ばっぱさんの遺志(その二)

昨夜に続ける。知事とめでたく会談したかどうかその顛末はばっぱさんから聞いてなかったが、その残留孤児・婦人支援に関するばっぱさんの構想は結局は頓挫したようだ。しかしその当時のばっぱさんの名刺の肩書きにそれに関する一項が書かれていたはずだから、世話人としては続けて活動していたのではないか。
 ともあれ、単刀直入に言えば、ばっぱさんはその山元町の私有地(二区画・計134坪)をそれに関係する施設建設のために提供しようとしていたのである。ところが仙台方面に向かう海岸沿いの国道左手の高台にあるその土地は、実は今も、当初からも、私名義の土地なのだ。つまりその土地購入のためにローン契約をしようにも定年を迎えたばっぱさんには資格無し、そして頼みの兄は聖職についているというので、契約者としてその頃東京に住んでいた私に白羽の矢が当たったわけだ。しかも月々の返済金も私が引き受けた。
 その頃、東京で相変わらず貧乏暮らしをしていた私には、もちろんそうとうきついノルマだったが、孝行息子(?)の義務と観念した。確か新宿の德陽相互銀行とかというのがローン支払いの相手先ではなかったか。
 実はばっぱさん、他にも、退職金をはたいてそのころはまだあった無線塔下の土地を購入したので、山元町の土地購入の資金がなかったのであろう。後にその土地が思ったより高額に売れたとかで、現在私たちが住んでいる家屋の新棟部分の建設にそれを充当した。もちろんその何十年か前に旧棟部分を作ったわけだから、ばっぱさん、女手一つで二度も家屋新築という、並みの男以上の大事業(?)をこなしたわけだ。
 出来合いの家屋やワンルームマンションを購入したことはあるが、土地購入から家屋新築までを二回も手がけたばっぱさんのエネルギーは、とてもじゃないが私にはない。
 ところでその山元町の土地だが、ちょっと記憶が飛んでいつからか確かめようがないが、最後の数年間、兄が返済金を支払った。つまりばっぱさんには将来とも帰郷する意志のない次男坊をあきらめて、兄の住む仙台近くのその土地に家を建てて老後を過ごす心積もりになったようだ。ということは、1999年時点では、それもあきらめ、原町に死ぬまで落着こうとしたのだろう。それで宙に浮いたその土地を、もっと有意義なことに使おうとしたわけだ。
 そのことについて所有名義者の私の同意を得たかどうか、これまた記憶が薄れているが、たぶん親不孝息子の最後の孝行として黙認したのではなかったか。
 いやいやちっぽけな不動産をめぐっての、親子のやりとりを縷々述べるのが本項の目的ではない。実は最近身辺いろいろなことが起こり、しかももうすぐで75歳になるという我が身の来し方行く末をつらつら考えていたところ、ふとこのばっぱさんの手紙を思い出したのだ。
 それとともに、ばっぱさんのことをいろいろ考えた。2002年に私たち夫婦が突然故郷に戻り、ばっぱさんとの同居を始めたとき、ばっぱさんはさぞかし喜んだことだろう。しかし数年を経ずして、美子の認知症の兆しのこともあって、おり良く近所に出来たグループ・ホームに入所させた。そこを我が家の「離れ」と思って我慢してくれ、と。事実、美子を連れて雨の日も風の日も大震災の前日まで毎日ばっぱさん訪問を続けたが、もちろんばっぱさんは自分の建てた家に住み続けたかったはずだ。
 そして数年後に、今度は東日本大震災・原発事故に見舞われ、ばっぱさんは遠い十和田で最後を迎えなければならなかったわけで、さぞかし無念であったろう。美子が認知症でなかったら、十和田に連れて行くという兄の好意も断って、我が家で最後まで暮らさせたかったのだが。そうすればばっぱさんの希望通り、百歳は優に超えたはず。
 過ぎたことは過ぎたこと、今さらグチを言っても始まらない。さてここからが本題である。つまりばっぱさんへのせめてもの親孝行として、ばっぱさんの遺志をなんとか生かせないものかと考え始めたのである。あの土地をそのまま使うのではなく、もし売却できれば、その代金をばっぱさんの構想をもう少し発展させた形で使ったらどうか、と。
 そう、例の「三+(プラス)一語学院(塾)」という文字通りの妄想のことである。つまりソウル大・統一平和研究所宛てのメッセージに書いた中国語・朝鮮語・日本語の三ヶ国語学院にスペイン語を加えた語学塾である。その最終的な狙いは、いつかその研究成果を、マダリアーガが『情熱の構造ーーイギリス人・フランス人・スペイン人』でやったように、『日本人(島国)・中国人(大陸)・朝鮮人(半島)』として結実させること、こうしてこの三つの隣国同士の、真の相互理解に資することである。前述したようにこれはまったくの妄想であったが、先日、関西に住む先輩N.S氏からこう問いかけられて慌てた。「志や壮とすべし。されど借問す。夫子(ふうし)、果して成算ありや」。続けて、大事業にはスポンサーが必要だが、その有力(?)候補としては災害直後の東北の被災地をエコロジーの一大基地にするという大構想をぶち上げた孫正義しかないだろう、とまでおっしゃってくださったのである。
 実にありがたい応援である。しかし研究所宛てのメッセージにも書いたとおり、現実的な成算などまったく度外視した私の夢物語だった。ところが先日来ばっぱさんがらみで考えてきたことによって、ここに来てわずかながら現実味を帯び始めたというわけだ。
 どうです、どなたかあの土地を買ってくれませんか。先ほども言いましたようにあの大津波にも被害が及ばなかった国道沿いの高台に位置し、すぐ側に太平洋の海原が見晴るかせ、仙台や空港にも至近距離にある土地ですよ。
 なーんて言ったが、たとえ売却できてもその後の展開などまったく考えていない。と言うより、私は最初の構想と、わずかながらの資金調達以外、実務的なことは美子の介護もあって将来とも一切できません。少しでも事態が動き出しそうなときは、いつもの通りに西内さんかどなたかにすべておまかせするしかありません。
 でも瓢箪から駒のたとえもあり、言うだけは言っておこうと、笑われること(憫笑です)を覚悟でここまで書いてしまったわけだ。これはばっぱさんの超楽天主義のDNAを僅少ながら持ち合わせている私の悪い癖ですが、残り少ない人生、それくらいの夢を持ちたいといま真剣に考えています。もちろんそのためには十和田の兄神父の承諾を得なければなりませんが、ばっぱさんの遺志実現のためなら快く許してくれるでしょう。
 瓢箪から駒の喩えを出したついで、最後にもう一回瓢箪を振っておきます。どなたか孫正義氏をご存知の方がいらっしゃいませんか? おいでになりましたら、南相馬に変な構想を持っている男がいますので一度接触してみませんか、とお伝えください。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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