いま一度なりと

K市で眼科医の受付として働いていた娘から、今度キモノ着用の職場、と言って夜の商売じゃなく鰻屋さん、に転職したとの知らせ。昔からガッツ(とは今は死語か)のある子だったから中一と小五の二人の男の子を育てながら張り切っている。キモノ姿になれるのも嬉しいらしい。
 キモノで思い出したが、美子も正月など着物を着ると意外とサマになっていたことを思い出した。北陸のN市に住む(あるいは住んでいた)母方の叔母二人がむかし祇園で舞妓さんだったこともあって、小さいとき自分も舞妓さんになりたかったそうだが、着物との相性がいいのは血のなせる業か。修学旅行で生徒たちを引率して京都に行ったとき、その叔母たちと撮った写真がアルバムのどこかにあるはず。それにしても北陸と京都は意外と密接に繋がっているのかも。その叔母たちとは、義母の死後まったく音信が途絶えてしまった。
 もうどこかに書いたことだが、両親の死後、なぜか父方の親戚からも音沙汰がまったくなくなってしまったので、付き合いを復活させようかともちかけたところ、いい、パパの親戚と仲良くするから、と答えた。認知症でなければ無理にでも私から関係を修復させたところだが、今はもう美子の言うとおりにしようと思っている。
 それにしても美子にいま一度なりと着物を着させてやりたかった。


【息子追記】最晩年も父は母の境遇を語っては母を憐れに思い、涙を流していた。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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いま一度なりと への6件のフィードバック

  1. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

     その立野先生ですが、現在十日間の旅程でポルトガルを旅してます。終生一キロ四方世界に蟄居する身としては羨ましいと思う気持ちがある一方、もともとあった出不精がますます嵩じていて、それほど羨ましいとも思わないのも本音です。
     でも立野さんのお土産話は今から大いに楽しみにしてます。

  2. 阿部修義 のコメント:

     文章と先生のコメントを拝読して、「ペソア三昧(2009年12月22日)」を読み返していました。

     「テージョ河の川べりで両足を投げ出して川面を見つめる若い頃の妻の姿だ。あれは1980年夏、一家でスペイン旅行をしたときのことだ。白い水玉模様の薄い黒のワンピースを着たまだ若い妻の写真が残っている。あゝあの美しい港町をまた訪れることなどあるのだろうか。いや行けなくてもいい、ペソアの詩や散文を読むことで、アルファマの鰯を焼く匂いやテージョ河の川風を思い出そう。」

     人は、一篇の詩、一枚の写真や絵、一曲の旋律を通じて現実には叶わない過去の季節(とき)を懐かしむことができるんでしょう。最後の言葉に、先生の美子奥様に対する温かな心遣い(慈しみ)を感じます。懐かしいと思う心根には慈しみの心があるのかも知れません。

     

  3. 立野正裕 のコメント:

    佐々木先生、ただいまポルトガルを旅している途中です。
    先月26日、先生からメールをいただきましたが、いままさに離陸寸前で携帯の電源を切ろうとしていたところでした。取り急ぎ返信として、ポルトガルに十日ばかり出かけてきますとお伝えしました。
    持参したパソコンで、ようやくきょうモノディアロゴスを見る機会を得ましたから、旅先から一筆啓上します。

    きのう西海岸のロカ岬(かのカモンイスが「地はここに果て、ここより海始まる」と記したヨーロッパ大陸最西端の場所で、目もくらむような断崖絶壁が大西洋の彼方をにらんでいます。)にほど近いあたりから東へ、リスボンを突っ切って240キロ移動し、ベージャという地方都市にやって来ました。
    日本のガイドブック添付の地図などには、この町の名前は出ていても観光スポットとはみなされていないらしくたった一言の説明もありません。しかし知る人ぞ知る、この町はリルケが独訳した『ポルトガル文』で日本人にも知られているところです。
    佐々木先生はつとにご存じでもありましょうが、いまを去ること350年前、つまり十七世紀のなかば、この町の修道院にマリアナ・アルコフォラドという尼僧がおりました。当時スペインを牽制するため、ポルトガルにフランス軍が駐屯しておりましたが、その一士官を見染め、二人はただならぬ恋に落ちました。しかし一年後、士官は帰国してしまいます。それきり音沙汰の絶えた男に宛てて、古今に絶する熱烈無比の恋文がこの町から書き送られることになりました。それが『ポルトガル文』にほかなりません。
    むかし佐藤春夫が訳したことがありますが、わたしが持参したのは角川文庫版です。
    リルケはいたるところで、このマリアナ・アルコフォラドに言及しておりますね。すべてが軽薄に移り行く近代の世のなかで、頑として移り行くことを拒み続けるものの象徴として、また愛されることを求めるよりも、むしろ愛することを自らの感情のありかたとした人間の情愛の持続の象徴として、過去の時代の何人かの女性たちとともに宣揚して止みませんでした。
    この町へやってきて、いまは歴史博物館兼美術館として使用されているかつての修道院跡を訪れたことで、今回のわたしのポルトガルへの旅の目的の大部分は果たされたも同然です。
    五月初めの当地の風は湿気を払ってとても心地よいので、カフェの外の日かげに陣取って、ビールをちびちび飲みながらこのメールを書いております。

  4. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    立野さん、ポルトガル通信二通、確かに拝受(匿名部分は消しました)。今からもう何十年も前にポルトガルを旅した時のことを懐かしく思い出しました。友人の美術史家・大高保二郎さん運転の中古のフォルクスワーゲンで恩師の故・神吉敬三先生と三人での春の旅でした。
      「ポルトガル文」のこと、昔どこかで聞いたような気がしますが、面白そうなのでさっそくアマゾンで調べたら、ありました!角川文庫版。350円、すぐ注文しました。
     これが届くかどうか機械音痴の私にはわかりかねますが、その時のことを書いた『ビーベスの妹』という作品の、ポルトガル部分だけ、立野さんの旅の道連れにもと、この「談話室」にコピーします。
     楽しい旅になりますように!

    郊外へと向かう帰りの電車の中で、渡された手紙のことを思いだし、ポケットから出してみる。表にはプロフェッソール・***とあり、裏を返すとエル・キンタマ・デ・リスボアとある。キンタナというスペインの人名はあるが、キンタマはないだろう。しかしそのとき頭の中で何かがはじけた。そうだ、彼だ! 二○年近く前の、やはり夜のリスボン郊外の坂道がよみがえってきた。マドリード大学で美術史の勉強をしていたO氏の運転する車でマドリードを出発し、コンキスタドールの生地やローマ時代の遺跡の散在するエストレマドゥーラ地方のどこかの町で一泊して(それがどこの町だったか完全に記憶から消えている)国境を越え、サラザール橋を渡ってリスボンに着いたころは夜になっていた。住所を書いた紙片をたよりに、リスボンでの宿を約束してくれている一人のウルグアイ人の下宿を探さなければならないのだ。彼は同行のK教授が(つまり総勢三人の旅だった)その昔マドリード大学に留学していたころ、学生寮で二年ほど同室した人だった。しかし名前がどうしても出てこない。確かファースト・ネームはローマ人のような名前だったと思うが。
     手紙の主の見当がついたことで胸のつかえが下りたが、しかしその彼が何を言ってきたのだろうか。今度はそれが気になってきた。だが網棚に置いたバッグから老眼鏡を取り出すのも面倒だ。タイプで打った四、五枚ほどの便箋が入っているが、読むのは帰宅してからにしよう。吊り革にぶらさがって、窓外を流れる雨に濡れた夜の街を眺めながら記憶の中をまさぐる。
     そう、彼とはおよそ二○年ほど前、正確に言うなら一九七四年の春、一月ばかりのスペイン滞在のおりに出会った。そのころちょうどサバティカルでマドリードにいたK教授とO氏に誘われて、O氏の車(フォルクスワーゲンの中古)でポルトガル美術の旅に同行したときである。(私自身は途中彼らと別れてサラマンカに寄る予定だった)。さんざん迷ったあげく彼の下宿を見つけたときは、もう夜もかなりふけていた。「ラ・ガビオータ」(鴎亭)という名の、ちょっと怪しい雰囲気の下宿屋だった。そこの主人は肉感的な、どこか退廃的な感じの中年女で、K教授はあとで、彼と彼女はできてるぜ、といやに確信めいた口調で断言した。彼のほかに下宿人がいたかどうかは知らないが、そこは下宿屋であると同時に、ときには泊まり客もとるペンションだったようだ。
     さて彼は、私がサラマンカ大学に届けるはずのスペイン語論文を、翌日から始めたトマールやブラガ(スペイン語では女性の下着を意味するとかでひとしきり冗談が続いたが、内容は思い出せない)への教会巡りの車の中で添削してくれた。しかも速射砲のように絶えずしゃべり続けながら。スペイン語で「コーニョ!」と言うところを、それが口癖なのか、それとも日本からの客に敬意を表してか、「キンタマ!」と連発した。しかし、ふと馬鹿話の嵐が凪いだ合間に、こちらが歌謡曲のカセットを聴こうとすると、「うるさい、こんな景色のいいところで雑音を出すな」などと急に怒り出すこともあった。長年一人暮らしを続けてきたことからくる偏屈な一面も持っていたわけだ。たしかその時は、ドイツの大学に新しい勤め口が見つかったので、数ヶ月後にはリスボンを離れると言っていた。おそらくその後も、何度か勤め先を変えて、今はサラマンカに羽を休めているのだろう。県会議長の説明の中に「図書館」という言葉があったようだが、もしかすると彼は教授としてではなく司書のような身分でサラマンカにいるのだろうか。

  5. 立野正裕 のコメント:

    佐々木先生、この談話室ではありませんが、「ビーベスの妹」のポルトガルのくだりを拝読したことをお伝えしました。
    リスボンは先生にとっては四十数年前のポルトガル美術探求の旅と切っても切れない関わりがあったことになりますね。わたしも今回の旅の最後はリスボンでふた泊するつもりでおりますが、ファドをぜひこの耳で聞いてから帰国したいと思っております。フランスのシャンソンなどと同様に、人生の哀歓を深く歌いこむ伝統的なポルトガルの歌謡ファドというものに、以前から興味をいだいておりました。
    先生の旅でもファドを聴く機会がおありでしたか。
    国立考古学博物館にもむろん行かれたでしょう。わたしはヒエロニムス・ボス(ボッシュ)の晩年の大作『聖アントニウスの誘惑』一点をじっくりと見ることができれば満足です。わたしは感受性の奥行きが不足しているためか、大美術館に赴いてもほんの五、六点を見ただけで、そのあとはもうへとへとになってしまいます。昨年ウィーンに三日ばかり滞在したときも、ブリューゲルの部屋を一日かけて見ただけで、あとは割愛してしまいました。プラドへ出かけたときなどはちゃんと見たのは『ゲルニカ』一作のみです。ゲルニカへも行きました。『ドン・キホーテの哲学 』に先生もゲルニカにおもむかれたことを確かお書きになっておられますね。
    またプラドで思い出しましたが、たとえばドールスの『プラド美術館の三時間』はいい本ではありましょうが、わたしにはあんまり目まぐるしく思われて、ガイドブックとしては付き合いかねる気がしました。先年一読したものの、ほとんどなにも記憶に残っていないありさまです。

    それから、どうでもいい話ですが、むかしアメリカ映画で『リスボン』という作品があったように記憶します。ごぞんじありませんか。わたしの小学生のころでしたから、母親が映画館に見に行くことを許してくれませんでした。にもかかわらず、リスボンという響きが以後記憶に刻まれて、いまになっても妙に懐かしい感情を掻き立てて止まないのです。
    いっぽうテージョ川のことは、阿部さんの談話室での引用で関心をそそられた次第です。先生がご家族とスペインに出かけられたのが1980年と言いますと、いまから37年前ということになりますね。美子夫人のように流れに足を浸すことは無理でも、せめて川の姿だけでも眺めてから帰ろうと思っております。

  6. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

     立野さんのポルトガル通信、第三信第四信を読んでいるうち、無性に懐かしくなりました。再訪することはかなわぬ身となりましたが、だからこそか、あのリスボンの風光が私の心をとらえて離しません。下町アルファマ(地形的には海を背にしてのゆるやかな坂道)、サン・ジョルジュ城址、、、震災前年に書いた文章、もうお読みになっているかも知れませんが、またも立野さんの道連れにと、お送りしたくなりました。

    リスボン再訪( 2010 年 5 月 8 日 )
     今回は確かに再訪であり、同時に再会でもある。リスボンには私自身、そして妻も二人の子供も1980年夏に訪ねた町だから、という理由だけでなく、先日来ペソアを求めて何度か想像上の訪問をしたからである。二月ほど前、あまりにペソアにのめりこんでしまい、とうぶん彼から離れようと、彼の著作を机から少し離れたところに一時疎開させていたのだが、昨夜、例のビデオ・テープからDVD への変換作業で、思いがけなく彼にまつわる映画に出会ってしまったのだ。
     「レクイエム」と題するビデオを実際に見るまでは、それがタブッキの原作を映画化したものだとは気づかなかった。DVDのジャケットに挟み込む説明書をインターネットから、たいていは小さなポスターもしくはスチール写真入りで作っているが、レクイエムで検索しても、マフィアに愛する者を奪われ復讐を決意する男(ジャン=クロード・ヴァン・ダム演じる)のバイオレンス・アクション映画しか出てこない。ということは劇場公開をしていない映画だということである。
     改めて再生してみたら、10年前、スカパーの名画専門チャンネル「シネフィル・イマジカ」から録画したものと判明。現在は解約しているが、あのころ(まだ八王子時代)スカパーのチャンネルからたくさんの映画を録画した時期があった。そのうちの一本である。これは1988年に作られたもので、原作はアントニオ・タブッキ、監督はアラン・ターネルという人の、スイス・フランス・ポルトガル三国の合作映画である。同年、カンヌ国際映画祭、さらには東京国際映画祭に参加したとある。
     いま改めて映画を三分の二ほど見たのであるが、話の筋にしろ、ペソアの影が濃厚に感じられるところなど、前に話した『リスボン物語』に非常に似ている。実は白水社から鈴木昭裕訳で出ている原作『レクィエム ある幻覚』(白水ブックス)も何ヶ月前のペソア熱のさなかに買い求めたのであるが、読まないままであった。だから映画が原作を忠実に映像化したものであるかどうかは、分らないが、しかし内容的にはいかにもペソア的なものになっている。
     小説『レクイエム』の表紙裏の説明はこうなっている。「七月は灼熱の昼下がり、幻覚にも似た静寂な光のなか、ひとりの男がリスボンの街をさまよい歩く。この日彼は死んでしまった友人、恋人、そして若き日の父親と出会い、過ぎ去った日々にまいもどる。…生者と死者との対話、交錯する現実と幻の世界」。すると映画はこの原作を忠実に映画化したものと言える。
     主人公が会うはずの、そして実際に再会することになる死者はタデウシュ・ヴァツラフ・スウォヴァッキという名の詩人・作家となっているが、映画の冒頭が映画全体を支配する次のようなペソアの箴言で始まっているからには、タブッキが生涯敬愛したフェルナンド・ペソアであることは間違いない。
     「人生は寝て過ごせ。我らは運命の不滅の子」
     つまりイタリア人作家タブッキはこのレクイエム(鎮魂歌)を、全編ポルトガル語で書かざるをえないまでにペソアを敬愛してやまなかったということであろう。タブッキは他にも『フェルナンド・ペソア最後の三日間』という「幻覚譚(Un delirio)まで書いている。ここまで一人の人間に傾倒しているのも驚きであるが、文学を読む・理解することの究極のかたちがここにあるのでは、という気がしている。
     これから映画の後半部を見るつもり。そのあとでなにか追加すべきことがあれば明日書くことにしよう。

    リスボン再訪(二)(2010 年 5 月 9 日 )
     「君がなぜ私にこだわるのか教えてもらおう」
     「ぼくはずっと君を分ろうとしてきた。でももうウンザリだ、そう言いたかった。皆が君を崇拝するが、ぼくにはもう必要ない」
     「私といるのが嫌だったと?」
     「まさか。とても大切な存在だったよ。でも苦しかった。心の平和が乱された」
     「それこそが文学の使命だと思わないか?安息をかき乱すことが」
     これは映画の最後で、主人公がようやく会えた死せる作家と、レストランで食事をしながら語りあう場面でのやりとりである。明らかに相手の作家はペソアと言わなければならない。敬愛する作家などと、こちらでは勝手に思い込んでいたが、タブッキ(映画の主人公がぴったりタブッキと重なるわけではないであろうが)にはタブッキなりの複雑な思いがあったことがこの会話からうかがえる。
     それにしてもこの映画の中のリスボンはまたなんと不思議な静寂に包まれていることか。幻想の中での死者との邂逅の場面であるから当然と言えば当然なのだが。『リスボン物語』の時の、あの街の喧騒が嘘のような静けさである。もちろん会話もあり、それなりの物音があるのだが、それらは夢の中でのように、必要なときに、必要な音量でしか聞こえてこない。あとはすべての音を吸い上げるような圧倒的なしじまである。
     死者たちの登場の仕方にしても独特である。たとえば、主人公の父親は、主人公よりはるかに若い船乗りとして登場するのだが、主人公の前に突然現れるのではない。いや突然にではあるが何カットか前に、何の脈絡もなく、しかし正式な登場の下準備をするかのように、いわば先回りして画面に現れてくるのだ。夢の中では意識の下に、意識とは別個に、さらに別の意識が折り重なっているのと同じことである。つまり夢を見るのは私ではあるが、登場したり起こったりすることは、その私の自由にはならず、それ独自の流儀で惹起する。
     タブッキと同じく、私自身も彼の作品を読むことで、いわく言いがたい不安にかられ、早々に彼を遠ざけたのであるが、岩場に響くセイレーンの歌声のような、彼の発する魅惑的な波動にまたぞろ捕らえられそうだ。

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