今日は久しぶりの快晴、気温も上がって五月初旬の陽気となった。夕方、国見山の上の夕焼け空に一条の飛行機雲が掛かっていた。あれは引こうと思って引いているのか、それとも温度その他の関係で自然と引かれるのかは知らない。ともかく長閑で平和な天空を見ていると、対照的に油煙棚引くバグダッドの空に連想が走った。急いで頭から払いのけ、別のことを考える。このひんやりとした空気、なぜか寂しい夕まぐれ。そして唐突にスペイン・フランス国境の町エンダヤのホテル「ブローカ」のことを思い出した。
一九七四年、ウナムーノ論執筆の資料集めに四月六日に羽田を立ってマドリードに向かった。着いて翌日の八日から、サバティカルで彼地に滞在されていた恩師K教授と美術史研究中のO君と三人、O君所有の中古のフォルクスワーゲンでポルトガル美術行脚の旅に出発。九日、バダホスからリスボンに入って12日まで滞在し、次いでコインブラに向かう。十三日に同行二人と別れて汽車で国境を越えてサラマンカへ。かつての総長宅で今は博物館になっている家でウナムーノ関係の書籍・文献などを調べたり、ウナムーノ研究誌に掲載してもらう原稿をガルシア・ブランコ未亡人に渡したりした。
その後再びマドリードに戻って五月一日まで滞在し、その日もう一度サラマンカに戻っている。その当時まだ健在のウナムーノの長女フェリーサ夫人を訪ねるためである。そのときの写真は残っているが、彼女とどんなことを話したのか、残念ながら覚えていない。いや、いま少しだけ思い出した。ウナムーノの死の周辺について教えてもらったはずだ。つまり彼が死んだ時、書き物机の下の火鉢(brasero)で足が火傷していたことなど話してくれたのではなかったか。そして彼女との面談のあとすぐ、昼の汽車でビルバオに向かった。ビルバオではウナムーノの生家やゲルニカを訪ねたりした後、4日にはウナムーノが国外追放の身のまま故国と目と鼻の先のエンダヤで亡命の日々を託(かこ)ったホテル「ブローカ」に一泊したのである。ウナムーノが泊まったというその部屋の窓から見た夕暮の光景が今も記憶に残っている。
先ほど、唐突にエンダヤのホテルのことを思い出したと書いたが、伏線はあった。というのは、ここ数日、このエンダヤでも一部加筆した彼の不思議な作品『小説はいかにして作られるか』を読んでいたからである。この時、ウナムーノ63歳、ちょうど今の私の歳であった。
【息子追記】もう名前を明かしてもいいだろう。K教授は故・神吉敬三先生、O君とは大髙保二郎先生のことである。