イスラエル軍兵士たちの祈り

昨日のテレビのニュース画面に、ガザ地区に侵攻したイスラエル軍兵士が数人、戦闘の合間に立ったまま祈祷書らしきものを開いて祈っている様子が映し出された。今までだったら何とも思わず、もしかすると彼らの信仰の篤さに感心しただけかも知れない場面だが、今では、たぶん原発事故以後からだと思うが、見るに堪えなくなった、というかむしろ怒りさえ覚える。おいおい何を祈ってるんだい?、どうか戦闘が一日でも早く終わって、無事に家族の元に帰れますように、と祈ってるならまだしも、憎きパレスチナ人どもに鉄槌を下し給わんことを! と祈ってるんだろうな。片やパレスチナ陣営でも同じ光景が見られるんでしょう。ってことは、要するにさまざまな政治的要因がからんでいるとはいえ、根柢は歴史上絶えず繰り返されてきた相も変らぬ宗教戦争である。ヤーウェの民とアッラーの民の血で血を洗う殺戮合戦。
 別々の神同士の戦いばかりか、同じ神を信じるもの同士の争いもある。近親憎悪だから更に残酷かも知れない。1572年8月24日、かの聖バーソロミュー [祝日の] 大虐殺では、パリ市内でカトリック教徒によってユグノー派信者が大量虐殺されたが、その「朗報」を聞いて時のローマ教皇は感謝のミサを挙げ、高らかに「テ・デウム(神よ、あなたを称えます)」を歌ったとか。そんな恥ずかしい歴史を、歴代の教皇たちは、篤信のキリスト教徒たちは、どう思ってるんでしょうかね。もしかして公式に謝罪(懺悔?)したんだったらごめんなさい。でもそんな昔のことでなくとも、現代にあっても北アイルランドでの新旧両キリスト教徒の争いは今は下火になっているだけで、まだくすぶり続けているんでがしょう?
 ということは、彼らの信じる神自身がおかしいのか、それとも信仰の仕方が間違っているのか、そのどちらか以外にはありえないでしょう。これはどう考えても後者、すなわち彼らの信仰のあり様が間違っている、つまり彼らが神の教えを間違って解釈しているとしか思えない。(と一応は言ってみたが、異教徒に対する戦いを正当化する教えもありそうで、そうだとすると……ともかく核の時代にあっては自衛のための戦争も決して許されない、というのが貞房氏の信念であり覚悟である)
 キリスト教国出身のプロ・ボクサーがゴングが鳴ってリングの中央に出て行く前に十字を切る場面でいつも考えさせられる、おいおい、今何を祈ってるんだい?、相手ボクサーを完膚なきまでに叩きのめすことが出来ますようにってか? だとするとお前さん、そりゃー少しおかしくないですか? そんな祈り聞き入れてもらえるんすか? まあ許される祈りっていえば、「どうか神様、これからちょっくら相手をぶんなぐるなんてことしますが、どうかしばらく眼をつむってておくんなせえ。この試合をすることによって、おっかあと可愛いガキたちを食べさせることが出来ますんで、はい」ってとこかな?
 今度の教皇フランシスコは、そんな意味でなかなかまともです。世界最大宗教の頂点に立っている人の責務、唯一の存在理由は、組織の維持・発展ではなく、世界平和のために粉骨砕身することですから。今月28日付けの朝日新聞によれば、マフィアとの癒着や聖職者の性虐待にもメスを入れるらしい。バチカン銀行の問題にしろ、今までそうした数々の腐敗に対するローマ教皇庁の手ぬるさは弁解の余地が無いところまで来ていた。教皇庁内の守旧派の反撃やマフィアの暗殺などに注意しながら、これからも頑張って欲しい。もちろん原発事故被災者として心から願うのは、世界のすべての原発廃炉に向けての力強い後押しである。とりわけカトリック信徒の多いフランスなどにぜひ圧力をかけてもらいたい。
 日本のカトリック教徒の中には、教会が脱原発の姿勢を強めることに対して、それは政治的でけしからんと言う人がいるらしい。おかしな話である。これは究極的には政治やイデオロギ-の問題と違いまっせ、「いのち」の問題ですぞ。つまりは宗教の根幹に関わる問題です。原発の恩恵をこれまでどおり享受しつつ、快適で便利な生活を維持できますように、との姿勢こそが政治的であることを忘れなさんな。おっと、そんなはぐれキリシタンの意見を聞く耳など持たぬ、というのですか。でもはぐれてはいますが、教会の外から、横から(?)あなた方と共闘したい、忠実な友でありたい、と心から願ってるんですがね。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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