ダニエル・ベリガンの『ケイトンズヴィル事件の九人』(有吉佐和子・エリザベス・ミラー共訳)を今日初めて読み通した。ずっと以前手に入れた本なのに、今まで読まなかったことが悔やまれる。ただ、人と人、人と本の出会いにはそれなりの好機というものがあるのかも知れない。今の私にこの戯曲の意味と重要性は以前よりずっとはっきり見えてくる。
これは一九六八年、メリーランド州の小さな町の兵役事務所に押しかけたベリガン兄弟ら九人が、徴兵カードを運び出してナパーム弾原料をふりかけ燃やした、という実際の事件の裁判記録をもとに、兄のダニエル・ベリガン神父が書いた戯曲である。日本では、一九七一年ブロードウェイでこの劇を見て感動した有吉がさっそく翻訳し、翌年十月七日から十六日まで、日本の主だった演劇人の協力を得て紀伊国屋ホールで上演された。その時、ベリガン神父の昔からの友人である故ラブ神父から切符を貰ったのだが、代わりに妻が観に行った。なぜ行かなかったのか記憶が飛んでいるが、興奮して帰ってきた妻が、隣りの席が有吉佐和子さんだった、と報告したことは覚えている。
実はこのあたり記憶が混乱していて、いずれ事の後先をはっきりさせたいが、ベリガン神父の評論集『ひと我らを死者と呼ぶ』(They Call Us Dead Men)を翻訳することになったのはその後のことだったか。しかし結局は印税のことで出版元のマクミラン社と日本の出版社の折り合いがつかず、以後訳稿はずっと篋底に眠ったままである。いやそんなことは差し当たってはどうでもいい。言いたかったのは、イラク問題、北朝鮮問題と、急速にキナ臭くなってきた今こそこの作品が読まれるべきだということである(ところで原作者のD. ベリガンは今どうしているのだろう?) 。
ちなみに訳者前書きの中に唐突に「そこで勇気を出して私はケイトンズヴィルへ出かけることにした」という文章が出てくる。文脈から考えると、難局打開のために可能な限りの努力をする、という意味らしい。「行く」でなく「出かける」というのがいい。つまりわれわれは、平和運動家にならないならすっかり運動から手を引いてしまうのだが、大事なのは自分のできる範囲で、飽かずしつこく意思表示を続けること、買物や郵便局に出かける感覚で現実打開のささやかな運動を継続することだからだ。
そう、私も思いついたらすぐケイトンズヴィルに出かけることにしよう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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