教壇を離れて二年以上経ち、人前で話す機会もなく、またヘルペスで高熱を出したあと物忘れがひどくなっているので、ちょっと無理かな、と思いながら、会場まで妻を送ってから小高の「島尾敏雄を読む会」の方に向かった。今日は欠席者が多かったが、めげないで「ちっぽけなアヴァンチュール」の読みを続ける。というより私の島尾論の中心テーマの「生の構造」という聞きなれない言葉の意味をなんとか解きほぐして伝えようとして、どんどん深みにはまってるな、と思いながら話を続けた。幸い終了前に、聴講生から質問が出たり、感想が述べられたりして、なんとか今日も無事終了。哲学的なテーマをいかにわかりやすく伝えるか、これはなかなか難しいことだと改めて思った。これからこういう機会があると思うので、もう少し勉強しなければなるまい。
帰ってみると妻はすでに帰宅していた。会場から家までかなりの距離なのに歩いて帰ってきたそうだ。なんとなく元気がないので、聞いてみると、会場設定その他の下働きはみんなと楽しくできたが、肝心の通訳のときになって、演台に立ったとたん頭の中が真っ白になって、言葉が飛んでしまったそうだ。インターナショナル・スクールに勤めて、それなりに通訳の経験もあるからと安心していたが、パニクってしまって言葉が出てこなかったようだ。たぶん司会者がうまく事態を収拾したのであろう。
依頼主のY. Wさんにさっそく電話を入れて、お役に立てなかったことを謝った。29日のファイナル・パーティーもこんなことでは無理なので、とお断りした。ベテラン舞台俳優だって、一瞬頭の中が真っ白になることがあるんだから、気落ちしないで、明日からリハビリしよう、と慰めているが、やはり本人にしてみればよほどのショックだったようだ。自信が無い、というのを無理に送りこんだようなところがあり、可哀想なことをした、と反省している。この失敗に懲りていよいよ自信をなくしてしまわないよう、明日からのリハビリにも付き合うつもり。
実はこんなこと日録に書いていいかい、と妻に言うと、いいというので書いておく。つまり隠さないで、元気にこの難局に立ち向かうということ。老いやぼけなんかに負けるものか、ということである。
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※本文中の太字、朱書き、アンダーライン、マーカー等の処理はすべて、死後、息子によって為されたものです。
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