9. オルテガと地中海 (1978年)


オルテガと地中海


  最近発見されたオルテガの未発表草稿の中に、自分の苗字は地中海的である、という言葉が見られる。しかし苗宇といってもスペインでは父方のそれと母方のそれとが併記されるから、それがオルテガを指しているのかガセットを指しているのか、にわかには断じがたいが、まあ可能性としては母方の姓のことであろう。というのは母の姓はガセット・イ・チンチリャで、少年時代オルテガは母方の実家チンチリャ家がマルべリャに所有していた別荘によく遊びに行っていたからである。生まれはマドリードだが、八歳から十四歳まで、マラガにあるイエズス会経営ミラフローレス・デル・パロ学院に学ぶようになったのも、この母方の実家との関係からかも知れない。
 とにかくマルべリャもマラガも地中海に面した町であるから、オルテガは感受性豊かな少年時代、毎日のように地中海を眺めて暮した、眺めないまでも地中海の潮風を呼吸して暮らしたというわけだ。これが彼の思想形成に微妙な影を落とさないわけがない。
 地中海とオルテガと聞いて、まずわれわれの頭に浮かぶのは、あらゆる意味で彼の思想の旅の起点となった『ドン・キホーテに関する思索』(1914)の中の、あの有名な地中海文化論であろう。「地中海文化がひとつの現実であった時に、ヨーロッパもアフリカも存在していなかった」。この言葉は牟田口義郎氏の『地中海のほとり』の冒頭にも引用されているが、私にとってこれは地中海文化理解への啓示のようなものであった。
 われわれはよくゲルマン文化と対比させてラテン文化と言うが、オルテガによればラテン文化などというものは存在しないのである。なぜなら、確かにローマはカルタゴに勝ったが、しかし両者にもともと本質的な差異はないのであって、たとえ勝利がローマからカルタゴに移ったとしても、それに続く諸世紀の容貌はそう変わらなかったであろう。双方とも、ギリシャ精神からは、同じように絶対的な遠さにあったのである。
 つまりここでオルテガは、ギリシャとローマを二つの古典的国家として無差別に語る傾向に釘をさすと同時に、地中海文化の統一性、同質性を強調しているわけだが、しからばその地中海文化を構成する基本的な特徴は何か。しかし、ここでふたたびオルテガは注意をうながす、地中海文化の原初的な特徴やその基本的な調音を再構成しようとの試みは極めて有益な仕事ではあるが、それを実践するに際しては、ゲルマン人の到来がたかだか数世紀の問だけ純粋に地中海的であった国々に残したものと、その本来の特徴とを混同しないことが大切である、と。
 たとえばよくラテン的(つまり正確には地中海的)明澄性あるいは明晰性ということが言われる。しかし実はこれが大変に曲者であって、むしろわれわれはこの言葉に眩惑されて地中海文化の真の理解がはばまれているのではないか。オルテガは中世以降の地中海文化のうち、ゲルマン文化と張り合うことのできる二つの思想的頂点としてイタリア・ルネサンスとデカルトを挙げて次のように言っている。「ところが私としては、ゲルマンの思想に本質的な点において属していないこれら二つの歴史的現象の中に、あらゆる徳を認めることができるのに、明澄さだけは認めることができないのである。ライプニッツあるいはカントあるいはへーゲルは難解である。しかし彼らは春の朝のように明るい。ジョルダーノ・ブルーノやデカルトはおそらく彼ら同様の難解さは持たないが、反対に、判然としないところがあるのだ」。
 つまり地中海的思想家は一見優雅ではあるが、その底にはひとつの根本的な曖昧さが横たわっている。オルテガは地中海的知性のもっとも代表的な人物としてヴィーコを挙げ、「彼が思想的な天才であることは否定できない。しかし彼の作品に精通した者なら、混沌かどんなものであるかを間近に学ぶことができよう」と言っている。
 と、ここまでオルテガの地中海文化論の一端を紹介してきたのだが、表題を「オルデガと地中海、としたのは、実はオルテガにおける地中海文化の影響を考えてみたかったのであるが、これが私のなかで一大難問としてわだかまっている。オルテガ思想に内在する地中海的要素がいまひとつつかめないのだ。いきなり地中海的要素と言ってもそれこそ漠然としているが、言うなればデカルトやヴィーコに関してオルテガが言っているような意味合いにおける地中海的要素である。曖昧さ、よく言えば豊穣さとでも言えようか。
 それは何に由来するのか。いま考えつくことと言えば、適切な言葉が思いつかぬまま一応、調和主義とでも呼ぶべきものである(折衷主義や混合主義とどう違うのかと聞かれても返事につまるが)。たとえば彼の生・理性主義がそうだ。一世代前のウナムーノが理性と生を激しく対立させたのに対して、オルテガは理性と生の調和を説いた。専制君主の座にあった理性を退位させなければならないが、しかし排斥するのではなく生に奉仕させなければならない。もっと正確に言うなら生は理性的であり、理性は生的でなければならない、生ける理性でなければならない。
 こうした生・理性主義がいわば萌芽的に現われるのは、前述の『ドン・キホーテに関する思索』においてであるが、そのドン・キホーテ解釈においても、先の特徴は明瞭に現われている。つまりウナムーノが熱情的・悲劇的キホティズムを展開したのに対し、オルテガは調和と静穏を求めるキホティズムを打ち出そうとする。「私の名によって二、三人が集まるところには、私もまたそこにいる」というキリストの言葉を援用しながら、憎しみと無理解で散り散りになったスぺイン人の魂を霊の糸で縫い合わせるキホーテ像を提示しようとする。残念ながらこのキホーテ論は未完に終わった。われわれがいま手にすることができるのは、初めの構想からすればただその前半にすぎず、後半部はタイトルだけしか残されていない。そしてそのタイトルの一つに「セルバンテスのアルシオニスモ」というのがある。
 アルシオシとは鳥の名前で(ギリシャ語ではアルキュオン)、これが現代では何という鳥を指すかは不明らしいが、言い伝えによると、この鳥は海の傍に巣を作り、七日のあいだ卵を暖め、さらに七日のあいだ、つまり飛び立つことができるまで雛を育てる習性を持ち、この間は海が凪ぐとされている。またギリシャ神話では風の神アイオロスの娘の名前であり、ウェルギリウスやオウィディウスによればその夫ケーユスクスと共に、夫婦愛の模範とされているらしい。オルテガがアルシオニスモという言葉で正確には何を意味せんとしていたかはもちろん不明であるが、まちがいなく言えることは、オルテガのドン・キーテ論が、ウナムーノの「まるでセルバンテスは存在していないかのような」、「血の気の多い身ぶりに満ちた不条理な実存へとわれわれを招く」ドン・キホーテ論とまさに対照的な見地から書かれようとしていたということである。
 この点でオルテガの姿勢は一貫している。たとえば九年間にわたる亡命から帰国してまもない1948年、彼が設立した「人文科学研究所」の趣意書にはこう書いている。「支配的であり秩序を与えるのは不安でばなく静穏である。そこにおいてこそ、人間は真に自己の生を所有し、真に実存することができる。そこにおいてこそ、文字通り人間らしくなる。これはキルケゴールの不安やウナムーノの苦悩と対立する見解であるが、ウナムーノ亡きあとは、むしろハイデッガーを強く意識しての発言であることは明らかであろう。
 さらにオルテガ思想における地中海的感の例をもう一つ挙げることができる。それは対になった神々(Dii consentes)という隠喩である。つまり主体と客体の関係を隠喩で表現するなら、古代人、中世人にとってはそれは「ロウ板と刻印」であり、近代人にとって のそれは「容器と内容」であり、そして現代人つまり生・理性(あるいは歴史理性)の時代の人問にとってのそれは、地中海沿岸の神話に見られる対になった神々、すなわち共に生まれ共に死なねばならぬ神々であると言うのである。もちろんこれはオルテガ哲学の要とも言うべき「私は私と私の環境である」の隠喩的表現である。
 与えられた紙幅がとうに尽きたのに、地中海的調和、静穏のどこが分かりにくいか、ということが実は分からない,それを大急ぎで言ってしまえば(いや、その分かりにくさを増幅させることになるが)たとえばセビーリャの色事師ドン・フワンの曖昧さであり、現代で言うならカミュの持に初期作品群の判然としないところとほぼ同質の分かりにくさで ある,たしかに明るいのだが、その明るさの下に黒々と謎めいたものが隠見する。その意味で私の頭蓋の内部では、常識に反して地中海は依然として闇につつまれている。そして その分だけ観念の狩人オルテガの像が影になっている。


「地中海学会月報」、No.9、1978年4月