一ヶ月ぶりの散歩

四月七日(籠城二十八日目)晴れ

 震災前までは毎日午後二時半ごろ、美子を車に乗せ、先ず夜の森公園で散歩、その後ばっぱさんのグループホーム訪問が日課だったが、もう一月あまり、その日課を中断したままだった。なんとも癪な話である。今日の放射線値は低いまま、少々生温かい風が吹いているが絶好の散歩日和。今日こそ日課再開第一日目にしよう。
 公園に行く前、もしやどこか薬屋さんが店を開いていないか、と先ず駅通りに出て左折し、次いで旧国道を鹿島方面に向かった。なーんて大きな町のように書いたが、なんのことはない、東西に走る駅通りと、それと直角に交わって南北に走る旧国道、つまりTのかたちをした大きな二つの通りが文字通りこの町のメイン・ストリートというごくごくこじんまりとした地方都市に過ぎない。で、その旧国道を北に走ると、すぐ右側に開いてる薬屋さんがあるではないか。しかも探していたセロナ軟膏もちゃんと置いてあった。ありがたい!
 店員さんと一人の先客と、まるで無人島に生き残った者同士のような妙な連帯感を感じながら、ここ数日のことを話し合った。店は四月に入ってから開いたそうだ。そして店を出てすぐのところにある常陽銀行にも寄ってみた。昨日、相馬に行った折、別の銀行のATMを使って当座のお金を引き出したのだが、近くに居た人の話だと、ここも四月に入ってから、銀行そのものは開いてないがATMは使えるようになったそうだ。これでひとまず安心。
 それから夜の森公園に向かう。駐車場に二台ほど自衛隊のトラックが停まっていて、数人の隊員が所在無さそうに近くにいた。美子の手を引いてなだらかな坂を登っていく。震災前、心持ち体を右斜めに傾げ、歩行もなんとなく覚束なかったが、今日はゆっくり歩く分には、以前とそう変わりはない。ロータリーのところで、住まいは小高だったが今は近くの実家の世話になっている、という三十代(すみません、私、女性の年齢を正しく読めません)の主婦としばらく立ち話をする。震災がなかったら、こんな形で見ず知らずの人と話し合うこともなかったはずだが、彼女の話を聞くと、先日書き込みをしてくれた松崎さんとほぼ同じ体験をした人のようだ。
 そこに被害状況を見に来たという二人の若い自衛官が加わった。「お兄さんたちはどこから来たの?」と聞くと、千葉からだと言う。ここが事故以後ずっと低い放射線値しか示さない地域だと知ってますか、と聞くと、知ってはいるが、事態が悪化した場合には市民の避難を助ける任務で駐屯している、と言う。それで例の冗談を彼らにも言ってみる。私は自分からは避難するつもりはないが、いざというときにはたくましいお兄ちゃんたちの肩に負ぶさってヘリコプターで運んでもらうよ、と。すると人の良さそうなお兄ちゃん、いいですよ、と頼もしいお返事。
 ところで先日来、足立教授が教えてくれたことを何度も反芻している。今回、南相馬に限らず、30キロ圏内の病院や施設から多数の病人や老人たちが、各地の病院や施設に搬送されたが、それが正しい判断だったかどうかという問題である。たとえば足立教授の言うように、放射線を被曝することによって、たとえばガンを発症する危険があるとしても、それは何十年も先のこと、しかも発症の確率はごく低いとしたら、教授の言うように病人や老人を避難させることによって起きる実害の方が比較にならないほど大きかったのではないか。いや、まだその統計は出ていないが、彼らを移動させたことによって既に何十人、そして最終的には間違いなく3桁の人が亡くなられたはずだ。なんと愚かで軽率な判断を下したことか。今後、しっかり検証されなければなるまい。
 うちのばっぱさんが十和田に行くことに賛成し、そしてそれを喜んだのは、愛する長男のもとに行けるから、しかも愛する曾孫がいっしょだったからであって、たとえ南相馬のわが家で医者が居なくて死ぬようなことがあったとしても、自分の建てた家で、愛する家族に看取られて死ぬのであれば、まさに大往生、まさに御の字、おつりが来て余りあった。いや本人に確かめたわけではないが、きっとそう思っていたに違いない。
 そのばっぱさん、長旅の疲れで元気を失くしていたが、今は少しずつ持ち直してきたらしい。でも各地の避難所で、なにがなにやら分からないうちに連れてこられた沢山の高齢者たちのことを思うと、ほんとやりきれない悲しさ、無念さ、そして底知れぬ怒りを覚えてたまらない気持ちになる。彼らの、一日、いや一時間でも早いわが家への帰還を願ってやまない。おい、聞いているのか、政府の要人、東電のお偉いさん方、そして不安院の面々よ!(もちろん聞いてないさ。だからなお悔しい!)

☆今晩七時現在の南相馬市の例の数値 0.75マイクロシーベルト/時

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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