実のない話いくつか

この暑さである。細切れの想念が浮かんでは消え浮かんでは消え、やることなすこと根気続がず中途半端。
 愛は学校から帰ってくるとおばあちゃんに挨拶に来てくれる。おじいちゃんは事前に、おばあちゃんの枕元に頴美が作ってくれた小さな籠(中にいつも鳴きまねワンちゃんが入っている)に太鼓せんべいと雪の宿せんべいをそれぞれ一つずつ入れておく。おばあちゃんからのおやつのつもりである。すると愛は必ず傍に来ておばあちゃんにきちんと「ただいま」と礼を言って持っていく。
 これは決して餌付けのつもりでやってるのではない(かな)。でもこれでおばあちゃんと愛の一種の触れ合いにハズミがつくことは間違いない。それが反復行為であることも重要である。そんなことを言えば、挨拶なんてものはすべて生活にリズムを与えてくれるものである。だから人間関係はすべて挨拶から始まるというのは……後が続かない。
 この頃の朝食は、先日或る人からいただいたどこかの有名ホテル製の小さな缶入りスープをチンして、トーストした食パン一枚にこれまた小さな紙コップに入ったイチゴジャム等を塗ったものである。そしてこのジャムについて思い出したことがあった。大昔、イエズス会にいたころ、荒川区のセツルメントで数人の修練士と実習をしたとき、そこを仕切っていた或る年老いたドイツ人神父が若者たちの朝食の席でパンにつけるジャムの量が多すぎると小言を言ったことがあった。他の世俗の慈善団体のやり方がなってない、など日ごろから狷介偏屈な付き合いにくい老人だったが、しかし今考えると、敗戦後の故国ドイツでの窮乏生活の中で骨身に沁みた生き方だったのかも知れない。彼より歳をとった今の自分には、何となく彼の言いたかったことが分かるような気がする。
 そこの施設は「愛児館」という名だったが、診療所もあって、湘南の方から週一で通って来た担当医が、赤木圭一郎のお父さんだった。ゴーカートかで側壁に激突して死んだ息子さんの供養のつもりがあったのかも知れない。石原裕次郎や小林旭より数段いい男だったが、映画そのものは見たことがない。
 相変わらず病気は続いている。先日むかしのことを調べるために古い日記帳を見ていたら、そのころからすでに本への異常なこだわりが始まっていたことが分かり自分でもびっくりした。ただしその頃はまだ、たいていの図書館がやるように新しい本のカバーや箱を身ぐるみ脱いでやることぐらいだったが、いまや病嵩じて少しでも見栄えが悪かったり背文字が消えかかっていると、つい例の蘇生術を施すことになる。昨日もそんなみすぼらしく薄っぺらな文庫本を2冊ほどもってきて厚紙布表紙の趣きのある美本(?)に生まれ変わらせた。一冊はゴールズワージーの『林檎の木』(渡辺万里訳、新潮文庫、1985年、53刷)である。題名と著者名だけはなぜか知らぬが、昔からはっきり記憶に残っているのに、内容は何も覚えていない。
 もう一冊はロバート・ネイサンの『ジェニーの肖像』(井上一夫訳、ハヤカワ文庫、1975年)である。これにはすでに装丁済みの山室静訳ダヴィッド社発行(1955年)のものがあるが、その見返しに Joseph Sasaki の署名がある。兄が買ったものらしい。今度来た時にでも返そうか。それで思い出したが、これの映画化で主演だったジョセフ・コットンが自分の洗礼名と同じせいか一時期彼が熱を上げていた。貧乏画家とモデルになった美少女の一種のファンタジーだが、私にはむしろ少女役のジェニファー・ジョーンズの方が素晴らしかった(と思う)。
 ところでこのジェニファー・ジョーンズについて思い違いをしていたことに今回気付いた。彼女ともう一人の姉だか妹も有名な女優で、そのどちらかが東京生まれなので腕に種痘痕があるということをどこかで知って(アメリカでは尻っぺた?)、それだけで何となく親近感を抱いていたが、実はそれは別の姉妹、つまり『風と共に去りぬ』のオリヴィア・デ・ハビランドとその妹のジョーン・フォンティン (ヒッチコックの『断崖』などに出た) のことで共に東京生まれだった。彼女たちに果たして種痘痕があったかどうかはスクリーンで確かめたこともないが……
 この暑さで、以上見事にどうでもいいこと並べてしまいました。暑中お見舞い代わりにでも読んでやってくださいませませ。

※ さきほど愛がやってきて、今日「ゆめはっと」(市の文化会館)の大ホールで行われた第55回 福島県吹奏楽コンクール 第35回 相双支部大会で愛の出場した第二小学校がみごと優良賞に選ばれ、次は県大会、次に東北大会、そして最後は全国大会だ、と張り切っている。毎日夕方の6時近くまで猛特訓をしてきた甲斐があったわけだ。愛のパート?シンバルと小太鼓だったかな(上級生になったらサキソフォンをやりたいらしい)。それでおじいちゃん、美子おばあちゃんは英語弁論大会で東北一、そして全国大会で三位だったんだよ、と筋違いの檄を飛ばして励ましたとさ。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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実のない話いくつか への3件のフィードバック

  1. 佐々木あずさ のコメント:

    「おばあちゃ~ん、ただいまぁ」。そんな声が十勝にも聞こえてきました。毎日の、すてきなご挨拶。パーカッションを担当している愛ちゃんの演奏。美子奥様の耳にしっかり届いているはず。ただいまぁ、いただきます、の言葉も、美子奥様の暮らしの中の大切なリズムとして刻まれているのだと思うのです。

  2. 阿部修義 のコメント:

     今夏は暑くなるのが例年より早く、この先いつまで続くのかと梅雨明け宣言のまだ出ていない今からため息をついています。美子奥様もお元気そうで何よりです。最後の文章を拝読して家族アルバムの4ページ上段の真ん中に優勝カップの傍らに居られるまだ高校生の頃の美子奥様のお写真を見ていました。英語は発音が難しく、読むより話す方がはるかに大変です。私も暑い中、先生の『生の悲劇的感情』と立野さんの『黄金の枝を求めて』、それにヒルティ著作集6にあるダンテのところを自分なりのペースでゆっくり、ゆっくり拝読しています。暑さはまだまだこれからですが、読者の皆様のご健康を祈っています。

  3. アバター画像 fuji-teivo のコメント:

    阿部修義様
     よくぞ見つけてくれました。でも数度の引っ越しで、大小五つもあったトロフィー(一番大きなのがたぶん高円宮杯全日本中学校英語弁論大会三位の時のものかも)、今は一つも残ってません。実に残念です。孫たちのためにもとっておくべきでした。それであの家族アルバムの写真をコピーして額縁に入れ、お客さんの目につくところに飾ることにしました。今は何もしゃべれなくなってしまいましたが、お客さんがもしも気が付いてくれたら、彼女の代わりに少し恥ずかしそうに(?)自慢してあげるつもりです。

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