祖父幾太郎が昭和四十年二~三月に広尾町で袖珍本を二冊購入したのは事実だが、なぜその地にいたのか疑問だと書いたところ、それを読んだ従妹から、彼女の一家が昭和三十四年から二年ほど広尾で暮らしたことがあり、時おり祖父も寄ってくれたことをメールで教えてくれた。しかしその従妹も、彼女たち一家が既に札幌に転居したあとの広尾町をなぜ祖父が訪れたのかは分からないと言う。
ところで祖母仁が書き残した手記の整理が中途で止まっており、それをまとめる過程で祖父についても書こうと思ってはいるが、とりあえず言えることは、祖父が絶えず旅の空にあった人だということである。婿入り先の家産すべてを株の失敗で失い、舅を含めて一家は十勝の開拓地に入植せざるを得なかったのだが、百姓仕事を嫌った祖父は、畑仕事を祖母と幼い子どもたちにまかせて、自分は肖像画の外交(祖父の言い草であった)の仕事で、北海道各地を飛び回っていたからである。
肖像画家は宮城県の角田町(現在は市)の人で、祖父は農家を回っては注文を取り、画家に写真などを送り、出来あがった肖像画をまた注文先に届けるということをやっていたわけだ。旅や外交が嫌いな人には辛い仕事かも知れないが、もともと外交や旅が好きだった祖父にとって、この仕事は楽しい天職だったに違いない。地吹雪渦巻く開拓小屋でまんじりともせず夜を明かしたこともあったろう祖母は、その間なにを思い、なにを呪ったことか。
だから当用日記のところどころに、「今日モ仁コズ」などの言葉を見ると、性格の合わなかったこの夫婦の積年の確執が思いやられ、一瞬どきりとさせられるのである。昭和四十二年の日記を見ると、祖父が相馬の母の家に来たのはその年の七月のようだが、祖母はその何年も前に来ていたのではないか。となると、祖父は帯広市西十一条南十三丁目の家にいたのだろうか。同居していた長男誠一郎はその二年前の十一月十三日、五十歳の若さで鬼籍に入っているから、一人で自炊生活をしていたことになる。
祖父が内地に来たのは、四十二年七月一日であり、その日の日記にはこう書かれている。
「正午五十分普通乗車札幌に下りず函館に6時着。一時間まち乗船十一時着3番ホームより乗って、指定席でないがこまなかった。仙台へ午後六時着 普通で九時過ぎ仁、千代、メグミ迎ひともにハイヤーにてかへる。」
七月四日の記述はこうだ。「御史の米穀通帳原町へキテナイか照会されたので市役所にゆく ナイ 帰りに俄か雨に遭ふ 大雨出水甚しく、電話局の東にて小溝に足をとられてズボンぬらす 二回休んできた とても出水雷雨」
そのまま原町に居つくのかと思ったら、七月の二十五日にはもう原町を去って、そのころは広尾から札幌に移っていた、先の従妹の家にちょっと寄って、急行で帯広の家に帰っている。それからあまり意味のとれぬ雑事の記録が続き、しばらく記載無しの日々が続き、そして十月十二日のところに、「仙台着」そして少し離れて、今度は赤のボールペンで「家によらず入院」と記されている。これは仙台の病院に入院したということではなく、仙台から原町までの車中で具合悪くなって、迎えに出た家の誰かに付き添われてY病院に急遽入院したということであろう。ともかく、いくら旅なれた祖父といえども、八十七歳にもなってこの強行軍では疲労甚だしかったであろう。
ここで急に思いついたのだが、従妹のメールの一部をご紹介しよう。たぶん無断で引用してと怒るかも知れないが、そこは年長の従兄に免じて許してもらおう。
「時期に関しては疑念があるものの、高齢の祖父が旅先の地で本を求めた行動には、心から納得できます。『じーちゃん』は、大きなカバンを肩から斜めにかけて、帽子をちょこんとかぶって、我が家にふらっと現れたものです。
その時の、末っ子のわたしの役割はテレビ係。相撲中継がはじまると、テレビにイヤホンをさして、ボリュームを全開にして手渡します。嬉しそうな顔をして、『ここのうちのテレビはよく聞こえるなぁ』と喜んでいたのを懐かしく思い出します。
あるとき私と姉が喧嘩。その時に、わたくしが投げた湯のみ茶碗が描く放物線を、同じ部屋で本を読んでいたじーちゃんは、眼鏡を鼻にずらしてじっくり見ていました。
その後母に、『あいつは、きついなぁ。大物になるぞ。』と言っていたとか。さっぱり大物にならず申し訳ない気持ちですが、じーちゃんも気が強い女の子を応援していたのでしょうか。
私が覚えている『ジーちゃん』は、とにかく、いつもいつも本を読んでいました。人生の苦労も生活の苦労もたくさんあったであろうに、健康の不安も死の不安も迫ってきていただろうに、高齢になってなお、知的好奇心が衰えないじいちゃんの姿は今思い出しても誇りであり、自分のルーツとして背筋が伸びる想いです。
ばーちゃんから、安藤家の運命を狂わせた存在としての側面を愚痴られたときは、どちらの味方をすることも出来ない存在として困ったことを覚えていますが、一生懸命本を読んでいた姿を思い出すにつけ、時代や家の事情その他で、自分の『人生の居場所』を間違ってしまったのかもしれないと思ったりしています。
学校から帰ると、またふらっといなくなっていて、数日で礼状が届きます。青函連絡船のうえで書くのが習慣だったのか、『津軽海峡波高し』の書き出しを印象深く覚えています。長々とごめんなさい。しばし、懐かしい幸福な気持ちにさせていただきました。」