アメリコ・カストロに向かって
はじめに
アメリコ・カストロ(1885-1972)が死んで十二年になる。極東の、それもきわめて怠惰なスペイン研究者、つまり彼の作品をただ書物を通してだけ、それも時流から大きく遅れて接するだけの筆者は、彼の作品の衝撃波を今ごろになってじわじわと感じている。衝撃波に「じわじわ」という形容はもちろん適切ではないが、実感としてはやはり「じわじわ」である。これには筆者自身の性格もからんでいるが、しかしそれよりも人間の精神現象、とりわけ「影響」という現象が物理現象とは自ずから異なるということの何よりの証左であろう。たとえば地動説が人々の心に定着し、その世界観を変化させるには優に一世紀近くを要したように。
A・カストロが筆者の眼前に大きく立ちはだかってきたその経緯をごく大雑把に、図式的にたどれば次のようになろう。ウナム-ノ(1864-1936)、オルテガ(1883-1955)などを道案内にスペイン思想の研究を自己流に試みていくうち、その根源に横たわる一つの流れ、すなわちスペイン的個人主義と神秘思想にたどり着いた。そして両者が究極的にはスペイン文化特有の「生」の思想に収斂し、またそれが十六、七世紀スペイン黄金世紀に顕現し、ほぼ最終的な形を与えられたと見当をつけた。
しかしスペイン的個人主義を黄金世紀に探ると言っても、それこそとりとめもない話である。それでもう一方の神秘思想から始めようと、テレサ・デ・ヘスース(1515-82)やフワン・デ・ラ・クルス(1542-91)の作品ならびにその研究書を読みちらしてみたが、どうにもとっかかりがつかめない。もともとこちらの心算は、神秘恩想の神学的理解でもなければその文学的理解でもなく、強いて言うならその精神史的理解であり人間論的理解であるから、やはり黄金世紀の全体像を自分なりに構築すること抜きに神秘思想理解もかなわないと遅蒔きながら気がついた。
A・カストロの名はその論敵サンチェス・アルボルノース(1892-1984)の名と共に、もちろんかなり前から知っていたし、両者の代表作『スペインの歴史的現実』と『スペイン、歴史の謎』をそれぞれ1977年ごろから手元に置いて読んではきた。
それにしてもスペイン研究者としては奥手である。またそのころ書いた論文にも、カストロとアルボルノースの論争にも触れてはいる。しかし今にして思えば、A・カストロが提起した問題領域が、正確には見えていなかったのだと白状しなければならない。それが徐々に見えだしたのはここ三、四年来のことである。
徐々に私の内部に起こった変化を、しかし未だにどう表現すればよいのか分からない。あえて言うなら、「すべてを生の根源性において見る」ということになろうか。これにはオルテガの影響が大きく関与しているが、ともかく文学であれ学問であれ、人間にかかわるあらゆる現象を裸の目で見る、と言い換えてもよい。人間にかかわるあらゆる現象を絶対零度の視座から捉え直すこと、すべてを私の「生」の視座から問い直すことである。
何度か他のところでも触れてきて今さら繰り返すのも気がひけるが、前述のオルテガの導きと平行して、韓国の現代詩人金芝河が、三島由紀夫の自刃に抗議して書いた詩の一節が、ここ数年来私の導きの糸となっている。彼の他の作品はまったく読まないのに、その言葉だけがちょうど聖週間の歌の矢(サエタ)のように胸に突き刺さったままである。彼が「ただ、個人的なもの、ひとりの人間の生命の終息がもたらす悲しみのみを受け入れ」ながらも、「三島の詩が含んでいるあらゆる意味、政治的なものであれ、芸術的なものであれ、いっさいの社会的な意味に対して反対」しつつ書いた「アジュッカリ神風」(1)という詩の冒頭の言葉がそれである。
どうってこたあねえよ
朝鮮野郎の血を吸って咲く菊の花さ
かっぱらっていった鉄の器を溶かして鍛えあげた日本刀さ
この「どうってこたあねえよ」という言葉によって、伝統的な日本文化の数々がものの見事に相対化される。「わび」、「さび」、「枠」、「武士道」、それがどうした。どうってこたあねえじゃないか。
この言葉は、旧殖民地に生を享けた一人の若き知識人の、日本文化に対する呪誼の言葉と受けとられかねないが、しかしそれだけではないだろう。ここには長い時の経過のうちに積もりつもった付加価値(この場合適切な表現とは言えないだろうが)をこそぎ落として、その上ですべてを捉え直そうとの過激な、しかしぎりぎりの自己定位の覚悟が表現されている、と見たい。伝統とは、学問とは、歴史とは何なのだろうか。もちろんこのようにすべてを白紙に還元し、絶対零度の地点に立つことは、すべての価値をただ否定するだけではない。言うなればそれはオルテガの言う「戦術的退却」(2)なのだ。すべてを裸の目で見ることによって、真に価値あるものを捉え直すための否定である。ちょうど学問が常識批判を繰り返すことによって真実を追い求めていくように。牽強付会と非難されるのを覚悟であえて言うなら、メネンデス・ピダルがその著『スペイン精神史序説』で言っているスペインの「ノー・インポルタ(どうってこたあねえ)」(3)、つまりロシアで戦ったナポレオンの最大の強敵「冬将軍」にも匹敵するスペイン人の敢闘精神も、さらにはヨーロッパ列強に対してウナムーノが投げつけた「インベンテン・エジョス(発明は彼らにまかせておけ)!」(4)も、さらには十六世紀ヨ-ロッパのユマニストたちの「クィド・アド・ウマニターテム(それが人間にとって何の意味があるのか)!」も金芝河の言葉と向じ精神的境位に立っていると思われる。ともあれA・カストロがその作品を通して何を語りたかったのかが見え出したのは、以上のような私自身の覚醒の時期と重なっていた。
ところで、つまらぬ個人的なアネクドートをさも意味ありげに書きつらねるということは、一般論としては嫌味なものであるが、この場合筆者にとって必然の手続のように思われてならない。つまりA・カストロの問題領域が見えてくるについては、こちらの側の成熟というか条件が満たされている必要があったということである。そしてそれと同じことはA・カストロ自身についても言えるのではないか。
つまりカストロがそのスペイン史観を作り上げるに当たって、他の歴史家と比べて何か新しい史料の発掘という幸運があったわけではない。フランコ政権下のスペインを忌避して亡命中の彼にとって、手近なところに史料がないという、むしろ歴史家こしての悪条件を克服しなければならなかったのである。
彼が1936年に亡命を余儀なくされたこと、もはや生命(おのが生)以外に失うものがない絶対零度の地点に立たざるを得なくなったこと、そしてアメリカという新しい環境でスペインとは何か(究極的には自分とは何か)の存在証明をしなければならなかったこと、が新しい地平を切り開くきっかけになったことは言を俟たない。もちろん彼がスペイン史解釈への新しい視座を獲得するにあたって、その亡命体験とか史料閲覧上の不如意が必要条件であったと言ったら、やはり言い過ぎである。なぜなら、彼とほぼ同じ体験をしたサンチェス・アルボルノースには、カストロの見ていたものが結局は見えなかったのであるから。そういう意味で、彼が亡命してまもない1940年、アメリカ人の聴衆を前に行なった『スペイン文明の意味』(『歴史の観念』所収)の次のような言葉は重要である。
「おそらく歴史的判定が装う明白性は、われわれがいま理解しようとしている歴史的生をもってわれわれ自身の生をいかに統合するかにかかっている。なぜなら歴史は説明されるものではなく了解されるものだからである。といって歴史科学が相対主義とか心理的恣意性に基づいているというわけではない。そうではなく、歴史の理解は、歴史家が歴史的事実の内部に生を投影することを前提としているということである」(5)。
そしてカストロは、このように対象の「生」へ自己の生を投影すること、すなわち統合(integración, integralismo)の範例としてベラスケスの「ラス・メニーナス(宮廷の侍女たち)」を挙げている。つまりベラスケスは、鏡のトリックを用いて二つの視点、つまり画家の視点と対象の(そして絵を見る者の)視点とを統合し、かくすることによって重層的な「生」を描くことに成功しているのだ。といってA・カストロが、その作品の中に彼自身の生い立ちや生活体験とかを書きこんでいるというわけではない。
むしろ彼は、己れを語ることもっとも少ない著作家の一人である。たとえばウナムーノの場合のように、作中いたるところに自己をさらけ出すようなことはなかった。将来A・カストロの伝記が書かれるとしても、伝記作者は彼の個人的データを集めるのに大変苦労するに違いない。
繰り返しになるが、何もカストロには新説を打ち出すための何か特別な新しい史料があったわけではない。材料はだれの前にも等しく存在した。ただ彼は、それら材料を従来の見方とはまったく違った角度から見たということである。唐突だが、隠し絵パズルを例にとってみよう。「この絵には木の繁みと一頭の鹿が描かれています。しかし実は一人の狩人がこの鹿を鉄砲で狙っているのです。さてどこに狩人が隠れているでしょう」。カストロにはこの狩人が見えたのである。
従来、スペイン史を問題とする場合、あたかもアルタミラの穴居人の時代から「スペイン」という国が確固として存在したかのように話られてきた。つまりローマのスペイン出身の皇帝たちもスペイン人であるし、セネカもイシドーロもスペイン人というわけだ。しかしカストロはそこに歴史のまやかしをかぎつける。つまりスペインあるいはスペイン人は、自らをスペインあるいはスペイン人として自覚するときに初めて誕生する歴史的存在ではないか、と考えるのだ。このときカストロは、歴史を内部から、つまりスペインの「生」の内部から眺めている。確かに古来からヒスパニアという呼称は存在した。しかしそれはローマから見た一地方のそれに過ぎず、半島の住人たちが自分たちを「スペイン人」として自覚していたわけではない。事実、彼らは対イスラム戦を通じて長らく自分たちを「スペイン人」としてではなく、「キリスト教徒」として位置づけていたのである。スペイン人としての自覚は、イスラム侵人後、あるときは平和裡の共存、そしてある時は軋轢と葛藤そしてついには排除という形に終わる三つの血統、すなわちキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒の三つ巴の歴史の中で徐々に培われてきたものなのだ。そしてカストロは現在スペイン人を指す「エスパニョール」という言葉が、十三世紀ごろの外国産(プロヴァンス)であることをつきとめる。
さまざまな民族の侵入はあっても、それらは表皮にすぎず、それらを剥ぎとっていけばその中核に万古不易のスペインがありスペイン人が存在する、と考える人は、ちょうど玉ねぎの皮を剥いていけばその中核に「玉ねぎ」が存在すると信じる人に似て、無もいものねだりをしているのだ。そのような意味での中核は虚構であり錯覚である。
いささか前置きが長くなってしまったが、実は拙論の目的は本格的なA・カストロ論を試みることではなく、彼の伝記的側面と、彼の作品にはどのようなものがあるか、を整理してみるというささやかな目論見しか持っていない。表題を彼の『セルバンテスに向かって』を真似て、『アメリコ・カストロに向かって』としたのもそのためである。といって将来、本格的なカストロ論を目指すということではなく、いままで読み進めてきたウナムーノ、オルテガによるスペイン的「生」の思想構造の中に、カストロのそれを有機的に組み入れ、私なりの理論構築の足がかりを作りたいという意味である。
ともあれ、個人的力量にも限度があることだし、大風呂敷を広げることはこの辺にして、まずは地道に基礎作業にとりかかろう。話の順序としては、彼の伝記的事実について触れてからその作品に論を進めるべきであろうが、拙論ではA・カストロに近づくにはどのような手段(書物)があるかを確める作業を先行させる。そして彼の伝記的な側面は、前者(つまり彼の作品)を適確に読解するために最少限押さえておきたいことだけを、ごく簡単に扱うことにしよう。
一 A・カストロの作品について
筆者が現在までに披見しえたA・カストロの作品・著作目録は以下五冊の本に収録されたものである。
- アラング-レン他著 『アメリコ・カストロ作品研究』Varios: “Estudios sobre la obra de Américo Castro”, Taurus, 1971. Jorge Campos が作成したもの。
- ゴメス・マルティネス著『アメリコ・カストロとスペイン人の起源』 Gómez-Martínez, José Luis: “Américo Castro y el origen de los españoles”, 1975.
- アニアノ・ペ-ニャ著『アメリコ・カストロとそのスペインならびにセルバンテス論』 Peña, Aniano: “Américo Castro y su visión de España y de Cervantes”, Gredos, 1975.
- ステフアン・ジルマン他編『歴史の観念』 Ed., by Stephen Gilman & Edmund L. King: “An Idea of History. Selected Essays of Américo Castro”, Ohio State University Press, 1977.
- ギリェルモ・アラヤ著『アメリコ・カストロの思想』 Araya, Guillermo: “El pensamiento de Américo Castro”, Alianza, 1983.
もちろんこのうち、もっとも完備したものは、昨1983年までのデ-タを集めた5.(アラヤのもの)であるが、それはたんに最近のものまでを収録しているという理由からだけでなく、発表時にはどのような書評が寄せられたかとか、再版のものについては、収録作品に関して初版とどのような異同があるかを詳細に記載しているからである。これは、1956年に、プリンストン大学の、A・カストロのかつての教え子たちが編んだ『人物評とスペイン研究』“Semblanzas y estudios españoles” 所収の目録の様式を踏襲し、かつ補足したからある。1956年以降1980年のもの(カストロは1971年に死去)には、続き通し番号314から369が付せられている。369という数字はいかにも大きいが、もちろんこれには単行本の形での著作だけでなく、雑誌・新聞掲載論文、共著、編著、翻訳、さらには英訳など彼の作品の翻訳も数に入っている。
要するに現段階でもっとも完全な目録は、プリンストン版とアラヤのそれとを合わせたものということになる。しかし残念ながら筆者はプリンストン版を披見することができず、いずれ全集刊行(『歴史の観念』)の編者によるなら、出版社タウルスが準備中ということだが、現在までその動きはない)の暁に参照する以外に手はない。もっともアラヤは親切にも、1910年から1956年にかけての主要作品を付録として書き出してくれているから、大凡の輪郭はたどることはできるが。
そこでここでは、以上すべての目録を照らし合わせながら、狭義の意味での作品、すなわち単行本として出版されたもの(編著ならびに翻訳書、つまり彼自身の作品の翻訳ならびに他の作者の作品の翻訳、は除いて)だけを抜き出してみよう。
- 『ロべ・デ・ベガの生涯』 “Vida de Lope de Vega, 1562-1635”, Sucesores de Hernando, Madrid, 1919, VIII+562 pp. H. A. Rennert. との共著。
- 『スペインにおけるスペイン語教育』 “La enseñanza del español en España”, V. Suarez, Madrid, 1922, 109.
- 『言語、教育、そして文学』 “Lengua, enseñanza y literatura”, V. Suárez, Madrid, 1924, 335pp.
- 『セルバンテスの思想』 “El pensamiento de Cervantes”, Hernando, Madrid, 1925, 406 pp.
- 『聖テレサならびに他のエッセイ』“Santa Teresa y otros ensayos”, Historia Nueva, Madrid, 1929, 278 pp.
- 『セルバンテス』 “Cervantes”, Les Edtions Rieder, Paris, 1931, 80pp.
- 『中世ラテン-スペイン語語彙集』“Glosarios latino-españoles de la Edad Media”, Hernando, Madrid, 1936, LXXXVIII+380pp.
- 『スベイン文明の意味』 “The meaning of Spanish Civilization”, Princeton University Press, Princeton, N.J., 1940, 29 pp. [開講講演。後に英訳され『歴史の観念』に収録される]
- 『イベロ・アメリカ、その現在と過去』 “Iberoamérica, su presente y su pasado”, The Dryden Press, New York, 1941, XIV+267 pp.
- 『ラ・プラータ河流城地方の言語的特殊性ならびにその歴史的意味』“La peculialidad linguistica rioplatense y su sentido historico”, Losada, Buenos Aires, 1941, 159 pp.(6)
- 『うまし国カスティーリャ』“Castilla, la gentil”, Editora Cultura, México, D.F. 1944, 16 pp. [後に『いまだ知られざるスペイン』に収録される]
- 『歴史の中のスペイン』 “España en su historia: Cristianos, moros y judíos”, Losada, Buenos Aires, 1948, 709pp.
- 『スペイン的生の諸相 十四~十六世紀における精神主義、救世主信仰、 個人的姿勢』 “Aspectos del vivir hispánico. Espiritualismo, mesianismo, actitud personal en los siglos XIV al XVI”, Editorial Cruz del Sur, Santiago de Chile, 1949, 168 pp.
- 『歴史学試論 スペイン人ならびに回教徒に見られる類比と差異』 “Ensayo de historiología. Análogas y diferencias entre hispanos y musulmanes”, F. C. Feger, New York, 1950, 44 pp.
- 『スペインの歴史的現実』 “Realidad historica de España“, Editorial Porrua, México, D.F., 1954, 684pp.
- 『二つのエッセイ』 “Dos ensayos”, México, Editorial Porrua, 1956. [一部は後に英訳され『歴史の観念』に収録される]
- 『人物評とスペイン研究』 “Semblanzas y estudios españoles”, Princeton, N. J, (Printed by Ediciones Insula, Madrid), 1956, I+440pp.
- 『セルバンテスに向かって』 “Hacia Cervantes”, Madrid, Ediciones Taurus, 1957.
- 『スペインのサンティアーゴ』 “Santiago de España”, Buenos Aires, Emece editores, 1958.
- 『スペイン人の起源、存在、実存』 “Origen, ser y existir de los españoles”, Madrid, Taurus ediciones, 1958.
- 『葛藤の時代』“De la edad conflictiva”, Madrid, Taurus ediciones, 1961.
- 『スペインの歴史的現実』増補改訂版 1962.
- 『文学的闘争としての「ラ・セレスティ-ナ」』 “‘La Celestina’ como contienda literaria (Castas y casticismos)”, Madrid, Revista de Occidente, 1965
- 『スペイン人はいかにしてスペイン人となったか』“Los españoles: como llegaron a serlo”, Madrid, Taurus ediciones, 1956. [『スペイン人の起源、存在、実存』の増補改訂版]
- 『セルバンテスとスペイン生粋主義』“Cervantes y los casticismos españoles”, Madrid, Alfaguara, 1966.
- 『外国語としての「エスパニョ-ル」、理由と動機』 “‘Español’ palabra extranjera: razones y motivos”, Madrid, Taurus, 1970.
- 『いまだ知られざるスペイン』“De la España que aún no conocía”, México, Finisterre, 3 vols, 1971.
- 『スペイン人――その歴史への案内』“The Spaniards (An Introduction to their history)”, Berkely, Los Angeles and London, University of California Press, 1971, XII+628 pp.
- 『スペイン人の名前と素性について』“Sobre el nombre y el quien de los españoles”, Madrid, Taurus ediciones, 1973. [『スペイン人はいかにしてスペイン人となったか』と『外国語としての「エスパニョール」』の増補改訂版]404 pp.
- 『歴史の観念』 “An Idea of History”, Ohio State Univ. Press, 1977, X+343 pp. [すでに発表された評論以外に、死後草稿のまま発見された作品が二つ収録されている]
最後の二冊(29.と30.)は遺稿集ということになる。
さて以上が狭義の意味(単行本)での、A・カストロの著作目録だが、もちろんこの他にも膨大な数の雑誌・新聞掲載論文、編著・翻訳がある。そのうち翻訳について一言するなら、スイスの言語学者ヴィルヘルム・メイヤー・リュブク(Wilhelm Meyer-Lubke, 1861-1936)の『ロマンス語言語学入門』(1901年初版)のそれぞれ第二版と第三版の翻訳である。前者(1914年刊)が399べ-ジ、後者(1926年刊)が463ページであるから、大幅の加筆訂正があったらしい。
さて一応三〇冊の著作を彼の作品として数えあげてみたが、しかしここにA・カストロ特有の問題がいくつか存在する。まずごく外面的なことから言うと、彼の多産な執筆活動がスペイン内戦以後、つまり彼の五〇代以後に集中していることで、これは彼の「生」と作品との関係に特有の問題が内在していることを示唆している。次に彼が自著を絶えず加筆修正していったということから来る問題である。その典型的な例を一つ挙げると、1948年の『歴史の中のスペイン』と1954年の『スペインの歴史的現実』という二つの主要作品間に見られるそれである。つまり彼は、前者をまったく新たに書き直した形で後者を発表しているのだ。事実、彼自身が作製した自著の作品目録(『歴史の観念』所収)には、『歴史の中のスペイン』のタイトルは削られている。それだけでなく、彼は生前、それが再版されることをかたくなに拒否した。またその同じ作品目録の中で、1962年に出された『スペインの歴史的現実』増補改訂版が、あたかも別個の独立した作品として載せられてもいる。このようなことは、大なり小なり彼の全作品にも起こっている。たとえば、1965年の『スペイン人はいかにしてスペイン人となったか』にしても、1959年の『スべイン人の起源、存在、実存』を改訂したものであるという具合に。
もちろん、以上のような改訂作業は良心的な作家や学者に多かれ少なかれ見られるものではあるが、A・カストロの場合はその度が過ぎている。これはこれでA・カストロ研究の大きな、しかも重要なテーマになりうるであろう。
つまりA・カストロ研究を試みる場合、彼の最終的な見解が何であったかを特定する必要があるだけでなく、彼がいかにしてその見解にたどり着いたか、前段階をいちいち確かめる必要があるということだ。前説を補強する新たな史料が加えられているだけの場合にはそれほど問題はないが、新たな史料やその後の研究によって前者が修止されたり、くつがえされている場合には、その適正、不適正を判定する必要も生じ、A・カストロ研究はにわかにむつかしくなってくる。
一般にA・カストロの代表作として、1925年の『セルバンテスの思想』と1954年の『スペインの歴史的現実』を挙げる人は多い。事実、前者はセルバンテス研究にコペルニクス的転回を迫った作品、つまりメネンデス・ペラーヨ流にセルバンテスを「無教養の天才」(ingenio lego)として見る従来の見解から、彼を「黄金世紀スペインの意識的(つまり無知にあらずという意味で)芸術家の原型、エラスムス哲学の諸理念に浸透され、バロックならびに対抗宗教改革の世界の中心に位置せる完璧なルネサンス人」(7)と見なす視座に道を開いたのである。
しかしカストロ自身、後に表明しているように、この段階では本当の意味での彼独自の見解は現れていない。つまり従来の文化史の枠組を抜けきれていない。セルバンテスの「思想」のその思想は、あくまでセルバンテスが受け人れ影響された他人の思想なのだ。ここにはオルテガが言う意味での「私は私と私の環境」、つまり環境と主体との共存、すなわち「生」の視座がまだ確立されていない。それが一九四八年の『歴史の中のスペイン』ならびに1954年の『スペインの歴史的現実』において確立された後、新たな視座からセルバンテス像が、つまりセルバンテスとその世界、もっと正確に言えばセルバンテスの「生」が明らかにされるには、1966年の『セルバンテスとスペイン生粋主義』を待たなければならない(8)。 ところで、もしも彼のもっとも代表的な作品を一つ挙げるとすればどうなるか。それはやはり『スペインの歴史的現実』ということになりそうである。そこで今回は特にこの代表作をめぐって、若干の考察を覚え書きすることにする。
『歴史的現実』がスペイン史学界に突きつけたものは何か。それは前述したようにスペイン性(hispanidad)というものを、三つのカスタ(血統)、すなわちキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒の共存ならびに葛藤から生じたものとし、また「血の純粋性」という強迫観念が近代スペインの「生」にいかに深い影響を及ぼしたかを実証することによって、従来からのスペイン史解釈を大きく塗り変えたことによる。アニアノ・ペーニャが言うように「一九四八年以降、スペインの歴史ならびに歴史学は、アメリコ・カストロの歴史学理論に賛成するしないはともかくとして、根本的に変化した」(9)のである。彼を批判する側の代表者は、もちろん『スペイン、歴史の謎』二巻という大著をもって応酬したサンチェス・アルボルノースその人である。
アンドレス・アモロスは、カストロ批判陣営の状況を、「多くのスペイン人(「ABC」紙その他似たようなものを読む保守的な人たち)にとって、カストロはあらゆるところにユダヤ人を発見できるとする一人の妄執にとりつかれた人間(obseso)の典型であるに違いない」(10)と言っている。このオブセッソという言葉で連想されるのは、十六世紀のラス・カサスがメネンデス・ピダルによってパラノイコ(偏執狂患者)と決めつけられた事実である。一方が他方をこのように決めつけるということは、これまた実にスペイン的な思想状況だと言わざるをえない(11)。
ところで先にも指摘した通り、『歴史的現実』に焦点を合わせるときに、次のような問題が出てくる。
① 『歴史の中のスペイン』はA・カストロ自身が言うように、果たして『歴史的現実』の中に揚棄され、それ自体過渡的(12)、というより破葉さるべき遺物なのかどうか。つまり前者はそれ自体限定された歴史的存在でありつつも、『スペインの歴史的現実』とは別個の、それ独自の価値を持たないのかどうか。
② 1954年の『スペインの歴史的現実』と1962年のその改訂版の異同の問題。
③ 1971年の英訳版をどのように位置づけるべきか、という間題。
とりあえず③の問題から見てみよう。というのは、この英訳本には新たに「この書ならびにその歴史方法に関して」という章が冒頭に置かれて順次章の数字がずれ、原著(すなわち『スペインの歴史的現実』)では第三章「不確実性と安定性の歴史」の後にあった 「理論的仮説」の順序が逆になり、そればかりでなく、新たに二つの章、すなわち第十三章「スペイン人口特有の問題に条件づけられた歴史年代」、第十四章「スペイン史における問題ならびに時代」と二つの章が起こされ、最後に補遺「闘牛ならびに異端審問に関する考察」が加わるなど大幅な改変が行なわれているからである。
この英訳本は(一九五四年にはすでに原著の最初の七章がプリンストン大学より『スペイン史の構造』The Structure of Spanish History というタイトルの下に出版されている)、一九七一年、すなわちカストロの死の前年に編まれたものであるから、その序言でカストロ自身が何を言っているかは重要である。
まず彼はタイトルをスペインではなくスペイン人としたことに関して「スペイン人によって為されたことよりスペイン人そのもの」を強調したかったからであると言う。A. カストロは、この形式のものが『歴史的現実』の最終的な形であるとはどこにも言っていないが、付加された三つの章について「これら新しく重要な章」とか、「私のかつての理論とはしばしば異なる新しい見解、現在私の理論にとって根本的な観念」などの言葉が示すように、ほぼ最終的なものと見なしていたことはまちがいない。もし彼に生前その機会があったなら、原著の再改訂版として、この英訳版の体裁をとらせたかも分からない。これについて現在どのような解釈が行なわれているのか、筆者は寡聞にして知らぬが、もし仮に『スペインの歴史的現実』の邦訳が企画されるようなことがあれば、この英訳版の形式を踏襲するのがいちばん無難かつ適切な選択ではないかと思われる。この英訳版に新たに付け加えられた章ならびに補遺のスペイン語原文が公刊されたかどうか確かめようもないが、いずれ英訳版の形式をとったスペイン語版が出版されるであろう。
さて次に②の問題であるが、まず言っておかなければならないのは、 A・カストロをして1962年の改訂版執筆へと踏み切らせたものこそ、サンチェス・アルボルノースのカストロ批判、とりわけ二巻に及ぶ大著『スペイン、歴史の謎』(“España, un enigma histórico“, Editorial Sudamericana, 1956)の出現だということである。それに対するカストロの反論は、本文より主に注においてなされたと思うが、1954年版を手元に持たない筆者にとって、実際にどのような改訂がなされているか、これはまったくお手あげの問題である。将来、1954年版が万一手に人っても、筆者としてはことさら照合してみるつもりもない。いすれ誰かが敢行するのを待ち、その成果だけを利用させていただきたいものだ。ともあれ、論敵を批判するために(ただそれだけの為というわけではなかろうが)全巻1,500ページにも及ぶ書物をものするなどという情熱の存在は、筆者には想像もつかないことである。
さて最後に残った①の問題こそ、もっとも厄介な、しかも重要な問題である。しかしそれに立ち向かうには、筆者の準備不足は隠しようもない。それで今回はごく表面的なことを、いくつか覚え書きするにとどめたい。
前述したように『歴史の中のスペイン』は著者自身の強い希望によって、生前再版されることはなかった。ところが昨年、バルセローナの一出版社(Editorial Crítica)が初版のものをそっくり再版した。実に35年ぶりの再版である。遺族の一人カルメン・カストロ(彼の娘で哲学者ハビエル・スビリ夫人)の承諾を得ての出版だが、彼女自身、まえがきで次のように書いている。
「もし彼(A・カストロ)が生きていたなら九八歳になるが、この作品――彼の思想の生命力あふれる発芽――が原形のまま出版されることを、おそらく不快には思わぬであろう」。
また表紙裏の、おそらくは出版社(編集者?)による宣伝文には、「しかしながら『歴史の中のスペイン』が、その知的活力によるばかりか、その文学的性質から言っても、アメリコ・カストロの代表作であり、彼の恐ろしいまでの歴史的直感力のもっとも幸いなる表現と考える人は多い」と書かれている。
どちらの文章もどこか自信なげであり、冥界のカストロ自身がどのような顔をしているか、ちょっと想像もつかない。ともあれ、そのような評価が正しいかどうかについてなにがしかの見解を述べる前に、両者のあいだにどのような異同が見られるかをざっと検討してみよう。
まず目次を見ても一目瞭然なのは、これらがいわゆる改訂版という言葉でくくることなどできないまったく別個の作品だということである。たとえばごく目立った相違点を挙げれば、『スペインの歴史的現実』(以下『現実』とする)では、第一章が「問題の提起――おとぎ話ではない現実を求めて」、さらに第四章が「理論的仮説――問題の提起」という具合に、アメリコ・カストロの歴史的方法論がくどいほど明確にされており、また『歴史の中のスペイン』(以下 『歴史』とする)にあった『わがシッドの歌』(第六章)、『よき恋の書』(第九章)など文学作品を軸に展開される章が大きく削られ、代わりに聖ヤコブ崇敬のテーマが大きくふくらませてあるなどのことがある。また『歴史』では一〇〇ページ以上にもわたる独立した章 (最大分量の章)「ユダヤ人」があったのに、『現実』ではすっかり削られ、また意外なことにはユダヤ人という名が出てくる章題は一つもないという事実である。ついでに言えば、『歴史』の副題は「キリスト教徒、モーロ人、ユダヤ人」であった。これはもちろん『歴史』が発表されて以後、賛否両論とりまぜてスキャンダラスとも言える論争か巻き起こり、カストロがそれに応戦しながら徐々に新版の構想を練りあげていった、その過程で形をとった一つの戦術であろう。つまりユダヤ人間題を前面に押し立てることのマイナス面を考慮したのではないだろうか。イスラムの影響云々というときの反応と、ユダヤの影響云々というときの反応とは質量ともに測り知れない差があるということである。つまりスペイン人にとって、どちらもあまり話題にしてもらいたくないテーマではあるが、イスラムの方はどちらかというと明るいイメージ(おそらく造形的な面、審美的な面での長期にわたるイスラムの影響が微妙に関係しているであろう)があり、一方ユダヤの方には、これはスペインに限ったことではないが、どこか暗いイメージがつきまとう。つまりタブーなのだ。
しかしだからと言って、新版の方でユダヤのことが影をひそめたというわけではない。いわば、方法論的にユダヤ人問題はスペイン史の内的構造の中に有機的に組み込まれたと言うべきであろう。
両者の内容に立ち入っての比較を試みるつもりはないという前言をひろがえすようでいかにも未練がましいが、ただごく印象批評めいたことを言うと、『歴史』はどちらかというときわめて文学的であり、その意味で刊行者の言葉はあたっている(13)。一方『現実』の方は、歴史の方法論をより厳密に、理論的に構築せんとのA・カストロの姿勢がいっそう明確化されたものであり、その意味では少々骨ばっていると言えよう。ここで特にあわてて結論めいたものを出すのは時期尚早であるが、両者はそれぞれ独自の価値を有する独立した作品でありながら、しかも相補足し合う二卵性双生児(誕生時期にずれはあるが)なのだと言ってもいいだろう。原著者A・カストロの意志に逆らうつもりはないが (作品のもっとも良き理解者は著者である、とは決して言えないわけで)、言葉の真の意味での代表作は、1948年の『歴史』と1971年の『現実』の英訳版を両極とするA・カストロの思想空間に存する、と言っていえないこともないであろう。つまりA・カストロの代表作を『現実』というとき、以上述べたような意味での『現実』と解すべきではなかろうか。
二、伝記的事実に関する若干の覚え書き
前述したように、A・カストロは自らを語ることもっとも少ない著作家の一人であるが、筆者の知る限り、その彼の伝記的データを比較的くわしく教えてくれるのは、アニアノ・ペーニャの前掲書である。それを参考に、A・カストロの伝記的側面についてのノートを作ってはみたが、ここでそれを逐一報告する紙幅もないので、そこから浮かびあがる問題点をいくつか指摘するにとどめたい。
① 彼が外地(ブラジル)生まれであること。
② 彼が最初、メネンデス・ピダル門下の文献学者として出発したこと。
③ いつごろ彼はイスラム・ユダヤ問題に関心を寄せはじめたのか。
④ 彼の思想形成史を内戦を境に二つに峻別することは妥当か。
まず①について。A・カストロは、1885年、ブラジルはリオ・デ・ジャネィロ州のカンタガロ(Cantagalo)で、商用で当地に滞在していたグラナダ出身の両親のあいだに生まれた。後年彼が、南米諸国をはじめとして、ほとんど外国にあって活躍するようになったのは、このように外地生まれの経歴か大きく影響しているに違いない。まず一九二三年(三十八歳)のとき、ブェノス・アイレス大学にできた「イスパニア言語学学会」に協力し、翌年そこでスペイン文学を講じたのを皮切りに、1928年にはメキシコ、そして一九三六年内戦勃発と共にアルゼンチンに亡命。翌年にはアメリカ合衆国に移ってそこに定住、1968年、八十三歳のときに最終的に帰国するまで、約三〇年近くも国外にあったことになる。このことが彼のスペイン史観形成に大きく影響しているのはもちろんである。遠くはルイス・ビーベス(1492-1540)の時代から、亡命者、半亡命者の系譜が連綿と続いていることは、スペイン精神史のもう一つの大きなテーマである。
② A・カストロは1904年、グラナダ大学法文学部を卒業したあと、ソルボンヌ大学に留学、1908年に帰国すると、ヒネル・デ・ロス・リオスなど「自由教育学院」の教師達と知遇を得、彼らに対する敬愛の念は一生消えなかった。ウナムーノ、ピダル、オルテガなどとも交際をはじめるが、特に後の二人との関係は複雑な面を有している。まずピダルとは1910年に創設された「歴史研究センター」で、ピダルが所長、カストロが辞書編纂部の部長といったぐあいに深い関係を持つが、両者のあいだには牽引と反発があい半ばしているといった感じを与える。たとえばカストロが、後年、ピダルの聖テレサの言語に関する遺稿を無意味なものと断じたことなどにその一面がうかがえる。もっともこれは、カストロが自著『スペインの歴史的現実』の全面的な称賛をピダルに期待したのにそれが裏切られたことに端を発しているという説もある。
またオルテガとの関係も実に複雑である。というのは、ピダルはその歴史方法論のかなりの部分、特にその「生」の理論(vividura, morada de la vida)の形成にあたってオルテガから深く影響されているにもかかわらず、彼自身はむしろディルタイにその先達を認めていることなどに現われている。
もっともピダルやオルテガを師と仰ぐには、三者の年齢はあまりに接近しすぎており、このような牽引と反発が生じるのは当然といえば当然である。「生」の理論ではオルテガに借りがあるかも知れないが、オルテガのスペイン史解釈に、ユダヤやイスラムの重要性を教えたのは、逆にカストロであるから(14)、三者の関係は、言葉の真の意味で切瑳琢磨の関係であったわけで、貸し借り云々を問題とするのは当を得ていないであろう。
③ カストロがいつごろからユダヤ人間題に関心を持ちはじめたかには諸説があるが、S・アーミステッド(15)などが言うように、1923年冬に、彼がモロッコに旅し、そこのユダヤ人たちの言葉を研究したことが一つのきっかけとなったことは間違いないであろう。そのときの研究は「モロッコにおけるスペイン語」(1922)に結実するが、しかしこのことがA・カストロのスペイン史観を大きく変えたとは思われれない。
アラヤは、カストロがスペイン史を伝統的なヨ-ロッパ的枠組の中で解釈することをやめ、彼独自の史観を形成しはじめたのは、1938年であるとしている(16)。この年カストロがぶつかっていたのは、実はユダヤ人間題ではなく、イスラム的なるものをどう位置づけるかに関してであった。その思索の成果が後に『スペイン的生の諸相』(1949)として一書にまとめられるところの「スペイン的なものとエラスムス主義」(1940-42)である。またこの前年(1937年)、フランスのスペイン史家マルセル・バタイヨン(1895-1977)の名著『エラスムスとスペイン』(“Erasme et l’Espagne”)が出版されたが、それが大きな刺激剤となったことは想像に難くない。
④ このような学問的領域での影響もさることながら、前述したように、スペイン史の問題が彼の実存体験、すなわち内戦勃発による亡命体験によって、その問題領域を学問的な枠組から一挙により大きな枠組、すなわちスペイン史とカストロ自身の「生」を包み込むより大きな「生」の枠組にまで拡大したことは是非指摘しておかなければならない。カストロ自身の次のような言葉もある。
「すでに1936年、私は自分たちがおのれ自身についていかに無知であったかに気づき始めた。私たちは自分たちが何者であったかも、またなぜ互いに殺し合うのかも分かっていなかったのだ。……数年後、私は、私達の宿癖たるカイン主義[妬みによる兄弟殺し]を探究するという作業――多くの人にとっては苛立たしい仕事――にとりかかった(17)」。
もちろん内戦体験を境にカストロの歴史観が一変したというわけではないが、しかし彼の思想形成史を、内戦前と内戦後とに大別することは妥当であろう。
以上、カストロの作品を読み進めていくうえで押さえておくべきだと思われる四つのポイントを指摘したところで、A・カストロへの最初の接近の試みを閉じることにしよう。
註
(1)『長い暗闇の彼方に』、渋谷仙太郎訳、中央公論社、一九七五年、第三版。
(2) Obras Completas de Ortega, Vol. XII, 2 ed., 1964. Revista de Occidente, p.96.
『オルテガ著作集5 個人と社会』、白水社、第五刷、一九六九年、四六ページ。
(3) 『スペイン精神史序説』、拙訳、第二版、一九七四年、法政大学出版局、十八-十九ページ。
(4) Obras Completas de Unamuno, Vol. VII, Escelicer, 1966, p.288
『ウナム-ノ著作集 3 生の悲劇的感情』、第一一版、一九八三年、法政大学出版局、三四六ページ。
(5) Op. Cit., p.143.
(6) ボルヘスがこれを批判している。『異端審問』、中村健二訳、晶文社、一九八二年、四一~四九ページ。 Jorge Luis Borges: “Otras inquisiciones”, Alianza, 2 ed., 1979, pp. 35-40.
(7) Aniano Peña, op. Cit., p.149.
(8) ここで思い起こされるのは、一九一四年『ドン・キホーテをめぐる思索』をもってその思想的出発を刻印したオルテガのことである。この作品はドン・キホーテの名を冠してはいるが、いわゆる作品論でもなければ作家論でもない。いわばスペイン文化、スペイン精神史の象徴の森たる『ドン・キホ-テ』に対する彼の最初の果敢な挑戦、イェリコの包囲戦であった。しかし本丸には入っていない。オルテガはこう書いている。「セルバンテス!一冊の書物を書いた忍耐強い郷士たるセルバンテスは、三世紀も前から、仙境に腰をおろして、周囲にさびしげな視線を投げかげながら、いつか自分を理解してくれるような子孫の生まれることを待っているのだ!」。しかしオルテガはそのようなセルバンテス論を書かずじまいだった。そしてその『ドン・キホーナをめぐる思索』の初版には、それに続くドン・キホ-テ論として「つねづねミゲル・デ・セルバンテスは世界をどう見ていたか」というタイトルが予告されてあった。このオルテガの秦志を継いだのが、まさにA・カストロその人であったと言わなければならない。
(9) Aniano Peña, op. Cit., p.289.
(10) Varios: “Estudios sobre la obra de Américo Castro”, p.39.
(11) このユダヤ人狩りという非難に対して、カストロ自身は次のように言っている。「このような異端審問的な、あるいは社会学的な警察仕事は、私にはほとんど興味がない。なぜなら私にとってあるスペイン人がどの血統に属しているかどうかなど、どうでもいいことだからである」。A. Castro: “De la España a que aún no conocía”, I. p.263.
(12) 彼は『歴史の中のスペイン』で次のように言っている。「われわれは通常の意味での歴史書を書くことではなく、それを将来可能にするような一つの道案内を試みたにすぎない」。Cit. en “Américo Castro y su visión de España y de Cervantest”, p. 85.
(13) A. カストロ自身も註 (12) でアニアノ・ペーニャが引用している文章 (『スペインの歴史的現実』) で次のように言っている。「このようなスペインの伝記の設計図――あるいはトルソー――のために、われわれは生の形式がもっとも直接的に表現されている諸現象、すなわち言語、文学、内面的な告白、そして人間の生の流れの構造が現われているあらゆるものを利用した」。
(14) Cfr. Guillermo Araya: “El pensamiento de Américo Castro”, p. 261.
(15) Varios: “Estudios sobre la obra de Américo Castro”, p.183.
(16) Cf. Aniano Peña, op. Cit., p.84.
(17) A. Castro: “‘Español‘, palabra extranjera: razones y motivost”, Taurus, 1970, p.29. Cf. Aniano.
『常葉学園大学研究紀要』外国語学部、第一号、1986年