な生であり、生という無限なる課題のひよわな軸受けである」。「楽園のアダム。アダムとはだれか。それはだれでもいいし、特定のある人でもない。彼は生なのだ」
 ところで、このオルテガの生の理説が、より哲学的厳密さを増して展開されるのが、「楽園のアダム」の四年後に書かれた『ドン・キホーテに関する思索』であることは論を俟たない。しかし不思議なことに、この作品において「生」という言葉はほとんど用いられていない。その理由はいろいろ考えられるが、そのもっとも大きな理由は、彼がおのれの生の理説がいわゆる「生の哲学」と混同されることの危険をはやくも感じとったからではないか、と思われる。その危険をはっきりと指摘し、おのれの立場をより鮮明に表明するのは、ちょうど十年後に発表される「生命主義でも理性主義でもない」(2) においてであるが、しかし一九一四年という時点においても、その危険を警戒する条件はそろっていたと言うべきである。というのは、その一年前の一九一三年に、ウナムーノの主要著作の一つ『生の悲劇的感情』が出版されているからである。
 「生命的なものはすべて反理性的であり、理性的なものはすべて反生命的である」という言葉に典型的に現われているように、これはウナムーノの年来の反理性主義あるいは非合理主義のいわば終決算であり、オルテガたちヨーロッパ主義者、理性主義者(もちろんウナムーノから見ての)に対する挑戦状でもあった。おそらくオルテガは、おのれの生の理説が、当時勢いを増してきたそれら生の哲学と混同されることを避けるためにも、早急に彼の主張する生の理説の厳密化を迫られていたにちがいない。たとえば次のような言葉は、名指さないまでも、明らかにウナムーノを意識したものであることは明らかである。
 「働くことを望まない人々によって今日かくまで利用されている、このような理性と生の対立自体も、もはや疑わしいものである。これではまるで、理性は見たりさわったりすることと同じ系列に立つ生命的・自発的機能ではないということになるではないか!」(3)
 ここには、とりわけ一九二三年の『現代の課題』において明確にされる彼の生・理性主義が現われているが、これを前述のウナムーノの反理性主義との関連のもとに言い換えてみるならは 「生命的なものはすべて理性的であり、理性的なものはすべて生命的である」となろう。
 この一事のうちにも見られるとおり、オルテガの思想には、哲学の歴史始まって以来のいくつかの対立、たとえば物質主義と精神主義、相対主義と合理主義、実在論と観念論、さらに文脈は異なるが信念と理念、自己沈潜と自己疎外などの対立を踏まえつつも、それらを超克せんとする意志が顕著である。これは悪く言えば、スペイン思想の中にときおり見かける一種の折衷主義(たとえばセビーリャのイシドーロ[五六〇?-六三六]やライムリド・ルリオ[一二三五-一三一五]などにもそれがうかがえるが、これは前者がローマ文化と西ゴート文化、後者がキリスト教文化とイスラム文化の対立葛藤のうちに生きたという歴史的背景を抜きに語ることはできない)とも見られそうだが、 ただオルテガのそれが、悪い意味での折衷主義を免れているのは、「あることについての、れわれの認識のすべてをこれの厳密な観照に究極的に基礎づけ確認しなければならないところの根本実在」すなわち「われわれの生、人間的生」を彼のすべての思索の出発点としているからである。
 つまり彼とっての出発点は、主体とは別個の独立した対象世界についての知覚でもなく(反リアリズム)、自我の内部に閉じ込められた対象についての自己意識でもなく(反アイデアリズム)まさに生なのだ。オルテガの考えによれば、まさにこのことのうちに、スぺイン伝統のリアリズムと、彼の師であるドイツ人たち(彼が一九〇五年から一九〇七年にかけてドイツに留学し、新カント派のコーヘンやナトルプから学んだことを想起しよう)のアイデアリズムとのあいだの対立が克服されるところの、哲学の根本的革新が成立する。
 これについて象徴的とも思えるのは、同じく哲学の根本的改革を企てたルネ・デカルトが、オランダのウルム近郊の炉部屋で「考える」という一点にその哲学的思索の出発点を置いたのに対し、オルテガがエル・エスコリアル修道院の下に広がる森の中で「生きる」という一点にその哲学的思索の出発点を置いたということである。同じく根源主義という点ではデカルト的であるが、しかしそれは思考のデカルト主義ではなく、生のデカルト主義であった(5)。つまりデカルトにとって、実はそこがオランダであれフランスであれ、あるいはドイツであれ、またそこが炉部屋であれ書斎であれ、あるいは寝室であれ一向に構わなかった。しかしオルテガにとっては、外界が、環境が、実に不可欠の要素なのである。『ドン・キホーテに関する思索』の最初のところで彼はこう言っている。
 「世界への私の最初の出口は、グァダラーマの峠やオンティゴラの草原を通って開かれる。このような私の周囲に広がる現実の領域は、私の人格の他の一部を形成するのだ。つまり、この領域があってこそ私は完全な私となり、全的に私自身であり得るのである」(6)



生の存在論的側面――環境性

 すでに引用したいくつかの言葉からもうかがえるように、オルテガの生の理説においてその環境性が占める重要性は大きい。「楽園のアダム」において表明された生の理説の哲学的厳密化とは、具体的に言うなら、その存在論的側面たる環境性と、その認識論的側面たる遠近性の理論化であった。もちろん両者はたがいに重なり合っていて峻別することはできないが、ここでは一応分けて考えてみたい。
 さて、どのように根源的かつ独創的な思想であれ、同時代性から、あるいは環境性から孤立していることはありえない。特に、オルテガのように、まさに環境性を自己の思想の根源に据えている思想家にとってはそうである。ところでオルテガが環境理論を形成するにあたって直接的に影響を受けたというより間接的な影響を受けたと思われるのは、ユクスキュル(一八六四-一九四四)とフッサール(一八五九-一九三八)である。(7) マックス・シェーラーなどがユクスキュルの「環境世界」理論を著作の中でとりあげたのは一九二〇年代後半らしいが、(8)オルテガはすでに一九一七年のあるエッセイでそれに言及している。そればかりでなく、彼の主宰する「二〇世紀思想文庫」から、はやくも一九二一年の十月にユクスキュルの『世界に関する生物学的概念のための見解』のスべイン語版が出版されているのである。それへの序文でオルテガは次のように述べている。
 「読者はフォン・ユクスキュルのこの作品の中に、他の何よりも見事に、生の諸問題に接近するための現実的方法を代表する一つの生物学的見解を見いだすであろう。……中略……私はこれらの生物学的思索が、一九一三年以来、私の上に多大の影響を及ぼしてきたことを明らかにしなければならない。この影響はたんに科学的なそれというより、むしろ心情的なそれであった。現代人の魂の無秩序に秩序と静謐さと楽観主義をもたらすために 私はこの思想家のそれ以上に効果的な示唆を知らない」(10)
 ハイデッガーの『存在と時間』(一九二七)の中で展開されている「世界内存在」という概念も、このユクスキュルの「環境世界」理論の影響を受けていることは明らかであるが、 オルテガが他のだれよりも早くユクスキュルの学説の意義を認めたという事実は 彼がいかに同時代思想につねに鋭い目くばりをしていたかを証明している。 だが先に引用した序文で注目すべきは、オルテガがユクスキュルの学説から、科学的というよりむしろ心情的な影響を受けたと言っている件である。これはヨーロパ学界での相互的影響関係の密度の濃さの裏にある先陣争いの熾烈さの一端をうかがわせるものかも知れぬが(オルテガとハイデッガーのあいだには確かにそれがあった)、しかしこの場合はやはりオルテガの言葉は文字通りに受け取られなくてはならないであろう。というのは、一九一三年より三年前の『楽園のアダム』において、先ほど引用した言葉に見られるとおり、ユクスキュルの「環境世界」理論のおおよそはすでに抱懐されていたからである。というよりユクスキュルの理論があくまで生物学の枠内に限られていたのに対し、オルテガのそれは存在論の域にまで広げられ深められているからである。
 「生の哲学」との関連からしても、たとえばニーチェやベルグソンの「生」概念に時おり見られる一種の生物学主義がオルテガのうちにもあったとみなすことは早計であろう。
 このけっして物化されることのできない、また何物にも還元できない生は、客観的なものではないのだ。
 もしそうであるならば、それは本来のものであることをやめ、語られあるいは叙述されるおのれの過去に閉じこめられた、たんなるイメージと化してしまうであろう。つまりそれは意識ではないのだ。それは意識とはまったく反対のもの、すなわちたんなる主観でもなく、私がものと共に自己実現してゆくものなのである。
 前稿で指摘しておいたごとく、例の「私は私と私の環境である」という場合の、その第一の私こそまさに生なのだ。第二の私は、第一の私に比べれば、二義的、派生的なものにすぎない。第二の私は、いうなればデカルト流の私、純粋自我であるが、これは環境と共にはじめて存在するものである。また第一の自我は、たんに第二の私と環境との和として静的に存在するわけではない。両者は生きいきとした対話のうちに、動的な緊張関係をはらんで共存している。自然主義的決定論者が説くように、私は環境によって限定されてはいるが、しかし環境が私を限定しているわけではないのである。つまりそこには一方的な因果関係ではなく、相互的な関係が成り立っている。
 これを別の観点から言えば、オルテガにとって、伝統的な主体客体、あるいは主観客観の対立は克服されているということである。
 ところでオルテガが生の理説を形成するに当たって影響というか示唆を受けたもう一人の思想家はフッサールである。フッサールが「純粋現象学と現象学的哲学のための諸考案」(『イデーン』)を発表したのもまさに一九一三年であった。彼がとなえる現象学的還元はまことに理解困難なものであるが、エミル・ブレイエがそれを一つの例をとって分かりやすく説明しているのでそれにならうことにする。たとえば私がいま眼前に、風に揺れている一本の樹の葉を見るとする。その際フッサールがわれわれにすすめるのは、あらゆる説明・解釈をいわば括弧にくくって、ただ現象だけに心を留めることである。
 「しかしこの叙述において私は、外界の事物しか考えていない物理学者とは反対に、この印象を私の身体及びそれを経験する私の意識から引離すことはできません。私はこの印象を、自分自身と事物との同時的な現前、いわば因果関係とは非常に違う独特な関係とみます。というのは、体験された印象からなるこれら無数の流動を世界と呼ぶとしまして、私は世界なしに済ませることができないとともに世界の方でも私なしに済ませることができなくなっているからです」(12)
 こうしたフッサールの見解は、オルテガが『ドン・キホーテに関する思索』の中の森の描写に際して主張した見解とまさしく重なっている。事実オルテガはその年(一九一三年)、フッサールの『イデーン』について何度か言及し、現象学の意義を強調している。しかしながら、その時点においても、彼はすでに現象学の限界を見破っていたのである。つまり現象学の画期的な点を、「生きられたものであるかぎりでの直接的かつ明白なものの領域に止まることを、一つの科学的方法にまで高めたことである」と称揚しながらも、そこには意識を絶対化する危険のあることを指摘している。つまり意識はつねに「の意識」である。そしてフッサールによれば、実在は主として「知覚」と呼ばれている意識作用から作られる実在的世界「の意識」となる。つまりこの世界の現実性は、われわれの持っている世界の意識に対して相対的なものなのである。ということは世界の実在はそれ「の意識」に相対的であることによって問題的となり、ただ世界の実在についての私の意識だけが絶対的実在ということになる。
 オルテガは『ドイツ人のための序文』(執筆一九三四年、全集第八巻)や「ライプニッツにおける原理の概念と演繹理論の発展」(執筆一九四七年、全集第八巻)などにおいて現象学批判を展開しているが、ここでは邦訳のある「思考についての覚え書き」(一九四一年、白水社「オルテガ著作集」第八巻)を見てみることにしよう。
 オルテガによれば現象学は素朴な、ないしは弁明されていない哲学である。なぜならそれは、「その哲学が発現してゆく動機がその哲学の理説体系の外部に残されたままになっている、つまり、その哲学の創造へと人問を駆り立てたすべての事実を哲学そのものの構成要素として考慮していない」からである。「もしフッサールが、現象学――これが彼にとって真の哲学であった――の形成に際し、その進行の中で立ちどまり、彼の形式的理説を自分の考えで挿入した最初の点にまでたちもどって、もう一度、自分の精神の行路を実際に反省していたなら、おそらく彼は、その形式的理説が、それがそこから生まれ、それに依存しているところの理説ならざる動機と分かちがたく結合していることに気づいたにちがいない。人間が哲学するのは、理論に先だって、理論と関係なしに起こってくるところの、生の必要性や便宜のためになのである」(15)
 こうした表現の中に、われわれはすでに一九一〇年に書かれた『楽園のアダム』の次のような言葉の反響を見いだすことができよう。
 「最初の視覚を作り出したのは、視神経でもないし、視覚器官の末端部分でもない。すなわち、器官を作り出したのは、見なければならぬという必要性、見ることそれ自体なのだ」(16)
 あるいはその四年後の『ドン・キホーテに関する思索』の次のような言葉。
 「特別に文化的な行為は、いまだ無意味(非ロゴス的)なものであったなにかから、ロゴスを引き出すという創造的な行為である。すでに獲得された文化は、さらに新しい征服のための手段や武器としてだけ価値を有するのである。だから、直接的なもの、われわれの自発的生、と比較するなら、われわれが今まで学んできたものはすべて抽象的で、類型的で、図式的に見えるのだ。いや、見えるだけではない、事実そうなのだ。鉄槌はそのひとつひとつのつち打ちからの抽象なのだ」(17)
 オルテガは、フッサールを概念論の最後の代表者であると言う。つまり現象学は生の機能とはほど遠く、認識のための認識であり、フッサールの言う「純粋体験」reine Erlebnisse も、生と無関係どころか正反対のものであるとさえ断言している。



生の認識論的側面――その遠近性もしくは体系性

 さてわれわれはいままで生の存在論的側面を、主に「生の哲学」と現象学との関連のうちに見てきたが、今度はそれの認識論的側面に目を向けてみなければならない。生の環境性と遠近性が密接に重なり合っていることは先に指摘したとおりであるが、それを簡単に言うなら、生はけっして私と物とのたんなる混在あるいは混沌ではなく、まさに遠近法的に、あるいは体系的に共存するということである。ここで楽園におけるアダムの位置を思い起こしてみよう。
 「遠くには魚の跳びはねる川、さらに遠くには化石をくわえこんだ山々、そして海、見知らぬ土地、大地そして諸大陸」
 そこにはおのずからの遠近があり、パースぺクティヴがある(もちろんこれはたんに地理的空間的なそればかりでなく時間的なものも含まれ、さらには、真理とパースペクティヴについてオルテガ自身言っているように価値のそれをも含んでいる)。つまり生は環境内存在として遠近法的に、体系的に存在するのである。このことは『ドン・キホーテに関する思索』の、あの森の描写において見事に説明されている。そしてこの遠近性あるいは体系性は、観念論が言うように主観が周囲世界にいわば恣意的に抑しつける図式ではないことに注意しなければならない。
 「生はおよそ考えられるかぎり、主観的な事実とはほど遠いものである。それはあらゆるもののうちでもっとも客観的な実在である。それはまさに、人間の自我がおのれとは異なるもののうちに、つまり彼の環境という純粋な他者のうちに沈められていることである」(18)
 「生は法則によって統べられた事実の総体である」(19)
 「宇宙の実在は一定の展望のもとにのみ見られ得るような性質のものである。パースぺクティヴは実在の構成分子の一つである。それは実在を歪曲するものではなく、実在を編成する要素なのである」
 「人間の生は体系的な現象であり、それ自らが体系である」(20)
 以上はそれぞれ異なる時期の著作からの引用である。 しかしこの生の体系性という考え方は、オルテガの思想において初めから終わりまで一貫している。 たとえば「楽園のアダム」には次のような文章が見られる。
「ルネッサンス以来の人類思想の進展が持ったもっとも深い意義は、実体概念が関係概念の中に解消されたことである。そして関係というものは物ではなく観念であるから、近代哲学は観念論と呼ばれ、それに対して、アリストテレスに始まった中世哲学は実在論と言わるのである。……中略……ひとつひとつのものは四つ辻なのだ。その生、その存在は、さまざまな関係の集合体、それ以外のすべてがそこに身を置いている相互関係の総体なのである。道端にあるひとつの石が存在するためにも、自余の世界を必要とするのである」(21)
 おそらく オルテガがいわゆる「生の哲学」者たち、あるいは彼の同国人ウナムーノ、に見られるような非合理主義もしくは反理性主義に陥らなかったのは、生を実体概念とみなさずに関係概念とみなしたからではなかろうか。関係はすなわち理(ratio)でありパースペクティヴである。四年後の『ドン・キホーテに関ずる思索』で、オルテガは次のように主張する。「この世の決定的な存在が物質でもなく、魂でもなく、その他特定のものでもなく、一つのパースペクティヴなのだという確信に、われわれはいつ目ざめるのであろうか」。そしてこのすぐあとに、「神はパースペクティヴであり、序列である。サタンの罪はパースペクティヴの誤りなのだ」という気になる言葉を書き付けている。
 しかしこれは、関係概念を絶対化して、ふたたび不毛な観念論に陥ることにならないであろうか。前述のとおりオルテガは実在論と観念論、相対主義と合理主義、あるいは物質主義と精神主義という対立項のあいだの狭い、(あるいは深い)地帯を進んでいく。そして実在論の不備をつくと同時に観念論の専横を批判することも忘れない。
 「概念は物体の占めていた場所を占領するような、新しくも軽やかなものにはなり得ないものなのだ。だから概念の務めは、直観や実在に即した印象を追い払うことにはないのである。理性は生を代行することを望むことはできないし、また望んでもいけないのである」(22)
 この考えは、さらに九年後の『現代の課題』のまさに中心的テーマとして展開される。
「純粋理性は生きた理性にその席を譲らねばならない。生・理性の中に純粋理性は位置づけられ可能性と自己変化の力を獲得するのだ」(23)
 すなわち理性を生に従属させること、それこそが現代の課題なのである。



伝記としての生

 いままでオルテガの生の理念について大まかな素描をしてきたが、もちろんここでとりあげたこと以外に、生の特性に関してオルテガは終始雄弁であった。たとえば生は孤独であり、劇的であり、そしてそれ自体が難破であること、などなど。しかしいかに生に関する理論を展開してみたところで、生の理説の難解性は依然として残る。
 それは結局、生というものが本来、いかなる定義づけをも拒否するものであって、まさに生きられなければならぬものだからである。遺稿となった『人と人々』(語られたのは主に一九四九年から一九五〇年にかけてである)の中に、生の理説はさらに円熟味を増して開陳されるわけだが、そこで彼は生の理説の難解性に触れて次のように語っている。
 「私が描こうと思ったのは、各人の個別的世界でも、ある特定の人のそれでもなく、また私の世界についてですらなかった。われわれはただ、非常に具体的なことを、抽象的かつ一般的に話しているのである。これこそ生の理論の持つ本質的なパラドックスである。生は各人のものであるが、それについての理論は、すべての理論と同じく一般的なものなのだ。つまりそれは、各自が自分の自叙伝を当てはめることのできる空の抽象的な額縁なのである」(24)
 つまり生は、人間的生は、「生物学的――もし生物学というものを精神・肉体に関する学というふうに解するなら――にあらずして伝記的な意味での生」なのである。
 前稿で取りあげた「プロローグの形をとった美学の試み」は、オルテガが生の理説を練りあげていた一九一四年の作品であるが、そこで彼は、「私は私と私の環境である」の第一の「私」、ということは「生」、についてこう語っている。
 「私はだれかれとは異なるこの人間を意味しているのでもなければ、ましてや物と異なる人問一般を意味しているのでもない。そうではなくてすべてを、つまり自己を遂行する、自己を実現するというかぎりでの人間、物、状況のすべてを意味しているのである」(26)
 つまり「私」は遂行を、現存を、充全の現実を意味している。彼はこの活動としての生、あるいは遂行としての生を、次のような見事な比喩のうちに表現している。
 「生は引きとめることも、捕えることも、跳びこえることもゆるさない一つの手に負えぬ流れである。成りつつあると同時に、手のほどこしようもなく存在することをやめて行くものである。……中略……それはちょうど、それ自体はとらえることのできない風が、やわらかな雲のからだの上に身をおどらせ、それを引きのばし、よじり、波打たせ、とがらせるようなものである。われわれは視線を上げて綿毛の形をした雲の中に、風の襲った跡を、その激しくも軽やかなこぶしの跡を見るだけなのだ」(28)
 生はまさしく、生でないものにかまけることであり(29)、過去分詞ではなく現在分詞である(30)。前述した生の劇的性格はすべてここから生じる。つまり、生は他ならぬ戦いであり劇であり、動的で流動的で非物質的なあるものなのだ。人間は考える物(res cogitans)ではなく、劇的なるもの(res dramatica)なのである(32)
 まさしく生は懸念(preocupación、ドイツ語 Sorge)である。ハイデッガーより十三年前に主張されたこの見解をめぐって、われわれはいわゆる実存哲学とオルテガ哲学との関係を見てみなければならないが、それはまた稿を改めて論じなければならない問題である。


(1) マタイス、佐々木訳『ドン・キホーテに関する思索』、181ぺー ジ、一九六八年、現代思潮社。
(2) Obras Completas de Jose Ortaga y Gasset, vol. III, pp. 271-280、なお邦訳は白水社「オルテガ著作集」、第一巻(一九七〇)に井上正氏の訳で収録されている。
(3) 『ドン・キホーテに関する思索』、七三ぺージ。
(4) 『個人と社会』(白水社「オルテガ著作集」第五巻)、五〇ぺージ。
(5) Cf. Paulino Garagorri, Unamuno, Ortega, Zubiri, en la filosofía Española, Editorial Plenitud, 1968. Ferrater Mora, Obras Selectas, Vol. I, Ed. De Revista de Occidente, 1967, p.153.
(6) 前掲書、二五ぺージ。
(7) あるいはわれわれはここに,ディルタイの名前をつけ加えるべきかも知れない。事実、彼の生の理説はディルタイのそれと重なり合う部分が少なくないが、しかしオルテガ自身の言葉を信じるとすれば、彼がディルタイの見解を知ったのは一九三〇年ごろであり、詳しく検討したのは一九三三年、「ウィルへルム・ディルタイと生の理念」というエッセイを書いたときである。Cf. O. C. de Ortega, vol. VI, p.170. だが自身そこで「ディルタイを知らないことが私の生涯のおよそ十年間を失わせることになった」と書いているように、両者の比較検討はおそらくユクスキュルやフッサールとのそれよりも重要であろう。それは今回の拙稿の範囲をはるかに越える問題なので他日を期したい。
(8) 生松敬三、木田 元著『理性の運命』、中公新書、一九七六年、一五三ぺージ。
(9) 「死と再生」O. C., vol. II, p.149.
(10) O. C., vol, p.308.
(11) Cf. P. Garagorri, Op. Cit. p.33.
(12) 河野與一訳『現代哲学入門』、岩波新書、一九五三年、18-19ぺージ。
(13)  O. C., vol. I, pp.244-260.
(14) 前掲書、一一五ぺージ。
(15) 前掲書、一二三ぺージ。
(16) 『ドン・キホーテに関する思索』、一五八ぺージ。
(17) 前掲書、二四ぺージ。この鉄槌の比喩はハイデッガーもその著「存在と時間」の道具性に関する説で便っているのは興味深い(第十五節「まわりの世界の中で出会われる有るものの有」参照)。
(18) O. C., vol. IV, p.400.
(19) 井上 正訳『現代の課題』(白水社「オルテガ著作集」、第一巻)、一九二ページ。
(20) O. C., vol. VIII, p.273.
(21) 前掲書、164ページ。
(22) 前掲書、73ページ。
(23) 前掲書、265ページ。
(24) 白水社「オルテガ著作集」第五巻、114ページ。
(25) 前掲書、57ページ。 Cf. O. C., vol.IV, p.194.
(26) O. C., vol.VI, p.253.
(27) Cf. Julián Marías, Ortega, Circunstancia y vocación, II, p.202.
(28) O. C., vol. II,p.519.
(29) O. C., vol. III, p.187, Cf. P. Garagorri, op. Cit., p.29.
(30) O. C., vol. VI, p.33.
(31) O. C., vol. VIII, p.52.
(32) Ibid.
(33) O. C., vol. IX, p.654.



「清泉女子大学紀要」、第24号、1976年