三月三十日(水)午前十一時半 晴れ
昨夜、十和田の息子からメールがあった。それによると、ばっぱさんは一時お世話になっていた特別養護老人ホームから市内の有料老人ホームへ正式に入所でき、また息子の一家は、信者さんのご好意で平屋一戸建ちの家を無償で借り、さらに息子は夜勤専門の介護職員として雇用される運びとのこと。本音を言えば、息子の新しい仕事は、再生の第一歩としては少々ハードルが高そうだが、それこそ「死んだ気になって」頑張れ、と祈るしかない。もっと困っている沢山の避難者には本当に申し訳ないような、愛たちのエクソダスのとりあえずの結末である。
また昨夜、かつての同僚でカトリックの修道女であるGさんからメールが入った。今度の大震災で、これまで音信が途絶えていた沢山の知人・友人・教え子から連絡が入ったが、Gさんとは彼女が母国スペインに戻ってからだから、さて十五年以上経ての音信復活となろうか。
たぶんスペインから見れば、20キロ、30キロ・サークルなどまったく意味をなさず、ちっぽけで細長い東北の地は赤一色の危険地帯に見えるのだろう。大いに心配してのメールだったが、こんな折の便りにも、自分は最近、親から与えられたバスク語のファースト・ネームを正式に取り戻した(recuperar)と誇らしげである。聖イグナシオなど誇り高きバスク族の血はなおも健在である。彼女は教師時代、現皇后の美智子妃殿下に可愛がられ(?)、教え子の一人は現在の皇太子付きの女官(教育係り?)になったと記憶している。聡明な美智子妃殿下のご所望で、シスター経由でオルテガの拙訳二冊を献上したことも今では懐かしい思い出である。
さっそく、こちらの無事を伝えると、私のホームページにアクセスしたが、日本語から離れてから時間が経っているので、読むのに骨が折れる、でも彼女はスペイン語、私は日本語(ローマ字)で完全に理解し合えるので、ぜひ続けて連絡取り合いましょう、とあった。もとスペイン語の教師(専門はスペイン思想との言い逃れをいつも使っている)がスペイン語を書かないのは、この非常時をさらに言い訳に加えてもなお面目無い話ではある。
さて今朝の例の数値は、午前十一時現在0.94と低いままである。そして先ほど西内君に電話したところ、営業を再開した肉屋さんや野菜市場がさらに増え、市民の八割は町に戻っているのでは、と言う。こうなれば、願うのはただ一つ、一刻も早い事故現場完全解決である。頼むでー、しっかり!
とは言いましたが、この期に及んでもなお日本郵便、クロネコ、飛脚はまるで示し合わせたように30キロメートルというあの呪いの輪から中に入ろうとしないままです。すみません、彼らへの攻勢引き続きお願いいたします!