ミニー・ヴォートリン著『南京事件の日々』(岡田良之助/伊原陽子訳、大月書店、2006年、第3刷)がネット本屋からとどいた。南京事件に関する本はいくつか持ってはいるが、未だどれもまともには読んでいない。日中問題を考える際の一つの論点と考えて、いつか正面から向き合わなければ、と思って集めているのだが。
そんなことを言えば、他にもいくつか、いやちょっと数え切れないほどの未解決の問題を抱えたまま、いたずらに時間が過ぎてゆく。これが四十代、いや少なくとも五十代ならまだ残り時間を考えても余裕がある(あった)のであろうが、今年なんと古希を迎える(!)わが身を考えると、弁済不可能を承知で借金を重ねているようなもので……
いやいやそんな情けないことは言うまい。どこかでもう書いたような気もするが、むかし、ひょんな機会からお知り合いになった思想史家・生松敬三さんが、数年先に死ぬことが分かっていながら、奥さんと最後のドイツ旅行で何冊も本を買い求められたことを思い出す。
私たち夫婦が生活しているのは古い棟の二階だが、一階の三部屋の壁際にある本棚には未整理のままの本が並んでいる。私のサイトの貞房文庫がそれだが、さてこの文庫の取り得は何だろう。一応専門とするスペイン思想関係の本はここ十年ほどぱったり動きが止まっている、つまり購入していない。今あるものにしても研究者としては恥ずかしい数の本でしかない。
それでは島尾敏雄、埴谷雄高、小川国夫、眞鍋呉夫など、個人的にも付き合いのある、あるいはあった小説家たちの著作やら研究書はどうか。本格的な作家論を試みるための材料としては、たぶんまだまだ揃えなければならない本があるだろう。しかし幸いなことに、彼らについての資料蒐集は同じ町にある「埴谷・島尾記念文学資料館」にまかせておけばいい。
と考えていくと、将来この文庫が辛うじてその特色を発揮できるのは、旧満州関係の本ということになろうか。もっと時間があったなら、中国古典文学やら思想書から始めて現代までの中国文化を本格的に勉強したかったのだが、さすがにそれはあきらめている。ただそれでも、ウナムーノなどスペインの思想家が「近代」に向き合って考えたことを、同時代の魯迅など中国の文学者たちがどう考えたか、つき合わせてみたい、とは思っている。
さてその旧満州問題である。先ほど貞房文庫の特色といえるものにしたいとは言ったが、これとて他に自慢できる文献を揃えるなんてことは財力的にも時間的にも無理であるのは今から分かっている。残された時間の中でやらなければと思っているのは、三十四歳の若さで熱河の土となった亡父の素志を私なりに追体験するための文献だけは収蔵したり読んだりしたいということである。そしてできれば資料渉猟の過程で考えたり書いたりしたことを、少なくとも我が家の次世代に残し伝えたいと願っている。
おやおや、先日の夢に続いて、またもやできもしない夢を紡ぎ始めたよ。でもポンポンと景気よく花火でも打ち上げないことには、体力知力の衰えが目に見えて加速してきた今となっては、どうにも元気が出てこないやね。
昨夜も妻が便所でころんだりして(狭いところでどうしてあんな風にころんだのか今でも分からない)、幸い打ち身だけですんだけど、いよいよ介護にも本腰を入れなければならなくなってきた今となっては、私自身が元気を奮い起こさなくちゃやっていけないわけだ。あれっ、今日は何の話をしようとしたのだっけ? 本当は、このヴォートリンもそうだが、他にもパール・バック、スメドレーなどなど、近代中国の生みの苦しみを記録した人たちに、どうしてこう女性が多いのだろう(※)、と考えようとしたのだった。そういえばわが近代日本黎明期の優れた記録者にもイサベラ・バードさん(『日本奥地紀行』)がいたっけ。
(※パール・バックもミニー・ヴォートリンも、そしてイサベラ・バードもともにキリスト教宣教師の娘で、その意味でもキリスト教というか宗教の力は大きかった。)
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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