以下のものは今朝届いた岩谷徹氏からの私信(おはがき)であるが、これまた氏の許しを得ないでここにご紹介したい。いつものように画用紙をハガキ大に切った一面いっぱいに「仮面をかぶる頭のオカしい女」の絵が着色肉筆で描かれている。私宛てだけでも既に10枚近くなっているので、おそらくこれまでこうして何千枚、いや何万枚も描かいてこられたのではないだろうか。この表現への無償の愛をどう受け止めたらいいのだろう。
したがってハガキ表の住所欄は上方3センチほどで、あとは極細のペンで横書きに小さな字で(色は濃い茶)びっしりお便りが書かれている。日ごろから細かいお仕事に慣れておられるのであろう、私など絶対に真似のできない達筆でのお便りである。
先日もお願いしたが、東京近辺の皆さん、ぜひ展覧会々場で氏の芸術を直に鑑賞されんことを!
「拝復
先日はごていねいなお礼状を頂き恐縮しております。頂いた『情熱の哲学』丁度1/3を読んだ所です。私は読書家でありませんからウナムーノが居た西洋とスペインの思想的位置、当時の思想界の動向など初めてのことばかりでとても興味があります。楽しく読まさせて頂いてます。ウナムーノも思想遍歴の多かった人というのは本質的に純心な人なのでしょう。私は鈍感というか若い時からあまり精神の遍歴はない方でした。理性的より感性的に生きてきたのでしょう。ウナムーノが解釈に勘違いを指摘され、それはそれでいい、勘違いなど遥かに超えた所で思索しているのだから放っといてくれというような所があります。同感です。一つの詩の一行によってたとえ解釈が勘違いでも、その一行によって霊感を得るからこそ言葉は神秘の力があるのです。乞食がポトリと落とした、もらったばかりのヤキ鳥の串を見た人が瞬間悟ることもあり得ます。ただ要諦は自分を「空」にした眼を持つことだと思います。自分の回りには何が転っているかわかりません。それは真に神秘です。ということは自分自身の存在が瞬間々々奇蹟ともいえます。では又。
2018、5、18 岩谷 徹
PS。ご友人の私のブログのへの感想、よろしくお伝え下さい。」
岩谷さんの文章を拝読して坂村真民の「一遍智真」という詩をなぜか思い出しました。
捨て果てて
捨て果てて
ただひたすら六字の名号を
火のように吐いて
一処不住の
捨身の一途さが
わたしをひきつける
六十万人決定往生の
発願に燃えながら
踊り歩いた
あの稜々たる旅姿が
いまのわたしをかりたてる
芭蕉の旅姿もよかったにちがいないが
一遍の旅姿は念仏のきびしさとともに
夜明けの雲のようにわたしを魅了する
痩手(そうしゅ)合掌
破衣跣(はいはだし)の彼の姿に
わたしは頭を下げて
ひれ伏す