机の上に「主婦之友」昭和二十八年(1953年)十月特大号が載っている。当時はまだカラー写真の技術が発達していなかったのか、表紙は土井栄画伯(?)の「テニスのボールを打ち返そうとする一瞬の緊迫感を秘めた女性美」(画伯自身の説明)を表したという女性の顔の絵である。特集は「スカートとスラックス」と「結婚写真大画報」。そして別冊付録はセーター新型集となっている。
今日の午後ネットの古本屋さんから届いた。急に気が変になって昔の婦人雑誌のコレクターになったわけではない。実はこの中に一つ気になる記事が掲載されていることをひょんな偶然から、いや正確に言い直すと、「日本の古本屋」で知ったのである。「正田昭」で検索したら、「メッカ殺人事件の正田昭とその母」が載った雑誌として出ていたのだ。昭和二十八年十月号といえば、たぶん当時は毎号実際の日付より二月ぐらい前に刊行されていたから、事件が起こった日(同年七月二十七日夜)から数日も経っていないときに書かれた記事のはずだ。
といっていまさら事件そのものに興味を持ったからではない。殺人を犯したことは事実だが、そしてそのためについには死刑になった人ではあるが、私にとって彼は一人の実に才能のある文学者以外のなにものでもなかった。その記事を読もうと思ったのは、彼のお母さんのことをもっと知りたかったからである。田中澄江さんはこう書いている。
「正田さんは、なんとしても生かしておいてあげたかった。そして、あの豊かな才能を、傷ついたもの、罪に悩むもののために、地上にあって、執筆活動のなかで果たさせてあげたかった。あの穏やかな微笑を、すべての不幸な人にみせてあげたかった。
何よりも、この二十年、一日として違えることなく、毎週一度、遠いところから老躯にむち打って、悲運のわが子を訪問することが生きがいであったおかあさんが痛ましい。」
「本誌記者」による四ページにわたるその記事を読む。驚いたことに、記事はまだ正田さんが(と犯人扱いするのは嫌だが)まだ逃走中で、記者は辻堂にあった母子二人のこじんまりした家を訪ねるが、当然のことに、母親は面会謝絶。仕方なく記者は近所や母親の勤め先などを尋ね歩いて記事を書いている。
「正田ちやうさんは青森県の生れ。日本女子大を卒業後、更に二階堂女子体操学校(現在の日本女子体育短期大学)を卒業した。御主人伊三郎氏はカリフォルニヤ大学出身の弁護士で、大阪で開業していたが、四男二女を残して世を去った。昭の生後一年六ヶ月のときである。
それから正田さんの苦闘の生活だった。大阪の梅花女専、プール高女、大谷高女、燈影女学院などに体操教師として勤めながら、子供の教育に専心した」。
その子供たちも、長男は早大を出て大阪で会社員、次男は貿易商としてイタリアに出張中(皇太子殿下のイタリア訪問の際は御先導役をつとめた)、三男は東大を出て石川島造船工場に勤務、二人の娘も日本女子大を出て、それぞれ東京に嫁いだ。
末子の昭も、慶応大を出て、日本橋にある証券会社に入社したが、そのころから放蕩三昧の生活におぼれて行き、ついにはあの事件を起こしたのである。ふつうならありえない環境の中での転落である。
母親の苦衷も想像に難くない。そんな矢先、警察からも勧められて闘争中の息子宛ての録音をNHKでする。昭和二十八年といえば、私は中学二年生ころだろうか、その録音が八月五日の夜十時に電波に乗って全国に送られたそうだが記憶にない。そのときの彼女のことばが残っている。
「昭ちゃん、昭ちゃん。いまごろどこにどうしてますの。犯した罪は申訳ないことです。世間様にもいろいろ御迷惑をかけています。しかしなあ、昭ちゃん、悔い改めてください。それにはまず一日も早く自首することです、
そして悔い改めて本当に神様のお導きによって更生してください。
昭ちゃんには、母がついてます。(泣き声で)お母さんがついてます。昭ちゃんの力になりますよ。どうぞ一日も早く自首してください。そして神様のご加護を待ちましょう……」
正田さんの死刑が執行されたのは、昭和四十四年十二月九日、正田ちやうさんにとって十六年の歳月は長かったのだろうか、短かったのだろうか。そして愛する息子の死後、どのような生活を送ったのであろうか。体操の先生と知って、彼女の姿を想像しようとした。「おふくろ」という映画の、母親役の望月優子ではなく、娘役の左幸子の姿が頭に浮かんだ。確か彼女も女優になる前、東京女子体育大を卒業したと、うろ覚えに知っていたからだろうか。
ともあれ、母は強い、いや母の愛は強い。