先日読み終わった安岡章太郎さんと近藤啓太郎さん(さん呼ばわりは安岡さんだけにすべきだが、今回は公平?に)の『齢八十いまなお勉強』は最後まで面白かった。それに味をしめて、以来いくつか類書を探し求めた。たとえば鶴見俊輔編の『老いの生きかた』(ちくま文庫)やマルコム・カウリーの『八十路から眺めれば』(小笠原豊樹訳、草思社)だが、身につまされるところがあって、それぞれが実に面白い。老人物(?)は気がつかないうちにすでに一つのジャンルになっていた。
老年学(gerontology)なんて学問分野があり、なんとわが国の桜美林大学には老年学研究科なんてものが存在することも今回初めて知った。ギリシャ語のゲロン(老人)から作った言葉らしいが、でもそんな学問に興味も無いし深入りするつもりもない。ただ先輩老人たちがどのように老いを生きたか、それを知りたいだけである。
上に挙げたマルコム・カウリーという名前、どこかで聞いた名前だな、と調べてみるとやはりアメリカの著名な文芸評論家だった。フォークナーなどロスト・ジェネレーション評価に功績のあった人だ。それはともかくこの『八十路から眺めれば』を読んでいって、あっと発見したことがある。いや発見なんて大袈裟なものではないが、安岡さんたちの本のタイトルが我が(?)ゴヤの素描の題であったことだ。カウリーの言葉を引用する。
「(ゴヤは)七十八歳の年にはスペインの恐怖政治から逃れて、ボルドーへ赴く。その頃はもう耳は聞こえず、目も衰えていたので、仕事のときはいくつもの眼鏡を重ねて掛け、拡大鏡まで使用した。だが生み出されたものは全く新しい画風による傑作のかずかずである。八十歳の年には、二本の杖をつき、白い髪と髭に顔を覆われた老人を描いて、その絵の片隅に【まだ勉強中】と書き込んだ。」
さっそく恩師・神吉敬三先生の『ゴヤの世界』(講談社・原色写真文庫)を見てみると、原題は Aun aprendo(まだ学んでいる)で、この絵の制作年代はゴヤの死の年、すなわち1828年となっている。つまり82歳のときである。それはともかく、80歳のときの彼のもう一つの言葉、「一切のものが私には不足していますが、意志だけはあり余っております」は、スペイン人の魂の原型とも言うべきあのドン・キホーテの言葉と見事に重なる。
そして今日、我が家の本棚の片隅から(たぶん息子が買ったものか)もう一つ素晴らしい本を見つけ出した。パブロ・カザルスの言行録『鳥の歌』(J. R. ウェッバー編、池田香代子訳、筑摩書房)である。先日、アマゾンで見つけて購入したCD(鳥の歌――ホワイトハウス・コンサート)を聴きながら読んでいくうち、彼が年齢について語ったこんな言葉が目に入った。
「たぶん私は世界一高齢の音楽家でしょう。たしかに私は年寄りです。でもおおくの点では若者です。皆さんもそうであってほしいものです! 生きているかぎり若者でいること、本当のことを世界に向かっていうこと、やさしさと愛、それこそがあるべき世界です。愛しましょう、愛と平和をもたらしましょう」(1973年6月、セントラル・パークでのコンサートで会場を埋めつくした聴衆に贈ったカザルス九十七歳のメッセージ。死の四か月前だった。)
「歳をとるのも芸のうちだ。そう思わないか?」とカザルスは、六十九歳になってひどい鬱状態におちいっていたウジェーヌ・イザイ【ベルギーのバイオリニスト・指揮者】に宛てて書いた。
余談だがこのカザルスの高弟ガスパル・カサドの夫人・原智惠子の署名・献辞(フランス語)入りの本『ジプシーの歴史と風習』という風格ある美しい装丁の古書が我が家にある。もちろん献辞は私宛てではなく、我が敬愛する先輩西澤龍生先生宛てのもの。つまり先生の奥様が原智惠子の愛弟子であった関係で先生が頂いたものを、震災後のお見舞いを兼ねて不肖この私に下さったのである。この陋屋で人知れず朽ち果てては先生のご好意を無駄にする、と半分は自慢がてらここに明記しておく。