8. 堀田義衛著『ゴヤ』評(1977)



堀田義衛著『ゴヤ』



 堀田善衛氏の大作『ゴヤ』全四巻が完結した。これは文字通りに大作であって、今回、一度読んでおいたものを含めて全巻を通読し、改めて圧倒された。堀田氏の良き読者でない私にもこれが氏のライフ・ワークであるとの宣伝文句に素直に納得することができる。 ところで書評の依頼が美術誌であるから、これを画家論、美術評論として論評しなければならないのか、と一瞬迷ったが、そんなことはないと思い直した。美術に暗い私にそんな大それたことが求められるはずがない。私がこれまでかかわってきたスぺイン思想史という観点から考えてみれればいいのだろう。いや、もしかするとその方がまっとうな視点かも分からない。というのは、本書はいわゆる画家論をはるかに越え出て、一種のスペイン文明論として読むことが立派に可能だからである。
 ゴヤが生きた十八世紀から十九世紀のスぺインは、最近少しずつ関心が高まってきたとはいえ、本国においても歴史研究の手薄なところで、堀田氏はその空白をゴヤという、これこそスぺイン人であるとしか言いようのない生きた人間を通して埋めてくれた。もちろん歴史書でないから、歴史的な事実や統計的データで埋めているわけではない。しかしそれらよりはるかに重要な、生きた人間を通してスぺインを現出させることに見事に成功している。
 生きた人間を通しての生きたスぺインであるから、混沌は混沌のまま、矛盾は矛盾のまま、それこそ「ごろた石」のようにころがっている。第一巻冒頭の「スペイン・光と影」にある「何かが起るようでいて、たしかに何かが起って、しかもなお結果としては、あたかも何事も起らなかったかのような結果になるのは、スぺイン史の謎とでも言うべきものであろう」という堀田氏の名言は、今後スぺインを語る人にしばしば引用されることになろう。もちろん似たような見解は、氏も同じ箇所で言及しているように、ディエス・デル・コラールの「スぺイン史は断絶の連続である」という言葉にも見られるし、歴史家サンチェス・アルボルノースには『スぺイン、歴史の謎』と題する大著もある。またこのアルボルノースと論争したアメリコ・カストロは、スぺイン的生は自己を破壊しての生である、といった見解をとっている。だが堀田氏は、ゴヤというそれ自体謎に満ちた一人の人間を通して、そのスぺインの謎を肉化したのである。
 しかし『ゴヤ』が大作であるのは、それがすぐれたスぺイン文明論であることだけに由来するのであろうか。そうではないと思う。画家論を越えてスぺイン文明論に達しているばかりでなく、スぺイン文明論をも突き抜けて一つの「人間論」に至っているからではなかろうか。たとえばゴヤの作品の中でも、もっとも謎に満ちた十四枚の「黒い絵」を前に堀田氏はしばしば絶句する(ついでに言えば、きわめて自由かつ雄弁な堀田氏の語り口が実は逆説的に、ゴヤの謎を黒々と浮かび上がらせるための有効な手段たりえている。絶句は、だから比喩的な意味でのそれである)。深層心理学的あるいは形而上学的な図解術に組する誘惑をしりぞけて、むしろ絶句することを選ぶ。そしてつぶやく。「老ゴヤは、人間のど真中にいる」、「私はやはりここに、老いてもいなければ若くもない、等身大の人間を見る思いがする」(傍点堀田氏)と。
 ゴヤの中には、現代絵画の革新性を先取りする現代人が存在すると同時に、原始人が、もっと正確に言えば人祖アダムが存在する。前述した「断絶の連続」、「自己の生を破壊しての生」という、スぺインそれ自体の本質が、このゴヤの中に具体的な姿を取って立ち現われる。ゴヤにはふつう言う意味での成熟はありえない。言うとすれば、むしろ初源からの不断の生成である。ゴヤの前に生は絶えざる課題として立ちはだかる。
 ここで思い起こされるのは、ゴヤより約一世紀後に登場する哲学者オルテガの『楽園のアダム』というエッセイである。これは一種の絵画論という体裁をとっているが、実は四年後の一九一四年に『ドン・キホーテをめぐる思索』で展開される彼の生の哲学、なかんずく「私は私と私の環境である」という命題を予告するエッセイである。「人間が生まれそして生き始めた時、同時に世界の生も始まった」。「アダムにとって生は課題として存在する」。アダムとは何者か。アダムはすべての人間であり、すべての人間の生である。堀田氏が描き切ったゴヤは、フランシスコ・ゴヤであると同時に、われわれ一人ひとりのうちに存在するゴヤ=人間なのだ。本書がすぐれた人間論でもある、というのは以上の意味合いにおいてである。



『三彩』、一九七七年七月号