どのような経緯でフロスト警部と出会ったのか、いつもの通りぼやけた記憶しか残っていない。ともかくだいぶ前、たぶんWOWOWを見始めた頃(現在は見ていない)、連続ドラマで彼の登場する番組を何作か見たはずだ。コロンボ警部のように風采の上がらない中年男。そして一週間ほど前、アマゾンの広告かどこかで『クリスマスのフロスト』という本のタイトルを見て、季節柄なぜか懐かしい気持になったのだろう。それが例の破壊された価格でもあったから、さっそく注文したわけだ。
ところが読み始めたら止まらなくなった。風采の上がらない、という点ではコロンボとどっこいどっこいだが、大きく違うのは彼がとびきり下品で、しかもスケベだという点である。いまや地球上のいずこにもあるニュータウン、つまり歴史ある地方都市が急速に俗化・変貌してゆくそんなデントンというイギリスの田舎町の警察署。本当はここまでの説明に本文ではすでに「くそ」という間投詞・形容詞が十個ぐらい使われているのだが(例えばクソ警察署など)あまりに多いのでそれは省略。
なにせ署員の残業手当申請書や犯罪統計表など提出しなければならない書類は締め切り過ぎてもきったなーい机の上に山積み、出る言葉出る言葉は品のないエロ話か、クソ面白くも無いオヤジ・ギャグ。そんな彼がなぜ平の警官から警部にもなり、しかもドジ続きなのに追い出されないのか。その一つの理由は、彼があの有名なジョージ十字勲章の保持者であることか。銀行を襲って人質を盾にした凶悪犯に無謀にも立ち向かって、頬を射抜かれながら逮捕したことで女王陛下じきじきに授けられた勲章。
でもあるときぽろっと言ったように、その頃死病に冒されて病院で死を待っている奥さんのことが頭にあって、死んでもいいとまで落ち込んでいただけで、決して英雄的な行動ではなかったようだ。でもそれでも一種の美談であることに変わりはない。ところがまた別なとき、思わず白状したのは、そんな時なのに奥さん以外の女との腐れ縁が続いていてそれで自暴自棄になっていたそうなのだ。要するにとことんいい加減な男。
でもどうしてだろう、こんな男と友だちになりたくもないし、できれば敬遠したい男なのに、なぜか気になるのは。実は『クリスマスのフロスト』を読み終わらないうちに、早くも『フロスト日和』、『フロスト気質』(上下)、そして『夜のフロスト』を取り寄せたのだ。いずれも例の破壊された価格だからいいようなものの、残された貴重な時間をそんなクソ警部のために使っていいものだろうか。つごう四作ものフロスト事件簿、いやここまで言ったのだからもう一丁白状しよう、実は昨日、第三弾としてさらに『冬のフロスト』(上下)と『夜明けのフロスト』までも注文してしまったのだ。もっとも後者は表題作以外はそれぞれ作者の違う合計七つの作品のアンソロジーだが。
そして届いたフロストを次々と布で包んで特装本にしてやっている。どうもフロスト中毒に罹ったらしい。確かにとんでもない男ではあるが、しかしどこか憎めない。彼の品の無いダジャレに同僚や部下はウンザリしているし、読んでる私自身、ヘキエキして何度中断したことだろう。でもいつのまにか、栞をまさぐって読み続け、いまは二作目の『フロスト日和』の三分の二あたりまで来ている。口は汚いが、警察長や有力者に媚を売りながら権力を笠に着た署長などに比べると、人間としてよっぽど上等で、そして意外に心がきれいだからだろうか。
いずれも創元推理文庫で(最後のアンソロジーは光文社文庫)訳者はすべて芹沢恵。登場したばかりなのに、泥棒にこじ開けられた銀行正面のドアを調べている警官のむっちりしたお尻にいきなりカンチョーするなど、今時の小学生でさえやらない悪戯をかますフロスト、その汚い冗談を見事(!)訳している芹沢君、なかなかやるじゃん、と訳者略歴をみると、なんとそれが女性! それにしては次々と繰り出される卑猥な言葉をなんと上手に訳すことか。例えば「屁のつっぱりにもならない」なんて古典的な悪態までも駆使して。
このシリーズに惹かれるのは、ストーリー展開が天下一品だけでなく、作者ウィングフィールドの描写力が一流だからだ。ふつう推理小説など犯人探しに気を取られて、状況描写など飛ばし読みするところだが、この作者はテレビの仕事もやっていたせいか、実に視覚的にも正確な描写で文章が引き締まっており、流し読みをさせてくれない。1994年の「週刊文春」で『クリスマスのフロスト』が年間一位、97年の「このミステリーがすごい!」で『フロスト日和』が第一位、さらに2001年の「週刊文春」でも『夜のフロスト』が第一位に輝いている。(作者は2007年に帰天したので(合掌!)、これ以上作品が増えないのも魅力?)。
それにしても登場するのは欲求不満の男たちと色情狂の女たちのオンパレード、といったら言い過ぎか。まさかイギリス全土がそんなはずはないと思うが…でも表面には見えないが、この日本だって一皮剥けば似たり寄ったりかも。最近のネット情報には、教員や警官による性犯罪が連日のように報道されている。そう考えると目の前が暗くなるが、そんなとき、フロストのようにたじろがず、むしろ毒を持って毒を制す式のしたたかさが必要なのかもしれない。事実、小説の中では、フロストの行くところ、いつの間にか場が和らぎ、ときには憐憫の苦笑のうちにも問題解決の糸口が見えてくるのは不思議だ。
汚い公衆便所で吐瀉物にまみれて死んでいる浮浪者も、享楽と奢侈の果てに死んでいる金持ちの死体も、彼の目には等価に映るらしく、そこに一切の差別を感じさせない。口には出さないが、彼の行動を最終的に律しているのは悪に対する怒りであり、そして弱者に対する愛である。そんなことを面と向かって言ったら、彼は即座に品の無い与太話ではぐらかすだろう。彼が照れたり狼狽するとき、頬の古傷を手でなぞるとだけ作者は書いているが、汚い言葉を吐き散らしながらもおそらく彼の目は澄んでいるはず、と勝手に想像している。
いつものように話は突然変わるが、見るとはなしに見るテレビ画面やらネット新聞には、今夏のあの安保法制反対のうねりはどこへやら、政局はいよいよ混迷の度を加えているようだ。今晩のテレビには憲法改正論者たちの大集会でかつての愛国婦人会よろしく櫻井よしこの演説が、そして背後の大画面で安倍首相のメッセージが流されるなど、憲法改正の動きも加速してきたようだ。
でも散弾銃で頭部が吹き飛ばされてザクロ状になったガイシャの様子や、凍えるような寒空の中、膝を折って一寸刻みで犯人の手がかりを求めて現場を匍匐前進する作業に付き合ったからには、やつら(ってだれのこと? そったらこと言うまでもあるめえー)になんぞ負けてられるか、との不思議な闘争心が湧いてくる。逆転勝利まで頑張るぞ、とのクソ元気が湧いてくる。そう、これぞフロスト効果。
※追記
自分なりに(?)久しぶりに面白いもの書いたと思ったが、真面目な阿部さん以外だれも喰いつかなかった(?失礼!)ので、ヤケクソになって以下の駄文を弄します。
フロスト警部とは名前の一部以外まったく無関係だが、「効果」という点では満更無関係ではないので、ついでにご紹介しておく。ドイツの医師ヨハン・ライデンフロスト(Johann Gottlob Leidenfrost)に由来する現象である。すなわち(ライデン)フロスト効果とは、液体をその沸点よりはるかに熱く熱した金属板などの高温固体に滴らすと、蒸発気体の層が液体の下に生じて熱伝導を阻害するために、液体が瞬時に蒸発してしまうのを妨げる現象によって生じる効果である。
ところがこれが後にノーサンブリアおよびエディンバラ大学の研究者によって、ドライアイスを使った発電機構として開発されたのだ。これにより、火星に豊富にあるドライアイスから電力を得ることができるという 。これには当のフロスト警部もぶったまげることだろう。火星では水は貴重なものだが、ドライアイスは天然資源としてたくさん存在することが確認されている。この技術を使えば、将来、火星で発電所を作成するのに有効だとしている。うわー話は宇宙大に広がったどーっー! 全世界の原発を廃炉に追い込めーっー! ♬♫
※※ 追記の追記 言わずもがなの蛇足
「追記」の最後に、つい勢いにまかせて経済成長論者や宇宙開発推進論者に好餌をばら撒くようなことを口走ってしまったが、そったらもん屁のツッパリにもならへん。本当は今ある資源をつましく、大事に使っていこうぜ、と言いたいだけ。天野祐吉さんが言うように『成長から成熟へ――さらば経済大国』なのだ。その意味での「フロスト効果」大歓迎。上昇志向はもうたくさん、よれよれの茶色のマフラー、折り目などいつつけたかも分からぬ着古したズボンにツンツルテンの上着でもいい、心さえ豊かで暖かければ。
悪人は一人でも悪党と言いますが、善人は多数集まっても善党と言いません。世の中の悪の力は結集力があり巨大かつ強力なものなんだと、そんなことを考えていて、ふと、そう思いました。フロスト警部を先生の文章を拝読して、この人は、私の感じでは頗る老荘的な資質に富んだ人物のように思いました。
「彼の行動を最終的に律しているのは悪に対する怒りであり、そして弱者に対する愛である。そんなことを面と向かって言ったら、彼は即座に品の無い与太話ではぐらかすだろう。」
安倍人気は世論調査などを見ていると、安保法制強行採決で夏場に一時支持率が落ちたようですが、じわじわと最新の状況をみると不支持を上回って挽回してきているようです。来夏の参院選がどういう結果になるかは予測できませんが、お金のばら撒きや軽減税率導入などのその場凌ぎの奇策を打ち出して参院選を乗り越えようとしています。そういうやつらには、老荘的なフロスト警部のような人物の登場を期待したいです。