インゲという少女 島尾敏雄論(一)
生得的に作家としての素質を持った人間が、常人には思いもかけぬ異常な体験をしいられるとき、その文学はどのような容貌を持つのだろうか。「事実は小説より奇なり」というが、彼にとって書くという作業は、虚構の世界に想像をたくましくすることではなく、自分を圧しつけ脅迫する現実に対する激しい、あるいは陰うつな抗議となるであろう。彼にとって作品の世界はつくりあげるべき何かではなく、できれば避けて通りたいが、しかしどうしようもなく現われてくる現実の、苦しい記録ということになる。彼にとって書くということは現実をつくりあげることではなく、現実を削りとることなのである。
島尾敏雄の文学を思うとき、ぼくはどうしてもある種の不自由さを感じずにはいられない。どうしてもっと自由にはばたいてくれないのか、ともどかしく思うのである。だが同時に、ぼくが彼の文学を読んで感動するのは、実は彼のそのような不自由さ、ぎこちなさによるのではないか、とも思うのである。彼は自分が置かれている邪悪な現実から、できればのがれ出てゆきたいのに、一種宿命的な力に引きつけられて、そこから目をそらすことができない。
ぼくは今、邪悪な現実と言った。そうだ、彼にはこの現実の奥深くにひそむ悪が、どうしようもなく見えてくるのだ。作家にかぎらず、なべて人間には二つのタイプがある。この世界とどうしても折り合いをつけることができず、たえず異和感に悩まされているタイプと、この世界のしくみにしっくり歩調を合わせ、そこに何の軋轢をも感じないタイプとである。しかし、ぼくたちのまわりには、持に文学者の間には、自称「蝕まれた魂」が多すぎるようだ。二言めには、現代の非人間化を訴える。世界はゆがんでると言う。だがそれは、そう言うことによって、自分が鋭敏な才能を有し、繊細な精神を持っている「現代人」たることを、自他ともに認められたいという一種のポーズにすぎまい。
しかし、やはり世の中には、現実の底の底まであらがいようもなく見えてしまう不幸な魂があることもまた事実なのである。島屋敏雄の小説に「川流れ」という、原稿用紙にして十五枚にもならぬ短編がある。家庭の崩壊の予想におびえながらも、「性こりもなく外に出て行こう」とする「ぼく」が、その外出の電車の窓から、眼下の放水路をぽかりぽかり流れて行く人間の死体らしきものを見るという、別に筋らしき筋を持たぬ、不気味なあと味を残す小品である。
いつかむかでに噛まれたことがあったが、そのときぼくには強い戦慄があった。そこでぼくは生きていた。回想するとそんなふうに、だからやはり外に出て行くべきだなどと、あやふやな理由付けで外に出ると、すぐ今ぼくは家庭に不在だという罪悪感がうずき出す。(だが家に居ると淀みきっているくせに)そして外に出たとたんに、川を流れる人間の死体などに立ちどころにぶつかる。(一体なぜぼくだけがそれを見たのか)いやあれはどうしても人問の屍体ではない。犬の残骸であったに相違ない。時がたつと不思議にその確信が深まる。しかしへんなことだが、眼底の残像は益々人間の苦悶の(いや笑っている)顔としてはっきりしてくる。
他のだれでもなく、この自分に証人となることをせまる現実という暴力に、彼はつねにうちのめされている。見様によっては、彼のこのような不幸なめぐりあわせは、彼が自分から招き入れた不幸であって、かえってそこに作者の異様なまでに冷酷な作家魂を見るかもしれない。たとえば三島由紀夫の、島尾文学に対する評価がそうである。あるいは、寺田透のように、彼のそのような態度を「自分を流ざんのミューズの寵児とする暗黙の古風な信仰ではなかろうか」ということになるのである。
今までのところ島尾氏にとって唯一の長編である『贋学生』に次のような文章がある。
それは時代や環境が私一個にさえ影響しているのかも知れなかったし、又私の性癖もあったかも知れないが、気分の上で私は窒息しそうであった。季節も亦それの交替も見失って、ただべたべたとしめっぽく暑苦しくなって来つつあった。そして一切が淀んでいると感じた。
なぜか私は自分を自虐的に限定しようとかかった。私はだめな人間なのだということを自分に言いきかせようとしていたような気がする。
私は眼が開けていなかったし、又眼を開いていることができなくて淀みの中にひき込まれて行ったように思う。
淀み、と言っても実は我々の国は挙げて戦争の渦中にはまり込んでいた。
いかにも島尾氏らしい自己定位である。彼は現実が押しつけてくる邪悪さを、非常に感覚的に受けとめている。すべては「淀んでおり」「ただべたべたとしめっぽく暑苦しい」のである。「自分を自虐的に限定しよう」とするのも、彼にとっては一種の保身の術であって、けっして従来の私小説家に見られる自虐趣味からではないのである。「私の周囲には衰弱した頭脳で疑い深い顔付をして本心を奥のほうにしまい込まなければ具合の悪い環境が取り囲んでいる」のである(ルポルタージュ「貫井住宅」)。
島尾敏雄の戦時体験、特に彼が特攻隊々長として、文字どおり死ぬことだけを未来においた異常な体験、が彼の文学に決定的な意味を与えたということがよく言われてきた。たしかに、出撃命令が下った八月十三日を境に、彼の内心に起こった変化は、決定的であったろう。しかし、あの時代のたいていの青年たちが感じていたように、戦争が避けようもない宿命として受感された時、はたして彼だけに特有な決定的変化がありえたであろうか。彼のこの体験を、たとえばぺトラシエフスキイ事件に連座して死刑を宣告され、その執行寸前に解放されたドストエフスキイの体験と比較することは、ぼくにはどうしてもできないのである。死の呪縛からの突然の解放に対して、ドストエフスキイが《激しい憤懣の情》を感じ、島屋敏雄が《底知れぬ空しさ》を感じたのは、なんの不思議もないのである。前者は<当って砕け>たが、後者は<砕けてから当っ>たからである。
島尾敏雄の文体は、極度に感覚的である。彼ばかりでなく、彼とほぼ同じ世代に属する作家たち、たとえば安岡章太郎、吉行淳之介などおしなべて感覚的と言える。それは、彼らが、戦争という<国家の一大事>によって、自己を確立し、自己の思想を形成すべき機会を、常にそらされたからである。思想という思想が、戦争という、いねば原始の暴力といったものの前で無力であるとき、いったいどのような思想で身を固めろというのだろうか。
戦場にかり出される少し前、彼は友人である庄野潤三にさそわれて詩人の伊東静雄に会っているが、当時のことを「伊東さんからは素手で敵の中で降参しないでいる方法をおそわったような気がする」と、後年回想している。事実、彼は邪悪な現実という敵に対して正面から戦いをいどむことはせず、いわば自らの骨をはずすことによって、相手の強力なはがいじめをするりと抜けようとする。あるいは自分の意識を空中に拡散させることによって、相手の決定的な一撃をかわそうとする。「砕けて当ろう」とするのである。
島屋敏雄の姿勢といったものを説明してみたが、それは彼の文体の異様なまでに柔軟なことと、極度に感覚的なこととの説明になるからである。「文は人なり」というが、島尾敏雄ほど自分の文体に自分の体臭をしみこませている作家も珍しいのではないか。いや、体臭と言ったらじゅうぶんでない。大げさに言えば、彼の文体はすなわち彼の魂の描く軌跡なのである。彼の言う<こころの内部のことば>なのである。
文学の崩壊、小説ジャンルの解体が近年盛んに言われている。従来の伝統的なリアリズム手法では、現代をつかむことが、もはや不可能だと言うのである。極端に機械化され、非人間化された社会、もはや人類という類概念では包括しえなくなった人間、いわばモナドのように相互問の交流を断たれた無名の人間の群れ、これを描ききるには、従来の方法によりかかっていては不可能で、作者自体も解体の苦渋を味わうべきではないか、というのである。理屈としては、なるほど筋が通っている。しかし、そう言う発言者の語り口の裏に、いかにも人間くさい、充足しきった顔がチラつくのである。ほんとうに、崩壊の事実を実感したうえでの発言がどうかを、ぼくは疑うのである。足元の砂がずり落ち、つかんだと思った現実が手のひらからこぼれ落ちる恐怖を身をもって体験しているのか、どうか。
社会からの人間疎外、世界の非人間化、というが、その社会や世界もそれを見る主体によってさまざまに見えてくるのが事実なら、なぜ作家自体の内部検証をやってみないのか。崩壊しているのは、作家の内部であって、文学なんて必要としない大多数の人間は確実に大地を踏まえているのではないか、という疑念のほうになぜ恐怖しないのか。なぜ、文学によって現実をとらえうる、ということ自体を徹底的に疑ってみないのか。
昭和二十七年の作品に「兆」というのがある。「道路は乾燥し切り、砂ぼこりが厚い層になって道の上に浮き、靴に吸いついた。空の高い所では、風がうなり声をたて、あわれな金切声ように長く緒をひくのだが、たけり狂うそのエネルギーの正体をつかむことはむずかしいし、そのひょうひょうという吼え声をきくと妙に意気が阻喪した」という文章で始まり、しだいに超現実の世界に読者をひきずりこんでゆく作品である。その中で作者の分身らしき神呪巳一が、小説について口をすべらせる個所がある。
小説のようなもの、を書いているのは、全く不用意にであり、自然発生的であること、それはこうこうであり、しかじがなのだが、実は不用意で旦つ自然発生的であることは半ば意識的にやっていることで、それが私の方法なのだが、それを敵にさとられてしまっては私の方法は崩れてしまうのです。それはもう全て到る処に爆弾をしかけて置くのですが、その仕掛けてあるという外見はいうまでもなく、しかけた爆弾自身早く発見されてしまうことがあれば、私の文学は崩壊してしまうのです。気がつかれてさえいけないのですよ。しかしこれは大へんなことなんだ。そういう方法をとっている自分自身、爆弾をどこに住掛けたか分らなくなってしまうことがしょっちゅうなのですからね。但し屈伏はしません。恐らくは成功しないでしょう。その成功はしないということが、即ち私の小説の存在を主張してくれるのです。その時始めて私の小説は一個の存在となり、価値が転換して、私は認められるのです。成功不成功というようなことじゃないのです。そこでは一切のものが否定されそして肯定されるのですからね。
まったくうわごとのような巳一のことばだが、だからこそかえって真実が語られているとも言える。もっとも、ここに語られている島尾文学のいわば方法叙説なるものが、彼の作品にじゅうぶん生かされたとは言いがたい。だが、少なくとも方向だけは、かなりはっきりと指し示されている。つまり文学、はっきり言って、小説そのものの否定に立つ文学を主張しているのだ。島尾文学は、従来の小説形式への不信、というより否定、そのものから出発している。ということは、表現したい、あるいはつかみたい何かがあるのに、それを今までの手法では表現できないもどかしさ、怒り、そのものを作品化しようとしているのである。
先ほど引用した同じアンケートの中で、彼はこう語っている。
随分長い間、これでもない、という否定の感じの中で過して来た。これでもないこれでもなさそうだといつの場合も感じていたので、それを正直に表現するにしては、いつもということで私のエネルギーが堪えられなかった。…(中略)… おおむね、これでもないものを書いでいるうちにごく稀に、かちっと硬度の高い標的を射当てた感じを持つことがある。その音波は私をなぐさめて呉れる。
ここでは、巳一のことばよりもっと積極的な何かが語られている。「かちっと硬度の高い標的」が何をさすか、それは実際に彼の作品をひとつひとつ検討しなければわからないことだが、たとえば今ぼくの頭に浮かんできたのは、「ちっぽけなアヴァンチュール」(昭和二十五年)の中の一節である。これは、平凡な一人のサラリーマンが、「春先のなまぬるい、落着きのない濾過性の病原菌がいっぱい空気中に浮遊しているような、そして、少し手荒い、いけないことをしてみたいような気温」の中で、しだいに酒場の女との浮気に心が傾き、そして結局はていよくふられてしまうという他愛のない筋であるが、「私」がそのような「暗い情熱のかたまり」をもてあましながら坂道を登って行く途中、インゲという混血の少女に追いつく個所がある。
私は彼女たちに追いつきながら、インゲの亜麻色の髪の毛を私の掌でさわって見ようと思いました。それは何でもないことです。おとなが子供の頭をさすることなど何でもないことです。それなのに私は呪縛から解放される時のふるえを覚えるのです。私にとってそれは大へんな決心を必要とすることでありました。
その仕草一つによってでも、或るものを汚し又或るものを獲得する意味を私にとって持つことなのです。
しかし、「私にとって大へんな決心を必要とした」その行為も、「なーんや、けっさくや、あのおっさん」というインゲのことばに冷たくあしらわれ、「私は妙に参ってしまって、自分をひどく影薄いものに感じ」るのである。そして、作中の「私」は、だから当然に、というふうに「その日の暮れ方、学校からの帰途、私はその酒場に寄りました」と続けている。「私」はインゲという少女の中に何を見ていたのか、何を求めていたのか。島尾敏雄の作品のいくつかには、外国の少女や混血の少女に対するあこがれのようなものが描かれているが、これを単なるエクゾティズムと解することもできよう。しかし、少年時代にプロテスタントの聖書学級に通い、学生時代にロシヤの小説を読みあさった作者が、それら少女たちの中に何を見ていたかは推測にかたくない。超越的なもの、普遍的なものにあこがれながらも、しかし「とび越さないで、いこじに流れに沿って」ゆくことを選んだ彼にとって、それらが西洋という衣装をもってしか現われないことに対して、あこがれと同時に鬱屈したいきどおりを感じたのではなかろうか。この「ちっぽけなアヴァンチュール」は、いろいろと物議をかもし出した作品であるが、作者自身、後日次のように書いている。
……今言えることの一つは、私ですらこれに偏見を抱き始めた、ちっぽけなアヴァンチュールではなく、私が書きたかったのは、インゲという少女のことだつたのだと、ふと確信を持った瞬間があったということである。ただ副次的な位置でさらされていることは、滑稽であり、笑うべきことではあるが、然しそれは私の存在につながって居り私自身で背負うべきことなのである。
これを文字通りとる必要は毛頭ないが、しかし、ちっぽけな冒険になにげなくはさまれたこのエピソードが、作者にとつて大きな意味を持っていたことは、ぼくたちにも理解することができる。ああでもない、こうでもないという「《眼に見えたかたち》のままの写しとりのつみ重ねの末に、ふと現われたゆがみこそ」が作者を、そしてぼくたちを鼓舞するのである。
(「あけぼの」、一九六七年一月号)