風の盆

朝鮮語版の出版作業が大詰めにきたようだ。昨夜、訳者のヒョン・ジニさんから、眞鍋呉夫さんの句の翻訳部分の最終的な推敲をしているところだが、念のため私の解釈を聞かせて欲しいとのメールが入った。確かに俳句を外国語に翻訳するのは、考えてみるまでもなく至難の技である。彼女なりに解釈したのであろうが、佐々木の解釈をヒントに、いま一度訳文を検討したいというのは良く分かる。といって、日本人の私にもいざ解釈するとなると…うむっ、やはり至難の業である。でもここは何とか、苦し紛れでもいい、一応の解釈を披瀝せねばなるまい。以下、その模範(?!)答案である。

 
  棺負うたままで尿(しと)する吹雪かな

 韓国でも今はすべて葬儀会社が請け負うでしょうが、そう遠くないむかし、特に田舎では、死者が出ると身内の誰かが棺を負って墓場まで運びました。このときは折悪しく吹雪の日。墓場までの長い道のりの途中、生理の必然、それに寒さも手伝って、便意を催しましたが、棺を下ろして小便をする余裕がありません。だから背負ったまま、かじかんだ手で雪の中に放尿しているという光景を頭に描いてください。死と生のぎりぎりの、壮絶なせめぎ合いを描いた凄い句です。文中に書いた通り、まさに黒澤明の「用心棒」という映画の一シーンのようです。


  塩酸の壜で火の玉飼う少女

 これは一転して、とても幻想的というか、もちろん「火の玉」つまり死者の魂など飼えるわけがありません。もしかすると死んだ恋人の魂を、未練がましくいつまでも手元に置いておきたいという少女の願望の表現かも知れません。あるいはもしかして、少女は自分を裏切ったその男を塩酸で殺したのかも知れません(ちょっと無理か)。ともあれすべては謎めいています。とにかく激しい女の情念を描きたかったのでしょう


  唇(くち)吸へば花は光を曳いて堕ち

 明らかに接吻の情景を描いています。昔の日本人は接吻のことを唇(くち)を吸うと表現しました。そのあまりの甘美さゆえに、まるで蜜蜂が花から蜜を吸っているようだ。もっと物理的(?)に解釈すると、接吻の際に唾液がまるで蜜のように光りながら滴り落ちたのかも知れません。官能的で、しかもある意味で退廃的な句です。私など(?)とても書けない世界です。


  死んだ子のはしゃぐ声して風の盆

 この場合の風は特に意味があるわけではないと思います。しかし強いて解釈すれば、風はまるで死者の魂を運ぶもの、あるいは死者の魂そのものかも知れません。なにか懐かしいような、儚(はか)ないような、死者と生者の境界線が消えたような夢幻の世界を見事に描いていると思います。私は以上の句の中でいちばん好きな句です。


 さて以上が私の貧しい解釈です。あとはヒョン・ジニさんご自由に膨らませてください。取り急ぎお返事まで。もう少しですね、頑張って!!!
 というような返事を差し上げたのだが、しかし最後の句の「風の盆」については自信がない。つまり「風の盆」を固有名詞として解釈することも可能だからだ。漠然と思い出したのはどこかの祭りの名前である。急いで検索して分かったのは、越中・八尾の祭りである。説明はこうなっている。

 立山連峰を越えて日本海から吹く風は<ダシ>と呼ばれ、地域の植生や稲作業にさまざまな弊害をもたらしました。このため、富山の山間の地方では、風神を祀り風よけを祈願する<風の宮>などのお宮や祠が建てられました。
 <風の盆>が踊られる新暦9月1日という時期は、この<風>と深くかかわります。
 9月1日は、もともと旧暦の八月朔日(ついたち)に由来する日程です。この時期がちょうど台風のシーズンと重なるため、昔から農業の暦では旧暦八月朔日の時期には<八朔(はっさく)>、<二百十日>など特別な名前が与えられ、全国的に風の厄日とされていました。<おわら風の盆>は、この風を鎮めることを祈る踊りとされているのです。
 ところで9月なのに<盆>というのはなぜでしょうか。
 八尾町おわら資料館のガイドの方のご説明によると、かつて<盆>という言葉は旧暦7月15日のいわゆる<盂蘭盆会>だけではなく、何らかの節目の日一般を表すという使い方があり、これが八朔にも用いられるようになったのではないかとのことです。

おわら風の盆:由来

 なるほど。しかし私には、眞鍋さんはこの祭りを特に意識して作ったとは思われない。死者の魂が帰ってくる盂蘭盆を詠った句だと思うからだ。「風の盆」は、たとえば「霧の朝」と言う場合と同じ表現法である、と。つまりときおりの生温かい風に乗って、死んだ子の声が聞こえてくるよ、と解釈する。だからいたずらに混乱させては、とこの祭りのことはヒョン・ジニさんには知らせないでおこうと思う。
 とかく俳句の解釈は難しい。

女ではなく少女となっているので、後者の解釈はちと無理かも知れない。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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