搦め手から

中国関係で気になっている思想家に竹内好がいる。中国に対して特別な思いをまだ持っていないときに、彼はただ武田泰淳や埴谷雄高の周辺にときおり姿を見せる人に過ぎなかった。ちょっと記憶に残っていることと言えば、確か彼が「大学教授の給料では食っていけない」というような意味のセリフを吐いてフリーの評論家になったときのことくらいである。
 最近、彼の著作を集め始めてはいたが、そのうちのどれもまだまともに読まないできた。ところが先日ネットの古本屋から届いた『中国を知るために』という三巻本をぱらぱらめくっているうち、そろそろ本格的に読まなければ、とやっと思い始めたのである。雑誌『中国』に数年にわたって気楽に書き綴ったものらしい。
 いま気楽に、と言ったが、最初の数編(全部で100編近くの文章より成っている)を読むうち、彼が初めから意図的に、また明確な見通しの下にこれらの文章を綴ったのではないにしても、結果的に実に適切なスタイルを選んだものだと感心した。中国というとてつもなく大きく、どこから攻めていったらよいか途方にくれる相手に対しては、オルテガ流の言い草を借りれば、ちょうどイェリコ攻略のときの戦法しかないのでは、と思うからである。つまり獲物を狙う鷹のように空中に大きく孤を描きながら徐々に包囲網を狭めていくか、あるいは正面突破ではなく搦め手から、ねちっこく、ゲリラ戦法で攻めていくしかないのだ。
 ところで人を知る、思想を知る、そのいずれの場合でも、その「知る」という行為には段階があるはずである。たとえばこの『続モノディアロゴス』の文章でも、書き始めから書き終わるまで、たとえそれが数十分、ときに数時間であれ、調べたり確かめたりしながら、より確かな知識や見解に育っていく。普通は結果重視で、その過程にまで注意しないが、しかし本当はその一つひとつの段階から次の段階に移行する経過が重要なのである。
 つまりまだその対象に関してほとんど無知の段階での知見は多くの場合誤認であったり偏見であったりするが、しかし時にはそれなりの意味を持っていることもあるのである。
 それで今回の竹内好との出会いも、現時点で私の中にある竹内好像に何ひとつ加えることも隠すこともないままに、とりあえずなぞってみようと思うのである。あっ、今日はこの辺でもう紙幅が無くなってしまいました。明日続けます。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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