良 俗 派
最近《差別》について考えさせられる二つの機会があった。ひとつは、偶然ひねったテレビのチャンネルでヴェトナム難民をめぐっての座談会を見たときのことである。そこではいかにも自信ありげな二人の男を一方に、他方、一人の女性ボランティアともう一人物静かな男とが対立していた。自信ありげな二人の男(公的機関を代表していたのか)は、難民を受け入れるに充分な備えがないから入国を拒否せざるをえない、また彼らの入国は重大な社会問題に発展する危険をはらんでいるとも言った。
もう一つの機会は、勤務する大学の文化祭で、盲学生を囲む座談会に出席したときのことである。そこでも同じ言葉が聞かれた。つまり盲人を大学に受け入れるには充分な施設がない。彼らを卒業にもっていく保証がない、という意見である。
こうした考え方はいかにも良心的である。差別はいけないということをただ観念的に主張する進歩派より、ずっと良心的かも知れない。しかしこの良心が曲者だ。彼らの言う良心、良俗、良識(何と表現してもいいが)は彼らだけの体制、彼らにとって都合のいい秩序に見合ったものにすぎない。良心的言動の衣の下に、したたかなエゴイズムが、内なる差別意識が透けて見える。その証拠に、彼らが次に言ったのが、「日本は純血民族だから」であり、「過激な支援団体によって大学が紛争にまきこまれるのではないか」という言葉だからである。
要するに彼らは自分たちの秩序が、安寧が乱されるのが嫌なのである。恐いのである。ということは、彼らは彼らなりに自分たちの世界を良きもの、守るべきものと考えているということであろう。彼らの良識はいかにも健康であり、なまじっかの進歩派、差別撤廃論者をたじたじとさせる自信に満ちている。この良俗派は社会のいたるところに弥漫している。いや社会そのものと言ってもいいだろう。つまり良俗派は、たとえば人種差別反対論者の中にも、身障者のために働くボランティアの中にも存在するということだ。
盲学生を囲む座談会で、一人のカトリック修道女が言った。「盲人の方は、目明きが見ることのできないものを見ることができます。彼らは深い内面の世界を持っています」
それに対して次のように応えた一人の男子盲学生の言葉が忘れなれない。「どうか私たちを買い被らないでください。私たちを《盲人》という類概念で判断しないでください。盲人の中には僕のようにつまらない人間もいます」
いかなる社会にも差別の構造は存在したし、これからも存在し続けるであろう。表面に見えない場合は内攻し屈折して存在する。根本的な治療法など無いかも知れない。しかし私としては次のようなテーゼ(むしろアンチ・テーゼ)を掲げておきたい。他人ノ生命(生活)ヲ犠牲ニシテマデ守ルベキイカナルいでおろぎーモアリエナイ、他国の生命(生活)ヲ犠牲ニシテマデ守ルベキイカナル国土モアリエナイ。
(「青銅時代」、第二十一号、一九七八年)