パロスの港
もう一つの地中海への出口
地中海の跳躍台・パロスの港
「地中海文化の旅」という本シリーズの趣旨からすれば、コロンブスが新航路発見の野望に燃えて船出したパロスの港について書くことは、あるいは筋違いかも知れない。パロスと地中海とのあいだには、まるで通せんぼをするかのように、ジブラルタル海峡がある、つまりパロスの港はあくまで大西洋に面しているからだ。
しかし二年前の夏、バルセロナからアリカンテ、グラナダ、セビーリャといかにも地中海的な都市をまわってからモゲールに向かい、そしてパロスの港に立ったとき、私は相変わらず地中海を前にしている気になっていた。それはもちろん、私がおそろしいまでに地理音痴であるための勘違いである。もしそのとき、だれかにジブラルタルはどの方角にあるかと聞かれたなら、私は平然と、ジブラルタルはもう少し西の方にある、と答えていたであろう。
だが自分の間違いを正当化するつもりはないが、この勘違いにもそれなりの理由があるかも知れない。つまり簡単に言ってしまえば、ジェノヴァの人コロンブスの新航路、新大陸発見の願いは、たんに彼ひとりの奇想でも願望でもなく、実は地中海世界そのものの積年の願いでもあったということである(この辺の事情を、増田義郎著『コロンブス』は実に説得的に考証している)。つまり15世紀末の地中海世界にとって(トルコの脅威などの事情も重なって)、「マーレ・ノストルム(われらの海)」がもはや身丈に合わぬほど手狭になってしまい、そのあり余るエネルギーをさらに広い空間に向けて放出する必要があったということである。こう考えてみると、パロスの港は、地中海世界が空間的にも質的にも自己拡大をはかるための突破口であったと言えなくもない。つまりパロスの港は、新しい「マーレ・ノストルム」に向けての、地中海の跳躍台であったわけだ。
モゲールの町
さて前置きはそのくらいにして、その三年前の旅を少した土ってみよう。七月二十八日、サラマンカ大学の夏期講習に向かうツアーの一行とセビーリャで別れて、国道四三一号をモゲールに向かう。セビーリャで借りた1,200ccの黄色の「フォード・フィエスタ」は力も弱いし、後部トランクに入りきれない荷物を座席の間にも入れると、親子四人(妻と小学五年生の二人の子供)にはいささか窮屈、だが贅沢は言えない。途中一度道をまちがえたりしたが、一時間半ほどでモゲールの町に着いた。プラテーロ(ノーべル賞作家フワン・ラモン・ヒメネス [一八八一―一九五八] の散文詩『プラテーロとぼく』のロバの名前)の町である。
たとえば詩人は次のようにモゲールの町を描写する。「モゲールは一かたまりの小麦のパンみたい。内側はパンの中味のように真っ白で、外側はふっくらしたパンの皮のように金色だ」(長南実訳、岩波少年文庫)。あるいはこうも言っている。「ねえ、プラテーロ、モゲールの魂はパンだと、ぼくは前に言ったことがあるね。それはちがう。モゲールは、まるい青空の下で、一年中ぶどう酒を待ちつづける、ずっしりした透明のクリスタル・グラスみたいさ」。なるほどパンとクリスタル・グラスか、うまいことを言ったものだ。そう思ってモゲールの町を見渡してみるが、パンにもグラスにも見えてこない。
ヒメネスと愛妻セノビアの遺品などが陳列されている記念館を見物すると、この小さな町ではすることもない。そのとき不意にパロスの港のことを思い出した。地図で見るかぎりここからそう遠くはなさそうだ。すでに六時を過ぎてはいたが、スぺインの夏は八時を過ぎてもなお明るい。心地良い風を受けながらモゲールの町を後にする。ふり返ると、一 かたまりの家並となったモゲールの町は、なるほど焼きたてのパンのようだ。
英雄コロンブス
しばらく車を走らせると、やがて記念塔のようなものが見えてきた。近づいてみると、やはりコロンブスの記念塔である。しかし今夜はそこで何やら催物があるらしい。ジーパンをはいた若者たちが七、八人、やぐらを組んだりスピーカーを調整したり、時おりボリュームいっぱいにエレキ・ギターをかき鳴らしたりしている。コロンブスとロック・コンサートとはまた奇妙な取り合わせだ。だいいちこんなところに聴衆が集まるのだろうか。どういう催物なのか聞いてみたい気もしたが、面倒なのでやめた。近くにいつか写真で見たことのある修道院が見えたのでそちらの方に行ってみる。フランシスコ会のラ・ラビタ修道院である。入り口で案内を請うたが、だれも出てくる気配がない。奥をうかがうと、回廊のあたりで一団の観光客が(アメリカ人のようだ)一人の修道士の説明を受けているのが見える。勝手に見物することにした。中庭に出る。草花の咲き乱れるそこは、ひっそりと静まりかえり、花から花へと飛ぶ虫の羽音さえ聞こえてくる。
コロンブスが初めてこの修道院を訪れたたのは、一四八五年の中ごろらしい。探険航海の援助をポル卜ガル王ジョアン二世に懇願したが不首尾に終わり、傷心のうちにリスボンから船に乗ってサン・ビセンテ岬(ポルトガルの西南端)を廻ってパロスの港に上陸した。五歳のディエゴを連れて修道院の門をたたいたときは、乞食同然の姿であったという。かつてはイサベル女王の聴罪師であった院長ペレス・デ・マルチェーナが、このとき以来コロンブスの悲願達成に尽力することになる。
そのころスペインは、対イスラム戦争で緊迫した状況にあり、イサベル女王からは色よい返事がえられない。しかし一四九二年一月二日、イスラム最後の拠点グラナダが陥落してから風向きが一変する。つまりコロンブスにとって順風に変わるわけだ。先ほどの観光客の一団も見物を終えて外に出たらしい。あたりはさらに静寂を増し、陽もすでに回廊の屋根の部分にかろうじて残っているだけ。パロスの港に行ってみよう。 パロスの港とは言うものの、現在も港として使われているとは思えない。というのは、ティント川の土砂によってその大部分が埋められてしまったからだ。もっとも、正確に言うなら、コロンブスたちはパロスの港から出発したわけではない。つまりこのパロス港を少し下がると、ティント川がオデイェル川と合流するところがあり(サルテス)、そこが実際の出航地点なのだ。
コロンブスたちがサルテスの河口を出帆したのは、一四九二年八月三日、金曜日の朝八時のことである。この記念すべき第一回航海には三隻の船が参加した。コロンブスが乗った旗艦サンタ・マリア号(ナオ=大型帆船)、それに快速船(カラべラ船)のニーニャ号とピンタ号である。ニーニャ号の船主はモゲールの人であり、ピンタ号のそれはパロスの人、そして乗組員の多くは近在の船乗りたちであったという。
コロンブスは都合四回の航海を敢行する。しかしパロスを出てパロスに帰ったのはこの第一回航海だけであった。後はすべてカディスかサン・ルーカルが使われた。そして新大陸から持ち帰られる金や銀も、グアダルキビルの河口サン・ルーカルからセビーリャに運ばれるだけで、パロスの港は完全に黙殺される。いやパロスの港だけではなく、コロンブスその人も栄光に満ちた「発見者」として航海したのは第一と第二の航海ぐらいで、あとは落ち目の英雄を目の敵にする権力者たちや殖民者たちの反抗や妨害に悩まされての航海であった。その意味で、彼の最後の航海に従った船乗りの大部分が、コロンブスに変わることのない信頼を寄せ続けたパロスやその近在の者たちであったことは、彼にとってせめてもの慰めだったに違いない。
先ほど駐車しておいた記念塔のあたりまで戻ってみると、すでに暗くなりはじめた夏空を背景に、照明の当てられた記念塔が白く浮かびあがって見えた。六日後の出航記念日とは、やはり何の関係もなさそうだ。今夜はほかほかのパンの中で、豊饒なぶどう酒の海に漂う夢でも見るとしようか。
“Report Kumagai”, no.76. 1983年8月号
※なお、これは河出書房新社刊『地中海文化の旅 2』(地中海学会 編, 1990年)に再録された。