呑空庵福島支部誕生

これまで十勝、盛岡、仙台、東京と合計八か所ほどの呑空庵支部が発足したが、肝心の地元・福島にはまだ支部が無かった。いや正確に言えば南相馬には西内さんのところがいちばん身近な支部だったわけだが、県都には無かったと言った方がいいかも知れない。
呑空庵支部と言っても半ば冗談。一切のノルマ無し、認証式も「今日から私〇〇支部を引き受けました」とつぶやくだけ。あとは呑空庵発行の私家本を貸し出したり、時に平和菌(豆本)の拡散を図ったり、だけの仕事。)
 ところが昨日、その福島支部が一気に誕生したのである。そしてそれには半世紀以上も昔の交友関係の復活があった。長生きしているとこういう息の長い話ができあがるものである。少し説明が必要であろう。
 四日ほど前である、突然電話がかかってきて、難聴の耳に辛うじて聞こえてきたのは「初台」という懐かしい地名、そして電話の主がその初台のレデンプトール学生寮で一緒だった山口嵩氏だったのだ。実に半世紀以上も前の話である。
 私が上智大のイスパニア語科に入学したのは昭和33(1958)年だが最初は保谷市の母方の叔父・故安藤平三郎さんの公団住宅に下宿したが、翌34年からは当時代々木初台のレデンプトール修道院(本部カナダ)の管轄下にあった教会の裏手の学生寮に移った。裏手と言ったがもっと正確には文字通り聖堂の裏側に、7、8人の学生がそれぞれ個室で、それも信者ではない学生を含めての寮生が生活していたのだ。今では記憶が混濁してしまったが、そこを知ったのは同郷(北海道帯広市)の幼友達・香高公平さんを介してではなかったか。彼はたしか法政大の夜間部に通っていたはずだ。
 ともかく、今では考えられないことだが、カナダ人の神父さんやブラザーが得体の知れない(?)若者たちのために部屋を提供していたのだ。その教会の裏手の寮以外にも、百メートルくらい離れて道路に面した木造二階建ての寮もあったから、全部で20人近くの学生たちの面倒をみていたわけだ。ちゃんと賄いのおばさんもいて、教会裏手の私たちも食事は道路に面した寮の食堂でおばさんの作った料理を食べていた。
 先ほども言ったが、こんな面倒くさい仕事をよくも引き受けていたな、と感心する。バブル期に重なっていたせいもあるかも知れないが、いやそれ以上に社会全体が大らかで度量が広かったのではなかろうか。第一、信者でもない学生を聖堂と隣り合わせの部屋に住まわせること自体、今では考えられないことだろう。
 その学生の中には受験生もいたり、夜な夜なガールハントに出かける色男もいたし、比較的まじめだった(?)私なども何度も夜間、高い塀を乗り越えて新宿あたりまで飲みに出かけたことがある。舎監のブラザーがそれを知らなかったはずはない。でも大目にみていたわけだ。
 私がそれまで付き合ったこともない九州男児たちと同じ飯を食ったのも今から考えると稀有な体験だった。そのうちの一人に「メケメケ」を歌ったシャンソン歌手の丸山明宏(美輪明宏)の弟もいた。「ヤッパ(ドス)」などという隠語を知ったのも彼らからだった。
 ところで私自身は、三年生のある日曜日、そこの聖堂でたまたま聞いた説教をきっかけに修道者になろうと思い立った。兄は既に教区の神学生だったので、そちらの方には絶対に行くまいと思っていたのに、なんとも不思議な方向転換だった。そんなことで、四年次には上智の学生寮でスペイン語科の学生とイエズス会志願者という二足の草鞋を履くことになり、この初台の寮から出ることになった。
 さて山口氏のことである。彼の部屋は教会裏手の入り口から階段を上ってすぐ右側の部屋で、当時はあまり話をした記憶はない。同じ上智の学生(彼は法学部)だったのに、真面目一辺倒に見えたからか。ところがその彼が半世紀以上もの没交渉の後に突然私の前に現れたのである。つまり電話のあとメールで拙宅を訪ねたいとの連絡が入り、昨日の午後1時、予定通り玄関先に彼が立っていた。先ずその若々しさに驚いた。八木沢峠を自家用車で越えてきたこともさることながら、半世紀前とほとんど変わらない(それはちょっとオーバーだが)彼であった。
 それから二時間半ばかり、現在のこと(彼の二人の娘さんはそれぞれ仙台と東京に住み、今は奥さんと二人で福島で悠々自適の生活らしい。)や懐かしい学生寮の話などであっという間に時間が経ってしまった。彼は立ち振る舞いも若々しいが、それよりも話しぶりに老人臭さが無く、記憶の中の彼より(失礼!)はるかに話が自由闊達なのには感心した。
 実は彼が来る前に、もし彼がバスではなく車で来たら或ることの可能性あり、と密かに狙っていたことがある。つまり話の進み具合で呑空庵福島支部を引き受けてもらえるなら、彼の自家用車で30冊近い私家本を運んでもらえると踏んでいたからだ。結論から言えば、彼は喜んでその大任(?)を引き受けてくれたわけだ。
 彼はこれから時々、時には奥様ご同道で訪ねて下さるとまで約束してくれた。こんなことならもっと早くから再会を果たしていれば、と思わぬでもないが、しかし彼にも言ったように物事にはそれぞれ好機というものがあり、今回の再会もその好機の一つだろうということだ。
 ともあれ、この半世紀以上もの時間を経ての思いがけない再会そしてこれからの楽しい日々のことを考えて、久しぶりに皮膚炎を忘れて、まるでそのまま思い出になるような午後を過ごすことができた。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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呑空庵福島支部誕生 への4件のフィードバック

  1. 阿部修義 のコメント:

     家族アルバム4ページ二段目の右端の写真を見ていました。先日の教え子さんのことも今回の山口さんのことも半世紀ものときを経ての再会は先生にとってこんなにうれしいことはないんでしょう。半世紀という一人の人間の人生にとって、あまりにも長い年月の重みがあって初めて生まれた「好機」もあるのかと人生の不思議さ、すばらしさを感じます。これも吞空庵の要石である平和菌がもたらした「好機」と言えるかも知れません。楽しさ、うれしさに勝る名医、名薬はないと言いますが、これを機に先生の皮膚炎が良い方向へ向かうことを願っています。三日後(11月17日)に控えている先生と美子奥様の金婚式に花を添えるようなすばらしいできごとです。

  2. 中野恵子 のコメント:

    呑空庵 福島支部 ご誕生 おめでとうございます!!
    お仲間が増えて嬉しい限りです!
    私も昭和34年から、初台レデンプトール修道院の斜向かいに住んで現在に至っております。お二人に必ずやお目にかかっていることでしょう~~。
    ご縁を感じます。この辺りも、昔の大きな屋敷は皆、代替わりでマンションに様変わりしました。番地も初台から代々木5丁目になりました。変わらないのは代々木八幡だけです。

  3. 佐々木あずさ のコメント:

    呑空庵主 佐々木孝先生に師事する私。不肖の弟子ですが、「寄りあい処呑空庵」もこの1年で11を超える講座で学びあいをしてきました。(実行委員会形式を入れると15講座)

    南相馬に呑空庵本部があるのですが、なんとなんと呑空庵支部があれよあれよと全国に展開中。呑空庵主から私家本の献呈を受け、「読みたい」「知りたい」「学びたい」方たちと共有しています。

    来年、呑空庵支部の皆さんで同窓会をしたいなぁ、なんて思う私。場所はもちろん南相馬の呑空庵。先生と美子奥様のスイートルームで、素敵な写真や蔵書に囲まれて、大きな窓から日の光を浴びながら。どうでしょう。このアイディア。

  4. 呑空庵庵主 のコメント:

    素敵なアイデア! 本当に実現したいですね!
    このところ逆境に強い私も少し元気をなくしてましたが、勇気と気力が湧いてきました、ありがとう!

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