阿武隈高地のふもとで

新年早々のドライブに息子夫婦と孫娘と出かけた。本当は八木沢峠を越えて川俣あたりに行こうかなと思ったのだが、おそらく八木沢峠から向こうは雪が残っている可能性が高いので、今回はあきらめた。川俣には一度中学時代の同級生のN夫妻かI夫妻と行ったことがある。むかしは絹の産地として有名だったので、確かそれに関する博物館があり、実地に機織りを経験することができたと記憶している。と書きながら、わずか数年前のことなのに、そのときいっしょに行ったのがN夫妻だったかI夫妻だったか、はや記憶が曖昧になっていることに我ながら驚いている。
 ドライブに話を戻すと、結局行ったのは松川浦である。そして途中、六号線沿いにある佐々木家の墓に寄った。ずいぶん行かなかった。いつも従弟のNさんが世話をしてくれていることをいいことに、ここ数年ご無沙汰していたのだ。Nさんは佐々木姓ではない。亡くなった叔父、つまり私の父の弟が婿入り先のH家同様、実家の佐々木家の墓を守るようNさんに言い残したようなのだ。しかしNさんのところの子供たちにまでおまかせというわけには行くまい。そろそろ私の息子や孫に佐々木家の墓を大事にするよう伝えておかねばならないという事情がある。花を手向け、線香を上げてお参りした。
 そのあと松川浦に出たが、風が冷たいので。車の中で弁当を食べた。さて帰りは、遠く右側に阿武隈山系を見ながら走ることになる。いま山系という言葉を使ったが、阿武隈高地という方が普通なのかも知れない。このあたりは高いところでも五百メートルに届くか届かないかといったところで、それが紡錘形の高原状山地として宮城県の南部から茨城県北東部へ約170キロ続くわけだ。いちばん高いのは大滝根山(1,092m)と天王山(1,058m)。といってこれらの山は見たことも行ったこともないが。
 ところでいま読んでいるシュティフターとシュトルムの合本の表紙裏に、シュティフターの描いた「ワッツマン山を望むケーニッヒ湖」という風景画のカバーカットが貼られている。彼が画家でもあったということも驚きだが、そこに描かれている峻厳な自然の厳しさが印象的である。ときどき、あの阿武隈高地があのように低くなだらかな山々の連なりでなく、たとえば日本アルプスのような山々であったなら、それを毎日眺めて暮す人間の精神構造や気性もまた違ったものであったに違いないと思うことがある。
 そして長野県や富山県のように一年のほとんどが雪を頂いた高い山々を見ながら暮す人たちのことを羨ましいと思うのだが、しかし寒さや雪の厳しさは御免もうむりたいなどと矛盾している。テレビで報じられる各地の雪の被害などのニュースも、最近は、あゝ暖かいところに暮せてよかったな、などとまことに老人くさいことを考えながら見るようになっている。北海道でも旭川と一二を争う極寒の地・帯広生まれなのに、なんとも鈍(なま)ってしまったものである。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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