スペイン神秘主義研究の視点をめぐる若干の考察
本年(一九八一年)十月十四日(1)は、スペイン神秘思想を代表する聖テレサ・デ・へスース(イエズスの聖テレジア、一五一五–八二)が、サラマンカの南やく二〇キロにあるアルバ・デ・トルメスの修道院で亡くなってからちょうど四〇〇周年に当たる。聖女はたんに改革カルメル会の創設者であるばかりでなく、一九七〇年教皇パウロ六世によって、女性ではじめて教会博士の称号を与えられたことからも分かるように、カトリック教会の霊性の歴史に一際光り輝く巨大な存在である。そしてこの四〇〇周年を機に、スぺインのみならず、世界各地で聖女の遺徳をしのぶ各種の催し、記念論文集の刊行などが計画されているようである。
拙論もこの四〇〇周年という時の区別りにちょうど重なる形になったが、しかしそれはまったくの偶然である。というのもここ十数年来、ウナムーノやオルテガを中心に現代スぺイン思想を読み進める過程で、このスペイン神秘思想は、いつかはぶつからねばならぬ課題としてつねに立ちはだかっていたからである。
昨夏、機会を与えられて、主に聖テレサや十字架の聖ヨハネの足跡を実地にたどることができた。神秘思想が生まれた風土を、まず実際に歩いてみる必要性を感じたからである。私としてはそれを、本格的に研究を始めるきっかけにしたかったわけだが、しかしいまだカルメル山の頂きをはるかに眺め上げる麓で立ち迷っているというのが実情である。
つまり神秘思想を研究の対象にするかどうか、ということよりも先に、神秘思想を読むとはどういうことかということを考えてしまうのだ。これがたとえば未知の国の体験を報告する紀行文であったならば、話はもっと簡単であろう。そこに書かれていることが事実に即したものであるかどうかを問うことはあっても、読み手の《信》そのものは問われないからだ。聖テレサが彼女自身の神秘体験を語っている箇所を読むとする。そのとき読者は、彼女の言うことを信じることもできるし、信じないこともできる。しかしどちらにしても、信じる、あるいは信じないのその《信》とは何かという問いが問われていることに変わりはない。未知の国のことならいずれは突証可能なことである。しかし神秘体験となればそうはいかない。
しかし徐々にではあるが、この問題の輪郭が見えてきたような気がする。つまり神秘思想が完徳生活あるいは至福直観へのたんなる手引書としてではなく、いわく言いがたいあるものを表現しようとする人間の苦闘のドラマ、あるいは未完のヒューマン・ドキュメントとして見えてきたと言えばよいであろうか。
このような考えに導かれのは、おそらく私がウナムーノやオルテガを通してスぺイン神秘思想と出合ったからかも知れない。ところで、いかにも現代の神秘家然としたウナムーノと神秘思想の結びつきははっきりしている。しかし『神秘家に対して神学者を擁護する』(2)などのエッセイからも明らかなように、むしろ反神秘主義的オルテガと神秘主義の結びつきは少しばかり説明を要するであろう。だがその説明は後に回して、ひとまずウナムーノの言葉を引用してみる。彼の神秘主義への言及となればそれこそ枚挙にいとまがないほどだが、彼の思想の総決算ともいうべき主著『生の悲劇的感情』の最終章からの文章を抜き出してみよう。そこには一九〇四年の『スぺイン哲学について』(3)で展開された彼の主張がより鮮明な形で表明されているからである。
「われわれの哲学、スぺインの哲学というものは、哲学体系の中にではなく、われわれの文学、われわれの生、われわれの行動、とりわけわれわれの神秘思想の中に溶解し混じり合っている、との確信を私はいよいよ深めている」。
「もしかするとその根底において、征服者たち、対抗宗教改革者たち、ロヨラ、そして何にもまして、抽象的だが感得された思想の領域におけるわれらの神秘思想家たちの哲学も、ドン・キホーテの哲学と同じものではなかろうか。フワン・デ・ラ・クルスの神秘思想も、神的なるものに対する感情の遍歴の騎士道以外の何だというのであろうか」。
「“ドン・キホーテ” は何を残したのかと諸君は言うかも知れない。それに対しては、彼は自分自身を残した、そして一人の人問、生ける永遠の人間はあらゆる理論、あらゆる哲学ほどの値打ちがあるのだと答えよう。他の民族は何よりもまずもろもろの制度を、そして書物を残してくれた。しかしわれわれは魂を残したのだ。聖テレサはいかなる制度、いかなる『純粋理性批判』にも匹敵する」(4)。
以上の引用文からも分かるように、ウナムーノはスペイン神秘思想を、過去のある時代に起こったたんなる思想現象として見ていない。むしろ現に彼自身のうちに生きている思想、もっと正確に言うなら、彼自身もその中に生きている思想としてとらえている。文中に使われている「われわれ」は、たんに「われわれの先祖たち」という意味ではない。彼ミゲル・デ・ウナムーノを含む「われわれ」を意味しているのである。ここに一九〇二年に書かれた『スペイン的個人主義』と題するエッセイがある。彼はこの中で、スぺイン的個人主義を、「他人に対して自己を主張するときの力、自分で教義を作り出してその中に閉じこもるときのエネルギーが、彼らの内心の精神的な内容の豊かさと均り合っていない」と批判している。つまり多大の個別性は見られるが、独自性や人格性はわずかしか持ち合わせておらず、異端審問的な個人主義だと言うのだ。そうした個人主義をいささか戯画的に描いている箇所があるので、少し長いが引用してみよう。
「彼は自分よりも他人の方がずっと美男で、エレガントで、強く、健康で、知性的で、賢く、寛大であり、すべてのことにおいて、また一つひとつの点において、彼より他人の方が優れていることを認めるのにやぶさかではない。しかし結局のところ当の個人、彼フワン・ロぺスの方が、フワン・ロペスであるがゆえに、そして彼と全く同じフワン・ロぺスが他にいないがゆえに、また当のフワン・ロぺスを形成している全性質、良いもの悪いもの,より良いものより悪いものも、すべてが再び一つに集められることも可能な訳ではないがゆえに、他のだれよりも優れているのである。彼は唯一の、かけがえのない人間であり、しかもこのことに関して理由づけは必要ない。したがって彼はオーべルマンと共に、“私は宇宙にとっては何物でもないが、私にとって私はすべてである” と言うことができるのだ」。
いささか誇張されているきらいはあるが、しかしスぺイン的個人主義の特徴をあますところなく描き切っている。ただウナムーノがここで言わんとしていることを正確に理解するには、彼が個別性(individualidad)と人格性(personalidad)とのあいだに設けている区別を知っておく必要がある。つまり彼によれば、「個別性という概念は精神的容器(コンティネンテ)に関わり、人格性という概念はむしろ内容(コンテニード)に関わっている。そして個別性とはむしろ外に向かってのわれわれの限界のことを言い、その有限性を示している。人格性とは主に内部へと向かうわれわれの限界、否、むしろ無限界のことを言い、われわれの無限性を示している」のである。さて問題はこれら二つの原理がどのような関係にあるかということである。スぺイン的個人主義が、個別性が大で人格性が小であるという場合、それら二つのものは反比例する、あるいは対立する、と言えるかも知れない。しかしウナムーノ自身が言っているように、これら二つはより広義の、より正確な意味では、相互に補い合っているのだ。なぜなら、「かなりの割合で人格性がなければ強い個別性というものもありえないし、また、さまざまな要素を統一している個別性をかなりの程度まで持っていなければ、強烈で豊かな人格性もありえない」からである。しかし相補い合っているだけであろうか。むしろ個別性に徹することによって人格性をより多く獲得するということが起こらないであろうか。たとえば『生粋主義をめぐって』で言われているように(6)、セルバンテスそしてドン・キホーテは、純粋なスぺイン人であるがゆえに、かえってそのスぺイン主義を脱却し、普遍的精神に、われわれ皆の内部に眠っている人間そのものに到達したのではないか。そして先に引用したスペイン的個人主義の素描の中にもすでにこのメカニズムは暗示されていた。つまりフワン・ロペスがオーべルマンと共に、”私は宇宙にとって何物でもないが、私にとって私はすべてである” と言い切るためには、個から普遍へ、有限から無限への跳躍、人間存在の逆転劇が仕組まれていたはずである(7)。しかしここで急いでつけ加えなければならないことがある。それは「個に徹する」ということが、いたずらに個を主張することではなく、むしろ自己の有限性をもろに引き受けることだということである。
それは究極的には、おのれを捨てること、おのれに死ぬことと同義ではないのか。
これこそまさにスぺイン神秘主義の要諦である(8)。事実ウナムーノは、『生粋主義をめぐって』の第Ⅳ章「神秘思想と人文主義」の仲で、「神秘思想は個別化に働く特質を抹殺することによって、しかし個別的な道を通って、人格の最大の充実を求めた」と言っている。なぜカスティーリャの精神は神秘思想を生粋の哲学としてとらえたのか。それは「カスティーリャの精神が、充分に成熟したとき、至高の理想として、二つの世界の調和ならびに行動の至高の動機を求めた」からである。つまり「おのが情熱の内部で、またそれら情熱をもって、その情熱そのものを否定し、また自己の個別性を、その個別性それ自体の放棄の上に打ち立てんとして、おのれ自身の生粋の性格の否定へと向かったのである」。
「十字架の聖ヨハネがあらゆるものから離脱せんと欲するときでも、それはすべてを得るため、神ならがに神と共なるすべてのものが自分のものになるように虚無(ナダ)を求める」のである。
ウナムーノとスぺイン神秘主義との結びつきは以上の引用によってじゅうぶん明らかになったと思う。ウナムーノのあらゆる作品の中には、このスペイン神秘主義の伝統が貫流している。もちろん彼の聖テレサ、聖ヨハネ理解は、正統的なカトリック神学からは問題視されるところが多々あるに違いない。しかし現代の思想家で彼以上に神秘思想にのめりこみ、そこから自分自身の思想を紡ぎ出している思想家も少ないであろう。
さて今度はオルテガとスぺイン神秘思想との結びつきを考てみなければならない。彼はウナムーノと違って、かたくななまでに此岸に踏みとどまろうとする。先に挙げた「神秘家に対して神学者を擁護する」という一九二八年の公開講座では次のように語っている。
「神秘主義は深みを掘り下げる傾きを持ち、そして深淵にあるものを取り扱う。少くともそれは深みに熱中し、深みに惹きつけられていると感じている。ところが哲学の傾向はそれとは正反対のものである。哲学にとって関心があるのは、神秘思想のように深みに沈潜することではなく、むしろその反対に、深みから表面へと突出することなのだ。通常考えられていることとは逆に、哲学は表面性への巨大な熱望である」。
ここに神秘思想に対する彼の思想的立場は明らかである。しかし彼は彼岸の生を否定しているわけではない。すでに一九一四年の『ドン・キホーテをめぐる思索』の中で、彼は次のように書いていた。「信心深い人が、花咲く野原や夜のゆがんだ顔の中に神を見た、と言うとき、それは彼があたかも一個のオレンジを見たことについて語っているかのように言うのであって、なにもそれ以上に隠喩的に自己を表現しているわけではない。……このような考え方の中には、たとえば、われわれはいま目の前に一つのあせた色を見ている、というときと比較して、なにもそれよりもたくさんの神秘主義がふくまれているわけではない」(10)。つまり先ほどの「神秘家に対して神学者を擁護する」でも明言しているように、「ことばの厳密な意味での神秘主義に対する分別ある態度いうものは、精神病院での場合のように神秘家たちを研究するとか、あるいは前もって考えていた反論でもって彼らに対するペダントリーに成立すべきではなく――それは神秘家たちのやったことの本質的なところを何ら明らかにしないのである――むしろその反対に彼らがもたらしてくれるものをすべて受け入れ、彼らのことばをそのまま聞くことにある」ということである。
オルテガの思想は、ウナムーノと違って、あくまで此岸にふみとどまろうとするが、しかし彼岸に対して開かれているのである。彼が神について語ることはめったにないが、その彼が「神が見えたぞ」という意味深長な題のエッセイを一九二六年に書いている。そこで彼は彼岸の一切に背を向ける不可知論と、此岸の一切に眼を閉ざす神知論をその排他性ゆえに共にしりぞけつつ、最後にこう語っている。「これら二つの対立する、等しく排他的な偏愛を前に意を注ぐとき、中間線、つまり正しく両つの世の間なる国境を描き出す中間線にじっと意の注がれる余地がある。“此の世” のおわるところなるその線は、此の世に属し、それゆえ、“積極的” な性格を帯びてくる。しかしながら、 同時に、その線においてあの世ははじまり、従ってそれは超越的である。個々のあらゆる学問は、その内面の営みの必然により、己れ自身の究極の問題、同時に大いなる神智の最初の問題でもあるその究極の問題なる線に対(むか)って、今日、せき立てられていることになる」。
言うまでもなくオルテガは、独特な生の思想を構築した哲学者である。その生の思想がどのように形成され発展させられたかについてはすでに他の機会に述べておいたが(13)、いまそれと神秘思想との関係について付言しなければならない。簡単に言うなら、彼の言う “生” は決して此岸の生に限定されていたのではなく、前述したように彼岸の生にも開かれていたということである。いや開かれていただけではない。ちょうど本来は二階建てだがさしあたっては一階の部分だけが着工された家屋の設計図のように、少くとも彼岸の生の輪郭は青写頁に書きこまれていたのである。それはたとえば次のような文章に明らかである。
「同様にキリスト教が此岸の生に優先させるものは、生気のない存在ではなく、まさにもう一つの生である。つまり考えられるかぎりまったく “別” の生ではあるが、しかし基本的な点、すなわち生である、という一点で “此の世” と一致している。至福の生は生物学的特徴を持っているのだ。そしておそらく読者が考えるよりもそう遠くないある日、一つの総合生物学が、つまり従来の生物学がその一章にすぎないような総合生物学が形成され、天の動物群(ファウナ)や生理学が、生の “可能な” 形式のうちの一つとして、生物学的に定義され研究される日が到来するであろう」(14)。ここで言う生物学はつねもちろん従来その名で意味されてきたものとは違う。別の箇所(15)で彼はそれを伝記(biografía)と呼ぶべきだと言っている。なぜなら、ギリシア語をあまり知らないラマルクは、本来なら zoe の学、つまり Zoologñia と呼ばなければならないものを bios の学 Biología と命名してしまったが、しかし本来なら bios は有機的生のことではなく、生者の行為を意味していたからである。
ところでこのような “生の理説” が スペイン神秘思想研究にどのような新しい視点をもたらしてくれるのであろうか。いまさら言うまでもないことだが、神秘思想といっても、それは具体的にはたとえば聖テレサや十字架の聖ヨハネという具体的な人間の思想として存在している。そこでそのような人間を取り上げるときに留意しなければならないのは何かということになる。この点に関してオルテガは、一九三二年の「内側からゲーテを求めて」(16)で見事な論を展開する。
すなわち、たとえばゲーテを取りあげる場合、従来の伝記作家が見落としていた点は、ゲーテを内側から眺める視点だというのである。いや、もっと正確に言うならゲーテの内側ではなく、ゲーテの生の内側から眺める視点である。つまりゲーテとその世界もしくは外的運命との闘い(これは従来の作家たちの視点である)よりもさらに重要なのは、ゲーテとその世界、さらには電気作家をも包合する生の内側からの視点なのだ。なぜなら生は、「我」と「世界」のたんなる総和ではなく、むしろそれらの劇的な統一、緊張をはらんだ対話であって、その生の内側から眺めることをせずに真のゲーテ、生きるゲーテをつかまえることは不可能だからである。あるいは次のように言うこともできる。すなわちゲーテの生を理解するには、彼がなしえたことを羅列するよりも、彼がなさんとしてなしえなかったものを見透す方がより重要である、と。なぜなら、オルテガも言うように、「程度の差はあれ、どの人生も一種の廃墟であって、その人物がどんな人であったかはその砕片によってしか知ることができない」からである。そしてオルテガはここに「天命」(Vocación)という彼独白の概念を導入する。これは「神によって召される」という宗教的な意味をも含めつつ、さらに広い射程を持つ概念であり、前述の「なさんとしてなしえなかったもの」、あるいは「かくあらんとしてありえなかったもの」に深くかかわっている。もちろんそれは道徳よりもさらに深い次元で人間存在を規制している。したがってわれわれは、「知的領分にある “そうあるべき”(deber ser)という道徳と、われわれの存在の最も深い根源的な領分にある生の命令 “そうあらねばならぬ” (tener que ser)という個別的な天命とを混同することをやめねばならない」のである。それゆえ人間にとってもっとも木質的な、その意味でもっとも苦しい闘いは、その人と世界もしくは外的運命との闘いではなく、その人と天命との闘いということになる。そこにこそその人にとっての真のドラマが成立する。かくして本格的なゲーテ論は、「存在において難破したゲーテ、存在の中で道に迷い、次の瞬間に自分がどうなるか分からないようなゲーテ、自分を “不思議な波をかぶる魔法の牡蠣” になったかのように感じるゲーテ」を描くことなのである。
しかし残念ながら、オルテガ自身はそのようなゲーテ論を残してくれなかった。そればかりでなく、彼の言う“彼岸の生“をも含む総合的な生の理説を体系化する試み自体も末完に終わってしまった。だがウナムーノの場合と違って、学問継承の起こりにくいスぺインでは稀有な現象だが、彼の思想はその弟子たちによって、きわめて実り多い形で継承されることになる。哲学の分野ではフリアン・マリアス、倫理学の分野ではアラングーレン、人間論の分野ではライン・エントラルゴといったぐあいに(17)。だが私はオルテガの “生の理説” の実り多い継承者の一人として、ここにさらにアメリコ・カストロの名を加えたい。一般に彼は、メネンデス・ピダルの流れを汲む文献学者に数えられているが、先にあげた『ゲーテを内側から求めて』の場合のように、オルテガがたんに青写真として残した “生の理説” を、歴史の中に具体的に検証した人だからである。オルテガの『ドン・キホーテをめぐる思索』(一九一四)が、彼の構想するセルバンテス論のほんの一部であり、結局は末完に終わったことは周知の事実である。彼自身その末完の運命を予期していたのか、そこに次のような言葉を書きつけていた。「セルバンテス! 一冊の書物を書いた忍耐強い郷士たるセルバンテスは、三世紀前から、仙境に腰をおろして、周囲にさびしげな視線をなげかけながら、いつか自分を理解してくれるような子孫の生まれることを待っているのだ!」アメリコ・カストロが一九二五年に発表した『セルバンテスの思想』(“El pensamiento de Cervantes”)は、このセルバンテスの期待に見事に答えた作品である。オルテガが自身のセルバンデス論を末完のままに放置したのも、このカストロの研究が世に出たからではないかと思わせるほどの名著である。私見では、カストロはこの”生の理説“を文献学の領域から歴史の領城にまで広げた人である。彼と歴史学者サンチェス・アルボルノースとの有名な論争も、その発端には専門の領野を荒らされた歴史学者のいらだちがあったとみるのはあながち私だけの深読みではなさそうだ。
それはともかく、カストロの主著は一九四八年に発表した『歴史の中のスぺイン』 (“España en su historia”)をさらに発展きせた『スペインの歴史的現実』(“La realidad histórica de España”、一九五四年)であるが、この中で彼はスぺインの社会・経済的ならびに文化的現実の形成にユダヤとイスラムの影響が決定的であると主張した。つまり三つの血統(古くからのキリスト教徒と、イスラム教やユダヤ教からの改宗者たち)の共存と衝突がスペイン史の流れを決定したと主張したのである。そして彼は黄金世紀の重要人物たちの中に、次々と新キリスト教徒すなわち改宗者の血をかぎつけていく。そう断定できないまでもその疑いをかけられた有名人の名前がしだいに増えていく。「ブルータスお前もか」というしだいである。たとえばルイス・ビーべス、フワンとアルフォンソのバルデス兄弟、フランシスコ・デ・ビトリア、フライ・ルイス・デ・レオン、マテオ・アレマン、『ラサリーリョ・デ・トルメス』の作者、セルバンテス、そして異端審問官トルケマーダ、さらには聖テレサの名前までもがこのリストに加えられる。こうした主張に対して、一九五六年、サンチェス・アルボルノースが論争をしかけ、それを受けてカストロが一九六二年、『スぺインの歴史的現実』の改訂版で激しく応酬し、かくしてこの両者を中心にスぺイン史学界は大揺れに揺れることになる。たしかにアルボルノースの反論に傾聴すべき点は多々ある。カストロはあまりに強引に改宗者、特にユダヤ系の改宗者たちの世界を前面に押し立て、いわば改宗者というフィルター一色でスぺイン史を見ているところがあるからでる。しかし乱暴なことを言うようであるが、いままであまりにも無視されてきた改宗者問題を表面に押し出し、以後スぺイン史を語るにはこの問題を無視したり避けて通ることを不可能にしたという点だけでも、カストロの業績は甚大である。それに両者の論争をたどり直してみるとき、両者の視点が最初から決定的に違っていたことに気づく。簡単に言うなら、アルボルノースにはカストロが見ていたものが見えなかったということだ。オルテガの “生の理説” を援用するなら、カストロがスぺインとその外的運命を共に包みこむ “生” を問題としていたのに対し、アルボルノースの方は潔癖なまでに歴史学者の立場を守りつつ”史実“を問題にしていたということである。
カストロにとって、だれがユダヤ人の血を引いているかどうか、は実は本質的な問題ではなかった。旧キリスト教徒、イスラム教からの改宗者、そしてユダヤ教からの改宗者、これら三者を共に巻きこんだところの血の純粋性の問題が、スペイン社会に、もっと正確にはスペイン的生そのものに与えた衝撃こそが重要なのだ。そしてこれはまことに皮肉なことだが、旧キリスト教徒,つまり十六世紀以後のスぺイン社会の体制側が自分たちの身元(アイデンティティ)の拠り所とした血の純粋性への矜持が、実はユダヤ民族から無意識裡に引き継いだものだということである(20)。近代スペインのいわば建国の父とも言うべきかリリック王フェルナンドが、ユダヤ人の血を引いていることなど、それまで問題視さえされなかったのに、いまや時代の流れは大きく変わってしまったのである。カストロがスぺインてき生は “不確かさの意識” (21)に基づいていると言っているのも、この問の事情を踏まえての主張である。自己同一性(ipseidad)が最大の問題であるような生、生きることが絶えざる自己破壊であるような生(22)、それがスぺイン内生の基調となったのだ。近代ヨーロッパ諸国の麹勢には背を向けて、測定できぬ天命に向かっての熱烈な、しかも苦悩に満ちた突進、かくあるもの、あるいはかくありうるものよりも、かくあれかしと願うものこそが主たる原動力であるような生、かくしてスぺインは郷士、神秘家、芸術家、夢想家、征服者の国となった。比較はいささか穏当さを欠くかも知れぬが、このようなカストロのスペイン史解釈は、十六世紀のラス・カサス神父の著作がそうであったように、たいていのスぺイン人歴史家にとっては不愉快ななぐりこみに見えたにちがいない。そのうちの一人アルボルノースは次のようにカストロを批判する。「……たとえわれわれがカストロに対して、彼が “ユダヤ野郎(マラーノス)” にしようとなさる作家たちのユダヤ出身説を全面的に認めたとしても、バロック時代のスペイン修徳主義(アスセティカ)ならびにスぺイン人たちの生の悲劇的感情のへブライ起源説を確証するには充分でないであろう」「ドン・キホーテは、“拙者は自分が何者であるか承知している” と言ったが……すべてのスペイン人が、自分は何者であるか、自分が何を望んでいるかを承知していた」(23)。
これらの批判の言葉を読むと、ユダヤ人問題にこだわっているのはむろアルボルノースの方だ。論争の圏外から、第三者の限で見るなら、問題はだれがユダヤ人の子孫であるかそうでないかではなく、またどれがユダヤあるいはイスラム起源のものであるかそうでないかですらなく(確かにカストロの文章にほそう誤解されても無理からぬものが多くまぎれこんではいるが)、カストロがスぺイン史解釈にオルテガの流れを汲む “生の理説” を大胆に導入した点にある。「従来の歴史研究における最大の困難、その混乱の最大の原因は、“生” の概念を導入してこなかったところから来ている。ヨーロッパ哲学(スぺインのそれも同じことだが)はいままで “生” について多くを語ってきたが、肝心なときになると、あたかもそんな概念など存在していないかのようにふるまうのがつねである」(24)。確かにカストロは歴史解釈に斬新な視点を導入した。
カストロ自身はその先達をディルタイに求めているが、私はむしろオルテガとの類縁性に注目したい。たとえば “生の住処” (morada de la vida)、“生の様式” (vividura)などの概念は、オルテガの “生の理説” と驚くほどの類縁性を持っている。さて拙諭のために予定していた紙幅がほとんど尽きようとしているのに、結局はカルメル山の登山口の一つを模索しただけに終わってしまった。しかし、スペイン神秘思想に対する私の関心が、神学的なそれでも文学的なそれでもなく、ようやく私のうちに輪郭を現わしつつあるスぺイン的生の思想に対する関心から必然的に生まれたものであるということ、その意味でウナムーノ、オルテガ、そしてカストロと神秘思想との接点を再確認する必要があったのである。今後の課題は、オルテガやカストロの “生の理説” を踏まえつつスぺイン神秘思想を内部から考察すること、たとえば私なりの『聖テレサを内部から求めて』(“Pidiendo a Santa Teresa desde dentro”)を書くことである。と言っても何も言わないに等しい空漠たる課題ではあるが、しかし具体的には、有力な手がかりの一つはやはり改宗者問題を考えていくことだと思っている。幸いなことに、ここ数年来、改宗者や異端審問に関するすぐれた論考があいついで発表されており、なかでもカロ・バロッハの諸研究は質量ともに瞠目すべき成果をあげている。
振り仰げば頂きははるか雲の上、たどる道のりを考えれば気が遠くなるが、ここまで来て引き返すわけにはいかない。こうなれば居直って、聖テレサの『霊魂の域』もカフカの『城』も共に包みこむような壮大な “生の理説” の構築を目ざして一歩を踏み出すばかり。
註
(1) 聖女が亡くなった一五八二年にちょうどグレゴリオ歴の改正があり、伝記などには十月四日生まれとなっているが、十円加媒された(あるいは省略された)十四日が聖女の祝日となった。
(2) 『ウナムーノ、オルテガ往復書簡』(A. マタイス他編、一九七四年、以文社)に訳出されているが、もともとは『哲学とは何か』第五章の一部である。
“Obras Completas de Ortega”, vol. VII, pp.341-343, 2 ed., 1964.
(3) “Obras Completas de Unamuno”, vol. I, Escelicer, 1966, pp.1160-1170.『ウナムーノ著作集・Ⅰ、スペインのへ本質』、法政大学出版局、一九七二年、二一五–二三五ぺージ。
(4) “Obras Completas de Unamuno”, vol. VII, Escelicer, 1967, pp.283-302. 『ウナムーノ著作集・3、生の悲劇的感情』、法政大学出版局・一九七五年、三三七–三七三ぺージ。
(5) “Obras Completas de Unamuno”, vol. I, pp.1085-1094.『ウナムーノ著作集・1、スぺインの本質』、一七九–一九六ぺージ。
(6) Op. Cit., p.791.『ウナムーノ著作策・1、スぺインの本質』二〇ぺージ。
(7) ウナムーノはそこで、スピノザ(スペイン系 [ポルトガル系] ユダヤ人である!) の『倫理学』第三部の第六、第七、第八、第九の四つの定理を援用する。すなわち「各々の物がその存在に固執しようとする努力は、そのものの現実的本質にほかならない。そうした努力、意図は、有限な時間ではなく、ある非限定の時問を想定している。また、精神は非限定の期間固執しようとし、しかもこの自己の努力を意識している、と。魂を焼き尽 す滅性の切望を、これ以上正確に表現することは不可能である」。
(8) フワン・デ・ロス・アンへレス(Juan de los Ángeles, 1536-1609)が『神と霊魂のあいだの霊的かつ愛に満ちた闘い』(“Lucha espiritual y amorosa entre Dios y el alma”、一六〇〇年)で述べた言葉、すなわち「我は神のため、神は我のため、しかして他に世界なし」は、正統異端を問わず、スぺイン神秘主義のすべてに共通する主調低音といえる。
(9) ビセント・マレーロなどは、オルテガの此岸性ばかりか、その世俗性を指摘し批判するが、現在ではまったくの少数意見となった。
Cfr. Vicente Marrero: “Ortega, filosofo ‘mondaaine’ ”, Ediciones Rialp, Madrid, 1961.
(10) “Obras Completas de Ortega”, vol. I, p.336. 『オルテガ著作集』第一巻、白水社、一九七〇年、長南実訳、五九ぺージ。
(11) この点に関してオランダのドミニコ会士が書いた次の本は、ひじょうに公平な見方をしている。J. H. Walgrave, op. Cit., “La filosofía de Ortega y Gasset”, ed. de Revista de Occidente, Madrid, 1965.
(12) “Obras Completas de Ortega”, vol. II, 7 ed., 1966, pp.493-496. 『現代文明の砂漠にて』、西澤龍生訳、新泉社、一九七四年、二〇一-二〇六ぺージ。
(13) 『オルデガ哲学における生の理念』、清泉女子大学紀要、第二十四号、一九七六年。『オルテガ哲学における“歴史理性”の形成と発展』、清泉女子大学紀要、第二十五号、一九七七年。
(14) “Obras Completas de Ortega”, vol. III, 6 ed., 1965, p.189. 『オルテガ著作集1』白水社、一九七〇年、二四六ページ。
(15) “Obras Completas de Ortega”, vol. IX, ed., 1965, p.650.
(16) “Obras Completas de Ortega”, vol. IV, 6 ed., 1966, pp.395-420. 『芸術の非人間化』、川口正秋訳、荒地出版社、一九六八年、一三三–一七四ぺージ。
(17) それぞれ代表的な作品を一つ挙げるとすれば次のようになる。
Julián Marías: “Introducción a la Filosofía”, 1947.
José Luia L. Aranguren: “Ética”, 1958.
Pedro Laín Entralgo: “La espera y la esperanza”, 1962.
(18) 今日、聖テレサがユダヤ人の血を引いていることを否定する人はいないが、比較的最近までこの問題は一種のタブーだっだ感がある。祖父フワン・サンチェス・デ・セぺーダはもともとトレドの住人であったが、そこの異端審問所の古文書には、一四八五年六月二十二日の日付で、「レオカルディ教区のトレド市民アロンソ・サンチェスの息子、商人フワン・サンチェスは異端審問所判事一同の面前にて、聖なるカトリック信仰に反して犯せる異端と背教の大罪を多数告白せり」とある。フワン・サンチェスの妹(聖女の祖母)は旧キリスト教徒の貴族の娘イニェス・デ・セぺーダである。
フワン・サンチェスの異端審問騒ぎは、ももろん聖女の生まれる二〇年も前の話であるが、しかし一五一九年、すなわち聖女が四歳半のとき、父アロンソ、叔父ルイ、ぺドロ、フランシスコの四人は、サンチェス・デ・セぺーダ家の貴族の身分を確認するためバリャドリードの法廷に提訴するという事件が起こる。それに対してアビラ市当局は、フワン・サンチェスのトレド生まれの息子たちを<ユダヤ系の改宗者である>と反駁するが、翌一五二〇年、裁判は勝訴し、「貴族の身分」が確認される。
Cfr. Jorge Papasogli: “Santa Teresa de Ávila”, Ediciones STVDIVM, Madrid, 1957, pp.14-16. マルセル・オクレール著、福岡カルメル会訳『神のさすらい人』、中央出版社、一九七八年、五一–五三ぺージ参照。
“Obras Completas de Santa Teresa de Jesús”, 4 ed., B. A. C., 1974, p.1.
(19) 論争の経過については次の研究に詳しい。José Luis Gómez-Martine: “Américo Castro y el origen de los españoles: historia de una polemica”, Ediciones Gredos, 1975.
(20) Cfr. Américo Castro: “La realidad historica de España”, 6 ed., Editorial Porrua, S. A., 1975, México, p.45.
本年度のノーべル文学賞を受けたエリアス・カネッティの先祖は一五世紀末にスぺインを追われてブルガリアに住みついたユダヤ人(スパニオル)だが、彼らの間に血統にまつわる誇り、尊大さがいかに強いかは驚くべきものがある。
「彼らは独自のユダヤ人を自任しており、しかもそれは彼らのスぺイン的な伝統にかかわることであった……素朴な自負をもって彼らは他のユダヤ人を見下したし……ある人間について耳にすることのできる最も誇らしい言葉は、<彼は良い家の出だ>であった」。エリアス・カネッティ『救われた舌――ある青春の物語』、岩田行一訳、法政大学出版局、一九八一年。四一九ページ参照。
(21) Op. Cit., p.[18].
(22) Op. Cit., p.78.
(23) Claudio Sanchez-Albornoz: “España, un enigma historico”, vol. 1, Editorial Sudamericana, 1956, p.558, 590.
(24) A. Castro, op. Cit., p.115.
(25) 筆者の披見しえた主だった著作をあげてみる。
“Los judíos en la España moderna y contemporanea”, Ediciones ISTMO, 3 tomos, 2 ed., 1978.
“El carnaval”, Taurus, 2 ed., 1979.
“El señor Inquisidor y otras vidas por oficio”, Alianza Editorial, 2 ed., 1970.
“Algunos mitos españoles”, Ediciones del Centro, 3 ed., 1974.
“Las formas complejas de la vida religiosa (Religión, sociedad y caracter en la España de los siglos XVI y XVII”, Akal Editor, 1978.
“Temas castizos”, Ediciones ISTMO, 1980.
本稿は清泉女子大学ラファエラ学術研究助成基金を得て行なった研究の一環である。なお、本論脱稿後に書いた「スぺイン史解釈とユダヤ人問題」(『本』、一九八二年二月号、講談社)は、本論のテーマを別の角度から補足したものであり、あわせて読んでいただければ幸いである。