午後、だいぶ前に録画しておいたアンゲロプロス監督の『永遠と一日』(1998年、イタリア・フランス・ギリシャ合作)を観る。主役のブル-ノ・ガンツは、ヴィム・ベンダースの『ベルリン・天使の詩』に出ていた俳優。
不治の病に冒されたひとりの詩人の最後の一日を描いた映像詩とも言うべき作品。題名にすでに暗示されているように、過去・現在・未来という通常の時間配分が無視され、ここではすべてが現在に溶解している。あえて筋立てと言えば、闇の人身売買の現場から救い出したギリシャ系アルバニア難民の少年と詩人が夜の街を走る<運命のバス>に乗り、亡妻との懐かしい日々を思い起こしたりすることだが、しかし過去・現在・未来が溶け合っているのに、時系列にそった筋などもともと意味がない。
まず「永遠と一日」というタイトルが気になった。この言葉が映画の中で実際に使われるのは、詩人が愛妻アンナに「明日の時間の長さは?」と聞いたとき、彼女が「永遠と一日」と答えた場面だが、さすが哲学者ヘラクレイトスの国である。万物は「ある」ものではなく、反対物の対立と調和によって不断に「なる」ものであるというあの「万物流転」の哲学である。
アンゲロプロス監督自身も、1999年1月の来日記者会見でこう語っている。「この映画のはじめに子供たちが時間について話します。一人の子供が<時間がない><時間とは何か>という質問をします。そして時間についての話が始まるのですが、時間とはお爺さんの話によれば、砂浜でお手玉遊びをする子供、それが時間だ、時だと答えます。これはヘラクレイトスが時間について行なった定義です」。
実はこのシーンは見落としていた。映画を見始めたのはいいが、炎暑の中の外出から帰ってきてすぐだったから、半ば夢うつつで見ていたらしいのだ。録画だからその場面だけでも見直してもいいのだが、それはまた別の機会にとっておこう。ともかく、題名を見た瞬間、だれかギリシャの哲学者にそれと似たようなことを言った人がいたな、哲学事典か百科事典を調べなければならないかな、と思っていたのだが、ネットで記者会見の記事を見つけ出したというわけである。
しかしヘラクレイトスは、時間とは砂浜での子供のお手玉遊びなんてことを言ったのだろうか。ヘラクレイトスについては、パルメニデスが陽のもとに新しきものはなし、と主張したのに対し、その全く反対のこと、つまりすべては日々新たなり、と説いた、といった程度の浅い知識しか持っていない。ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』(加来彰俊訳)、岩波文庫全3巻が書棚に眠っている。ひとつ涼しくなったら、探し出して読んでみようか。(また始まった、守れもしない空約束)
自分の最後の日、いったい自分はどんなことを考え、どんなことを想うのか。今から予想しようにも予想しようがないことだが、できれば映画の主人公のように、いやもっと穏やかに、最後が迎えられればありがたい。そういえば、トーマス・マンの『ベニスに死す』の映画化されたもの、録画したものを持っているが、まだ見ていない。まだその時ではない? 何の時? そう神経質にならないで、これもそのうち見てみよう。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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