喉風邪は喉風邪なりの経過をたどるのか、悪化はしないが、どうにも気力が湧いてこない。情けないものである。幸い天気は良く、二階縁側にいると汗ばむほどである。こんなときは楽しい読書を、と思って、書棚からドレのスペイン旅行記を持ってきた。正確に言うと、ドレの友人のシャルル・ダヴィリエ男爵の『スペイン紀行』で、ドレはもっぱら版画で旅行を記録している、というすこぶる楽しい本である。一九九八年にスペイン語訳二巻本として出版された。二巻合わせて千ページを越える。もちろん購入後ただちに背革を貼られて合本になった。布製にしなかったのは、もともとの表紙が綺麗で布で隠すのは忍びなかったからである。だが風邪気味の男には少し重過ぎる。
ドレはもちろんグスターヴ・ドレ、あの『ドン・キホーテ』の挿画で世界的なファンを持つ画家である。この彼が一八六二年、すでに何回かイベリア半島を旅したことのある友人ダヴィリエ男爵に二人でスペイン旅行をしようと強引に持ちかけて実現した旅の記録である。ドレの版画はほとんど二ページごとに一枚の割りで挿入されているから、五〇〇枚近くの版画を描いたことになる。十九世中葉のスペインの風物が、あのドレ独特のしっかりした筆致で刻みこまれている。一八六二年というとすでに鉄道が走っていたらしく、三等車室に農作物や鶏らしきものまで持ち込んだ乗客たちの姿や、ときに山賊、乞食、売笑婦、市場で見かけたとびきりの美人などなど、ドレは異国の興味ある対象を次々と描いていく。
文章の方を読む気力がないままパラパラとページをめくっていくと、ちょっと気になるラテン語が目に飛び込んできた。どうも墓碑銘らしい。HIC YACET-PULVIS-CINIS-ET NIHIL. その前後の説明を読んでみると、トレドのサンタ・マリナ礼拝堂の床にはめ込まれた二メートル近くの銅版に刻まれた墓碑銘らしい。直訳すると「ここに横たわるは塵、灰、そして虚無」。恐ろしいまでの即物的表現。これを記録したダヴィリエ男爵も「唯物論者のものと言ってもおかしくないほどの、キリスト教的人間性の深みから発せられた叫び」と書いている。ポルトカレーロという十七世紀後半のトレドの大司教の墓らしい。
キリスト教に限らず、歴史の闇を生き抜いてきた宗教のしたたかな強さの謎は、虚無主義すれすれの厳しい現実直視の姿勢であろう。喉風邪ごときで弱気になってなどいられない。
(12/15)