大久保哲郎著『実存、時間、生成』評
本書には著者が約一〇年にわたって、さまざまな機会に発表してきた八篇の論考が収録されている。二部に分かれていて、第一部は「現代の状況における人間の生存と死」、「実存主義と〈生成〉の問題」、「人間存在と時間性の構造」の三篇より成っている。実存主義一般に暗い評者にはこの第一部を論評する資格はまったくない、とまず白状しなければならない。しかし一読してそこに脈打っている実存に対する執念のようなもの、そして著者の熱っぽい語り口には感銘した。実存主義を紹介あるいは説く書物は多いけれども、本書のように多方面にわたる文献を渉猟し、適切な引用を試みつつ、なおも著者の主体的な姿勢が一本太く貫かれている書物は少ないように思う。
以上の感想はそのまま第二部にも当てはまる。この第二部は主として、現代スぺインの思想家ミゲル・デ・ウナムーノ(一八六四–一九三六)を扱ったものだが、対象への著者の主体的関わり方という点で、第一部をはるかに上まわっている。著者大久保氏にはすでに『ウナムーノの詩と世界』(一九七四年、芸林書房)というすぐれた著書があり、そのウナムーノ研究の奥行きの探さは証明ずみだが、本書に収録されている論考に限ってみてもウナムーノに対する並々ならぬ傾倒ぶりは注目に値する。第一部に取りあげられた、たとえばヤスパース、ハイデッガー、サルトルなどに対するときとは自ずと調子を異にした、著者のいわば肉声が響いてくる。
評者はウナムーノ研究という側面でしか大久保氏を知らなかったが、第一部から推察すると、著者の表向き(表現はいささか穏当でないが)の専門は主として現代ドイツ哲学のようである。ここにも本書の独自性がある。国割りあるいはたて割りの専門研究が哲学の分野でも一般的なわが国の知的風土にあって、自分の専門領域外の、それもスぺインというヨーロッパの中でも特殊な位置を占める国の思想家を研究すること、これは考えてみれば大変なことである。氏はそれを単なるディレッタントとしてではなく、評者のように表向きも裏向き(?)も現代スぺイン哲学を専門とする者の顔色を無からしむるすぐれた研究を精力的に発表しておられる。
本書の内容に立ち入っての論評を棚上げにして、評者の私事にひきつけての感想で稿を閉じるのは何とも心苦しいが、以上がまずもって評者の率直な印象である。「地中海学会」など学際的研究の気運が高まってきている今日、著者のウナムーノ研究の意義は高く評価されなければならない。大久保氏のもう一つの専門である(ウナムーノ研究はすでに著者の立派な専門であるから)ドイツ哲学から見たウナムーノ像、つまり比較思想的視点からのウナムーノ論をさらに展開していただければ、というのが評者の手前勝手な注文である。
「日本読書新聞」
昭和五十二年六月十三日号