『新カトリック大事典』(研究社)の第三巻が届いた。第一巻にウナムーノについての原稿を書いた関係上、著者割引の特典を与えられて購入を申し込んでいたものである。たぶんもう一巻で完成のはずだ。ともかく重い。書棚から出すだけで疲れてしまう。何年か前から、あまり重い本は真ん中から割って二冊にしている。今度のものは、そのぎりぎりの重さである。
「新」と命名されたのは、戦時中(一九四〇年)に刊行が始まり、一九六〇年にやっと第5巻を出して完結した冨山房版の『カトリック大事典』を意識したからであろう。今手許にないので、不確かな記憶しかないが、三木清など左翼思想家・学者たちがこれを手伝うことによって糊口を凌ぐことができた、などというエピソードは知っていたが、あまり利用したことがない。しかし当時はカトリックのみならずキリスト教一般についての知識・情報が乏しい時代であったから、これを重宝した人も多かったはずだ。
「新」と付けたもう一つの理由は、ちょうど刊行が始まったのが二十世紀から二十一世紀への転換期にさしかかっていたからであろう。それに前世紀中葉(一九六二–六五)の第二バチカン公会議以後のカトリック教会の実状をとりあえず総括する必要があったからであろう。
しかし、初代カトリック大事典が完結まで二十年かかったのは、あの世界戦争を挟んでいたから当然としても、今回のそれはまさに情報化とスピード化の時代の真っ只中の刊行なのに、完結まであと二年、合計八年というのはちと時間のかかり過ぎかな。費用、印刷の技術的な問題などなど、いろいろ遅延の理由はあるのであろう。だからケチをつけるつもりはないのだが……
いや正直に言おう。本の重さは、現代のカトリック教会の肩の上にのしかかる「重さ」でもあろう、ということである。もちろんそれは、歴史、伝統、業績などなど、良い意味での「重さ」でもある。しかし同時に、あまりにも巨大化・肥大化して二進も三進もいかなくなった「重さ」、動脈硬化、形骸化などなどから来る悪い意味での重さでもなかろうか。
世界苦を一身に集めたような深刻な顔をした教皇、聞くところによると訪問先の南米で、式の最中、過労のためか耄碌のためか椅子から転げ落ちそうになったとか。いや爺さんを笑うつもりはない。しかしティアラ(三重冠)やぶっとい指輪などはずして、根性据えて世界平和のために短い命を賭けてみては。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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