8. モノダイアローグ(1979年)



モノダイアローグ



――なんだい、このモノダイアローグっていうのは?
――訳して「独対話」。ウナムーノが作った言葉だけどね。つまり人がひとりごとを言うとき、実は自分と対話しているという意味なんだが。
――なるほど。それは分かるけど、でもモノローグというものがすべからくモノダイアローグだというんなら、ことさら新しい言葉を作らなくとも、ただモノローグと言えばすむんじゃないかい? つまりモノダイアローグでないモノローグがあるのか、ないのか。あるとしたらそれはモノダイアローグとどう違うのか。
――いや、そこまでは考えなかったね。ウナムーノは考えたのかな? でも音声を伴う伴わないにかかわらず、人がひとりごとを言うとき、自分に対して語りかけているというのは認めざるをえないたろう?
――しかしその話しかける私と、話しかけられる私と、どっちが本当の私なのかな。
――どちらも本当の私であるとも言えるし、どちらも本当の私でないとも言える。君も知っているとおり……
――君ってぼくのことかい?
――僕って君のことかい?
――茶化さないでくれよ、とたんに分からなくなってきたじゃないか。ぼくはどっちのぼくなのか。良くあるじゃないか、たとえばロシアの小説なんかで、長い対話が続いて、途中でいま話しているのはイワンなのか、それともアリョーシャなのか分からなくなって、最初にもどってこれはイワン、これはアリョーシャ、するとこれはイワンだ、と確かめたりしてね。そうなるととたんに興がさめてしまうね。
――そうかな、どっちだって同じことじゃないかな。だってどちらも結局は作者の中の対話者なんだから。先ほどのウナムーノだがね、彼は『ドン・キホーテとサンチョの生涯』の中で、原作ではサンソン・カラスコの言葉なのにサンチョの言葉として論を進めたことがあってね。それをある人から注意されると、何を言うか、まちがっているのはセルバンテスの方であって、自分が所蔵している原作の原作、つまりアラビア人シーデ・ハメーテ・ベネンヘリの原文ではやはりサンチョの言葉になっている、と反論したのさ。
――ベネンヘリというのは実在の人物なの?
――いいや、セルバンテスのでっちあげさ。
――すると、どういうこと?
――いやべつに、ただそれだけのことさ。ところで話を前に戻して、君も知っている通り..
――おや、君は君にもどったね。まちがうんじゃないかと期待していたんだが……
――君も人が悪いね。でも白状するとね、君に「君ってぼくのことかい?」と聞かれてから、ちょっと考えこんでしまってね。それで分からなくなってしまって、最初からたどり直してみたんだよ。
――無理しなくてもいいのに。 
――それで君も知ってのとおり、ペルソナという言葉も、もともとは仮面を意味していたからね。つまり人それぞれ仮面をつけて生きているというわけ。
――それで仮面の下は?
――何もない。ちょうどラッキョウの皮をむくぐあいに、これは仮面、これも仮面と剥いでいけば後には何も残らない。
――しかしそれは危険な考え方だな。それじゃ人間としての一貫性はどうなる、人間としての責任はどうなる?
――たいして心配するほどのこともないと思うよ。つまりすべての人がおのれを仮面的存在として自覚するなら、そこにおのずからへりくだる心が芽生えてくる。つまり徹底したおのれの偽物性の自覚、この仮面の下にはいわゆる本当の私なんていないんだという自覚から、逆にこの仮面を誠実に生きようとの覚悟が生まれてくる。
――ははあ、そんなテーマの映画があったね。確かデ・シーカの主演した偽将軍の映画が。もっとも筋の方はほとんど忘れてしまったが。それはともかく、この世の中で何が不確かだといって、この私ほど不確かなものはないんじゃないかな。人間のやることなすこと、すべてこの不確かな私をなんとか確かな私にしようとの試みである、と言うことができる。生きるとは、絶えず自己の位置を測定することと言い換えてもいい。
――オルテガの言ういわゆる難破者の思想というやつ。
――そう、オルテガはこう言っている。「私はただ難破者の思想を信ずる。私は問題の底をついた者の言葉を信ずる。私は難破した劇的な底から生まれ出た思想だけを信ずる」。体制、反体制を問わず(なぜなら両サイドにいるからだが)いわゆる体制的な人間に対するぼくの嫌悪感はここに由来する。
――わかる気もするけど、ちょっと唐突だな。それに君はまったくの政治オンチじゃなかったのかい?
――そうだろうね。しかしとりわけ現代、非政治的であることが逆に政治的な意味を帯びてくる、それほど人間が政治の中にがっちり組み込まれてしまっていることだけは分かるけど……
――でも君がこうやって原稿用紙にむかったのは、そんなことを言い出すためじゃなかったんだろう?
――実を言うとそうなんだ。さっきからどのあたりから本題に入ろうかと迷っていたところだ。いま原稿用紙の六枚目の終わり近く、そろそろいいだろう。
――何をもったいぶっているんだい。言いたいことを単刀直入に言ってほしいな。
――しかしそうは言うけどね、人間本当に言いたいことは一言ですんじゃうぜ。あの壮大な体系を築いたへーゲルだって、「理性的なるものはすべて現実的であり、現実的なるものはすべて理性的である」と言いたいばっかりに、あの膨大な量の作品を書いたんだし。 
――おや大きく出たね。
――しかし本当のことだぜ。「私とは何か」を含めて、すべてのことの真実が明かされないのは、われわれにとって不幸でもあるが、また幸いでもある。真理を見た者は盲になるほど、真理というやつは強烈なものさ。真理を見たいがための悪戦苦闘という面から見たら、生きることは悲劇的だが、真理を見ることを一寸刻みに延ばしているという面から見れば、生は喜劇的である。
――またウナムーノ。
――そう露骨にいやな顔をしなさんな。確かに、『生の悲劇的感情』のウナムーノは、生きることはパサール・エル・ラト、つまり暇つぶしをする、時をやり過ごすことである、とも言っているからね。つまり生の意味を見出さんとする姿勢からは悲劇的感情が生まれ、生の無意味さを暇つぶしでまぎらせようとする姿勢からは喜劇的感情が生まれる。
――答は分かっているような気がするけど、どちらが本当なの?
――そう、どちらも本当。というより、どちらも結局、同じ一つのことを言っているにすぎない。なぜならパサール・エル・ラトのパサールという言葉は、同時に、苦しむ、耐えるという意味、つまり生の無意味さに耐えることでもあるからね。
――どちらにしてもペシミスティックだな。            
――そうかな、いやむしろペシミスティック・オプティミズムだと思うがね。つまり根底はオプティミズム。
――だれが? ウナムーノそれとも君?
――どららも。なぜってぼくにとってウナムーノはぼくにとってのウナムーノでしかないからね。
――君、それは詭弁だぜ。それじゃ君とは別個の、つまり君の存在にかかわりなく、客観的に存在する(いや、存在したと言うべきかな)ウナムーノなどいないというわけかい?
――おや、君はこのぼくに楯つこうというわけ? そんなことできるの? だいたい君がこうして話しているのはだれのおかげかな。
――君をこの原稿用紙に登場させたのはこのぼくなんだぜ。
――そのぼくは本当に君かい?
―― あわてて前に戻って読み返すなんてやめろよ、みっともない。
――そうだな、君はぼくで、ぼくは君なんだよね。つまりぼくは君でもあるわけだ。君を抹殺することはぼくを抹殺することでもある。
――そういうわけ。またまた脱線したね。きりがないぜ。つまるところ君は、今回は作品を書かない、いや書けないかわりに、君のひねり出したペン・ネームとやらを御披露したいわけなんだろう?
――御披露なんて大げさな。
――そうだよな、だいいちこれまで作品らしい作品を書いたこともないくせにね。いままで発表したものも、みんな十年前に書いたもので、以後一行も書いてないというじやないか。それで、ペン・ネームをつけることで、これからどしどし書いていこうというわけ?
――ぜーんぜん。いままでとたいして変わらない。それにこの「富士貞房」という名前も十年前にふざけて考え出したものだしね。
――でもいまになってことさら「富士貞房」を名乗るからには、たとえばあのころの初心に戻って、決意新たに創作する気になったんだろう?
――そうだったらいいんだけど、残念ながら……でもね、ペン・ネームを使うことで、頭の中のモヤモヤを整理したいということはあるね。
――しかし、先ほどからの君の論からいけば、もともと実名なんてものはなくて、みんな仮名ということにならないかい?
――だれが? ウナムーノそれとも君?
――どららも。なぜってぼくにとってウナムーノはぼくにとってのウナムーノでしかないからね。
――君、それは詭弁だぜ。それじゃ君とは別個の、つまり君の存在にかかわりなく、客観的に存在する(いや、存在したと言うべきかな)ウナムーノなどいないというわけかい?
――おや、君はこのぼくに楯つこうというわけ? そんなことできるの? だいたい君がこうして話しているのはだれのおかげかな。
――君をこの原稿用紙に登場させたのはこのぼくなんだぜ。
――そのぼくは本当に君かい?
―― あわてて前に戻って読み返すなんてやめろよ、みっともない。
――そうだな、君はぼくで、ぼくは君なんだよね。つまりぼくは君でもあるわけだ。君を抹殺することはぼくを抹殺することでもある。
――そういうわけ。またまた脱線したね。きりがないぜ。つまるところ君は、今回は作品を書かない、いや書けないかわりに、君のひねり出したペン・ネームとやらを御披露したいわけなんだろう?
――御披露なんて大げさな。
――そうだよな、だいいちこれまで作品らしい作品を書いたこともないくせにね。いままで発表したものも、みんな十年前に書いたもので、以後一行も書いてないというじやないか。それで、ペン・ネームをつけることで、これからどしどし書いていこうというわけ?
――ぜーんぜん。いままでとたいして変わらない。それにこの「富士貞房」という名前も十年前にふざけて考え出したものだしね。
――でもいまになってことさら「富士貞房」を名乗るからには、たとえばあのころの初心に戻って、決意新たに創作する気になったんだろう?
――そうだったらいいんだけど、残念ながら……でもね、ペン・ネームを使うことで、頭の中のモヤモヤを整理したいということはあるね。
――しかし、先ほどからの君の論からいけば、もともと実名なんてものはなくて、みんな仮名ということにならないかい?
――そうだろうね。たとえば実生活者「小川国夫」にとって、小説家「小川国夫」は立派なペン・ネームだろうからね。しかしさっきのモノダイアローグと同じことで、つまりモノローグをあえてモノダイアローグと言い換えるのと同じ理屈で、ペン・ネームにもそれなりに意味があるんじやないかな。
――するとこの文章の題は、「モノダイアローグとしての富士貞房」であってもいいわけだ。
――そう、そういうことになるね。
――しかしペン・ネームを使うというのは、何て言ったらいいのか、こっぱずかしいことだね。
――なんだいそりゃ?
――つまりなんとも照れくさいことだね。
――そりゃぼくにも抵抗があるよ。でもこの際恥をかこうじゃないの。
――ところで、その「富士貞房」っていう名前に何か意味があるのかい?
――ペン・ネームの由来を語るなんてのは、大作家が回顧録か何かで、さりげなく語るのはサマになるが、何も書いてないのに仰々しく打ち明けるなんてのは、ちとイヤミだね。
――でもいいじゃない、この際思い切って言ってみれば? だれか既成の作家から取ったの? アべ・コーボーと関係ない?
――ないね。ちょっと発音してごらん。
――フジ・テイボー。
――続けて、もっと早く。
――フジ・テイボー、フジ・テイボー、フジティーボー、あっ、フジティーボ?
――そう、fujitivo、逃亡者。
――何からの?
――そこまで種明かししなくてもいいだろう?
――いいよ、別に聞きたくもないやね。だいいち、君がいままでしゃべったことの中に答えが出ているじゃないか。
――そういうこと。


「青銅時代」、第二十二号、一九七九年)