20. カロ・バロッハ『カーニバル』あとがき (1987年)


カロ・バロッハ
  『カーニバル』あとがき



 本訳書はフリオ・カロ・バロッハ(Julio Caro Baroja)の『カーニバル』(El carnaval: análisis histórico-cultural)の全訳である。翻訳の定本としてタウルス社版(Taurus Ediciones, 2 ed., Madrid, 1983)を用いた。なおガリマール社から出ている仏訳(Editions Gallimard, 1979)を適時参照したが、教えられるところ大であった(と言いたいのだが、訳者が参照したかった難所のかなりの部分が、どうしたわけかすっぽり省略されていたりで、余り役には立たなかった)。巻末にある二つの索引およびカロ・バロッハの略年譜・著作日録は、原書にはないが読者の便を考えて訳者が付け加えたものである。
 さてのっけから私事にわたって恐縮だが、いままでオルテガやウナムーノなどスぺイン思想関係の翻訳の経験はあるにしても、文化人類学あるいは民俗学にはまったくの素人である訳者が、なぜこの書を訳したのか、その理由を述べておきたい。訳者にとってカロ・バロッハはまずなによりもスぺイン精神史の優れた道案内であった。 特にスぺインにおけるユダヤ人問題を論じた大著『近・現代スぺインのユダヤ人たち』、一六、一七世紀スぺインにおける宗教・社会を考察した名著『宗教生活の複雑な形式』の著者であった。彼の他の著件も約三〇冊ほど書棚に並べ、いつかは本格的に取り組まなければならない気になる存在であった。だから法政大学出版局の稲義人氏から本書『カーニバル』の翻訳依頼の話があったとき、カロ・バロッハへの接近にはいい機会と気楽に引き受けてしまったのである。これがとんだ早とちりであって、結果として大変な難産をすることになった。たとえばいたるところに出てくる引用文のたぐいである。ラテン語ありスぺイン古典の引用あり、そうかと思えばバスク語・カタルーニャ語、ガリシア方言等々があって、大いに悩まされた。フランス語版の訳者が面倒な箇所を大胆に省略していることを腹立たしくさえ思ったものである。ということで私自身、最善を尽しはしたが、つまらない見当違いがあるかも知れない。読者諸賢の御叱正をお願いする次第である。
 バスクやカタルーニャ、あるいはガリシアの祭の名称、その登場人物の名称については、あえて意訳せずに原音をそのままカタカナ表記にすることに最後まで迷いがあったが、しかしそれ以外に良い方法が見つからなかった。巻末に付けた事項索引ならびに人名索引は、少しでもその欠を補うためのものである。読者のお役に立てば幸いである。
 ちょうど本書の初校の校正をしていたとき、作家島尾敏雄の思いもかけない訃報に接した。故人は訳者とはいとこ叔父の関係にあったが、しかし彼からはたんなる血縁を越えて人間的かつ文学的に深い影響を受けてきた。彼の本領はもちろん小説であったが、沖縄・奄美のいわゆる琉球弧を視座に据えて、一挙にヤマト日本を相対化する彼の壮大な「ヤポネシア」論に鼓舞されてきたのは訳者だけではなかろう(法政大学出版局からも、彼が編集した『奄美の文化』が刊行されている)。いま壮大と言ったが、それは構想そのものの壮大さであって、彼はむしろ控え目に、低声で主張してきた。亡くなってから十日ばかりたって、彼が終の住処と定めた鹿児島の家を訪ねた。彼が本の整理中に倒れたという書庫には、南島に関するおびただしい数の書籍とノートが残されていた。島尾敏雄とカロ・バロッハはもちろんその仕事の分野も作風も違う。しかし多感な青年時に遭遇した戦争を他のだれよりも深く受け止めたこと、死を日常の中に見据えるその視点、に驚くほどの近さがある。かつてカロ・バロッハは次のように書いた。「スぺイン内戦が始まったときに二一歳で、第二次世界大戦が始まったときに二五歳であった人間の意識に、いったいどんな大きな夢が残されているというのだろうか」。またこうも書いている。「待つこと。死を静かに、落ち着いて待つこと。死ぬことはどんなに重要な人物にも起こることであるから、己れの死についての想念を前になにをあわてふためくことがあろう。問題はそれがあまりにも痛ましいもの、わずらわしいもの、あるいは人間の品位を傷つけるものでないことを願うばかりである」。
 島尾敏雄の南島論の根底には、初期の『離島の幸福・離島の不幸』から一貫して、硬直して威丈高なニッポンに対する深い違和感があった。カロ・バロッハも次のように言っている。「生は過ぎる (あるいは過ぎた)。そして結局のところ経験が私に教えてくれるのは、私が一種のリップ・ヴァン・ウィンクルだということである。スペインについての私のイメージ、バスクや大学や政治に関する私のイメージは、現実のそれとは何の関係もない。現実がそうであるのであれば、賢明で適切なことは、それらがあるにまかせて舞台正面から身を引くことである」。訳者はカロ・バロッハが長いあいだ王立アカデミー入会を固辞してきたことに強い共感を覚えでいたが、昨年ついにそれを受れ入れたとき、一見矛盾した感懐かも知れぬが、これまた深く共鳴したのも以上のような背景があったからである(島尾敏雄の芸術院入りに関しても同様の感懐を持った)。
 ところで本来ならここで著者のカロ・バロッハの紹介をすべきなのに(それは後に付した畔年譜なわびに作品目録をもって代えさせていただきたい)思わず島尾敏雄のことに触れたのは他でもない。つまり、もし本訳書に関して訳者にもいささかの功労を認めていただけるなら、ぜひこのささやかな訳業を彼の霊前に捧げさせていただきたいからである。原著がその思い出のために捧げられている小説家ピオ・バロッハも、同じ小説家の誼(よしみ)で、このいささか型破りな願いを快く許してくれるのではなかろうか。
 最後に一つだけ指摘しておきたいのは、本書が『愛の時節――五月から聖ヨハネの祝日までの民衆的な祭』(一九七九)と『祭の夏――夏の民衆的な祭』(一九八四)と三部作を構成しているということである。つまりこの三部作によって一年の主な祭の考察がその円環を閉じるのである。
 本訳書が成るにあたっては、上智大学の清水憲男氏、京都外国語大学のハビエル・マルティネス氏、常葉学園大学の同僚諸氏など、多くの友人たちに種々貴重な教示をいただいた。またいつもの通り法政大学出版局の藤田信行氏にはいろいろとお骨折りを願った。ここに記して訳者の感謝の気持ちをお伝えしたい。


一九八六年一二月五日