古書蘇生術二件

万が一、我が陋屋を訪れ、夫婦の居間に隣接する応接間といえばいいのか、あるいは明るい本置き場といえばいいのか、を眺める機会があれば、壁一面にしつらえられた本棚のほとんどすべての本が例の蘇生術を施されたものであることに一驚するであろう。つまり文字通りの古書だけでなく、比較的新しい本までもが布表紙にされたり背を布や革もしくは人造皮革で装丁されたりしているからだ。
 こうなると単なる趣味の段階を越えて正真正銘偏執狂の域に入ったと言わざるをえまい。つまりもう立派なビョウーキである。ただ救われるのは、それを自覚しているということか。
 先日、虫害に遭った、もしくは辛うじてそれを免れた本たちへの蘇生術についてはすでに報告したが、一時的にその本棚から他の本やら雑誌も外に出して積み重ねておいた。ところがどうもそれが気になってきた。そのうちの一かたまりは、オルテガが創刊した「西欧評論(Revista de Occidente)」A5判それぞれ110ページほどの20冊である。
 オルテガが主宰したのは1923年から内乱勃発の1936年まで。1955年に彼が死んだ後も休刊が続いたが、1962年に息子が再刊し1980年には今度は娘が引き継ぎ、2007年からは娘の息子、つまり孫が切り回している。一家三代続いての雑誌発行は珍しいが、創刊当時からまさに西欧の最高水準の文化・思想雑誌で、現在はどうか知らないが、オルテガ存命中はヨーロッパの有名作家や思想家の寄稿が盛んに行われた。目録を見ると、いわゆる「西欧」だけでなく、日本からも鈴木成高や三島由紀夫の名も見つかった。実物を見ないと分からないが、三島のものは「七つの橋」という題なので、寄稿というより彼の『橋尽くし』の翻訳であろう。
 ここにあるのは1974年から1975年にかけての13冊と1980年の7冊である。で、今回は前者13冊を三冊の分厚い合本にしたのだ。まず赤地にパンダ(もちろん白黒の)が点在する布で全体を覆い、背中に茶色の布を貼ってそれぞれ450ページほどの豪華本(?)にしたわけだ。内容はいちいち中を見ないとわからないので、表紙に各号から一つだけ後から読みたい記事を抜き出して表示した。

 第一冊目は、

  • ライン・エントラルゴのアソリン論
  • トマス・ハーディの原題は “The Gave by the Handpost”という短編(1913年作だから寄稿ではなく翻訳であろう。)
  • いくつかのピカソ論
  • M.アルフォードのカフカ論

 第二冊目は、

  • いくつかのラス・カサス論
  • F.チュエカの「丹下健三と日本の建築」
  • D.アンジューのボルヘス論
  • A.フォンタンのルイス・ビーベス論

 第三冊目は、

  • フリアン・マリアスの「人間的自由と政治的自由」
  • ロバート・リカードの「アビラの聖ヨハネ」
  • ルイス・ボルヘスの未発表詩篇

 最後に一冊まるごとのテーマ別総索引

 ここで白状しなければならないのは、1980年の7冊は当分おあずけにして、それらの側にあったもう一つの雑誌群を合本製本したことだ。今度はノーベル賞作家のカミロ・ホセ・セラ(1916-2002年)が1954年以来住み続けた(実際はマドリードと往復して)パルマ・デ・マジョルカの地名を冠した四六判100ページほどの小雑誌 “Papeles de Son Armadans” 12冊である。これを今度は薄紫の地に赤と黒の金魚をあしらった布地で覆い、背中に茶色の模造皮革を貼って、これまた豪華な2冊の合本にした。これは私にとっては無名の詩人や作家たちの寄稿が主な内容の可愛らしい雑誌で1956年から1979年まで発行され、現在はデジタル版のサイトに変わって彼の作品紹介などしているようだ。今回の調査(?)で彼の母親がアイルランド人であることを初めて知った。
 彼とは自慢話にあやうくなりそうなニアミス(?)の機会が一度あった。それは1996年の野間文芸翻訳賞の審査員を依頼されたとき、彼もその一人だったときだ。残念ながら審査会には来日せず、マドリードの授賞式には来たそうだが、私自身はもちろん行かなかった。(この年の受賞者は、友人のセビリヤ大教授フェルナンド・イスキエルドさん)
 寄る年波のせいだろうが偏執狂的古書蘇生術なんぞの報告をしたかと思えば、ついむかしの自慢話に話が移ったようだ。でもどこかに生きた痕跡を記録しないことには、すべて忘却の海に埋没するわけだから、スペインの有名人との出会いというより接触をもう一つご披露したい。それはウナムーノの9人の子供の長男フェルナンドさんをマドリード郊外のご自宅に訪問したことである。彼は建築家で奥様やお子さんも同席していたと思うが、記憶からは消えている。記録を調べて見れば分かることだが、今はちょっと面倒。で、その時と相前後してだか、サラマンカ大学の元総長宅(その時は記念館になっていた)で、次女のフェリーサ夫人にお会いした(確か彼女独身だったと思う)。その時の写真がアルバムのどこかに残っているはずだが、お二方とももうお亡くなりになったことだろう。私がこんな歳になったのだから。
 あゝすべてがはかなく忘却の海へと消えていく。まっこれも仕方ないことか。ここにきての安倍内閣の支持率急落という嬉しいニュースにもさして喜びを感じなくなってきたが、まっこれも仕方ないことか。でも頑張る、頑張らなくちゃならない。もしかすると、いやたぶん、わが古書蘇生術も自分が生きた痕跡を何とか後世に残そうとの果敢ない努力の一つかも。
 まっ、それもこれも悲しくも、しかしそれ自体雄々しい人間の性(さが)なんだろう。泣いて笑って、怒って諦めて、ともかく最後まで生き抜くっきゃない。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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