島尾敏雄と小川国夫という二人の作家の同質性と異質性を、アポロンとディオニソスという人間類型によって理解することもいいが(いいえ、まだ検証してませんよ)、さらに単純な比喩で理解の端緒を開くこともできよう。
つまり光と闇である。もちろんこれは思いきり単純に言えばの話であって、島尾敏雄が闇の作家、小川国夫は光の作家などと決めつけることはできない。要は程度の問題である。なぜなら光と闇は相互補完的な存在であって、その一方が無くなれば、他方も存在しなくなるからだ。つまりどちらがより強いか、より勝っているかの問題なのだ。
小川国夫の場合、光と闇は、ちょうど地中海地方の光と闇が互いに反発し合いながら、つまり画然と違いを際立たせながら共存しているのに対し、島尾敏雄の場合、光は闇の中に溶け込んでいる、つまり相互浸潤の状態にある。
そうした特徴は、いきおい登場人物の輪郭にあからさまに反映する。小川国夫の小説の登場人物は稜線をくっきりさせているのに対し、島尾敏雄の主人公たちはどこか曖昧である。もちろんこの場合の「曖昧さ」は、登場人物の性格のことではない。物と心があやめも知れない状態にある、ということである。
分かりやすい例をあげれば、『死の棘』第2章の有名な書き出しがある。
「次の日気がつくと、故障してずっと止まっていた机の上の目ざまし時計が、動いている。機械もいじらなかったし、衝撃を与えたわけでもないので、なぜ動くようになったか、わからない」。
まるで「物」が意志をもっているかのような奇妙な事態に、「心」は揺れ動くが、しかしその理由を突き止めることもなく受け入れてしまう。
そうした島尾敏雄の世界と対照的な小川国夫の世界をはっきり表している小品がある。「物と心」である。兄と弟の自分が鉄のスクラップの山から拾ってきた錆びた二本の小刀を研ぐ、という簡単な内容の短篇というより掌編である。研ぎ方を間違った自分と、いっぱしの職人のように見る見る小刀に命を与えていく兄のあいだの繊細な心の動きを捉えた佳品だが、心はあくまで心であり、物は心憎いまで(?)物である。
自ら傷つけた掌から滴り落ちる血を見て、「彼はその流れ具合をみて、これが僕の気持だ」と思うが、それは「物」と「心」が未分の状態にあるからではなく、外科医もしくは画家の冷厳な眼差しのもとに両者が峻別されているからこその冷静な観察なのだ。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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