九ヶ月患ひてのち十二月
夫はついに永久(とわ)の別れを
私たち一家が灤平での生活を始めたのは、昭和十六年の五月ごろからだから、五人全員が元気で暮したのは二年に満たない期間だったわけだ。以後引き揚げまでの残り一年半は母子家庭となった。
夫の死後 吾児ら含めて二十人
在満小学校の教師となれり
兄は三年生、姉は一年生でかあちゃん先生に習ったわけだが、学童前の私は、とうぜんみんなの後について学校に行き、教室やその近辺で遊んでいたのだろう。そのころのことも「ピカレスク自叙伝」に書いておいた。
国境の長城はるか眺めつつ
秋の一日(ひとひ)の遠足楽しむ
そのときの写真が残っている。場所は古北口のはずだ。大人はもんぺ姿の母と林校長、そして16人の生徒たちに混じって、母の側で指をくわえて情けない顔をしているのが私である。左後方に万里の長城が見える。物覚えは悪い方だが、この秋の日の遠出のことはぼんやり覚えている。
しかし昭和四十四年の秋といえば、日本軍からすれば匪賊、しかし中国側からすれば抗日パルチザンがしきりに出没していたはずだが、よく出かけたものだと不思議である。
ばっぱさんの歌を読み直して(というより正確には初めて読んで)、また新しい事実を発見した。それは次の歌からである。
朝まだき子等の手を引き鞄下げ
灤平駅に集結す
子等三人(みたり)我が意志により再びを
人々発ちし公舎に戻る
つまり町はずれの駅に一度は荷物を持って集結したが、そこで一大決心をして日本人集団から分かれて家に戻ったということだ。それは当時、朝陽にいた弟の一家と合流するためだが、その決断がよくできたものだと感心させられるのだ。ばっぱさん、すごい。少しくらい、いや大いに、手前勝手で自己中であるのも許せる。なにせ幼い子を三人連れての脱出行である。
あくる朝 トラックに乗り灤平を
警察官らと無言の別れを
すべての日本人が脱出したあと、何人かの警察官が町に残っていたものとみえる。それにしても翌朝まで、いつ暴徒に襲われるかも知れなかったわけだ。当時の記録を読むと、各地で暴徒に襲われるケースが頻発したのに、この灤平ではいっさいそんなことは起こらなかった。町の中国人が日本人に対して激しい憎悪感を持っていなかった、比較的良好な関係にあったということだろう。
それにしてもばっぱさんの英断には今更ながら感服させられる。というのは、先発した町の日本人たちは途中たいへんな目に遭ったらしいからだ。アウシュビッツに輸送されるユダヤ人たちに起こったようなことが待っていたのだ。