夫婦の居間と応接間兼書庫(両方とも震災前頑丈なフローリングにしていたので車椅子で通行可能)とのあいだの襖はばっぱさんの時代そのまま、古ぼけて薄汚い襖だが面倒なので張り替えないでいる。いや今ではむしろ張り替えまいと思っている。張り替えたりなどするとばっぱさんが遠くに行ってしまうような気がするからだ。古いなりに朽ち果てるまでこのままにしておきたい。
ヨーロッパの家などそのほとんどが石やレンガ造りだから、ときおりペンキを塗り替えたり壁紙を張り替えるだけで何代も受け継がれる。紙と木でできた日本の家だって、むかしは何代にもわたって住み継がれていたはずだが、いつからだろう建て替えと称して一切を壊してしまう悪習が生まれたのは。
家だけでなく町並みもそうだ。これを「更地の思想」なんて言ったことがあるが、これはやはりおかしいことではなかろうか。古いままのたたずまいをなんとか残そうと法的な規制までしているパリ、あるいは一度瓦礫の山と化した建物や町並みをもとのまま復元したワルシャワとまではいかなくても、狂乱のような列島改造はもう止めて、古いものを残そうという法的な処置を講じるべきではなかろうか。
よく外国人から、日本は伝統的なものと新しいものが共存しているなどと褒められるが、さあどうでしょう? それは京都・奈良などごく一部の特権的な場所に限定されるのではなかろうか。つまりだいぶ前から日本いたるところ薄っぺらなリトル・トウキョウが増殖している。
といって、みんなに語らって古い町並み・家屋を保存しましょう、なんて運動をするエネルギーも時間も残されていない。せめて自分の身の回りのものを補強修繕しながら大切に残すだけ。実は家中の押入れや箪笥の中はばっぱさんが残したままで整理していない。美子をひとり残して外出するのも気になって、買い物以外かつてのように散歩もしなくなってから久しいが、これから少し暖かくなったら、この広い家の中を運動がてら行ったり来たり歩き回ろうか。とりあえずは蔵書の整理をしなけりゃ、もうどこに何があるのかさっぱり分からなくなってきている。
以前も書いたことがあるが、一生独房で生活するのと比べれば、なんと広い空間に恵まれていることか。しかも日本や中国やスペインの書籍に囲まれているんだもの、想像力をちょっと働かせれば世界中を旅することだってできる。例えば生きている間とうとう中南米には行けなくなったが、でも先日などメキシコから久しぶりにダニエルさんが近況伺いの電話をくれたり、先日ボリビアから帰国したシスターMからはケーナのCDをお土産にもらったり、数日前にはブラジルの新聞記者氏が来日前モンテビデオで(どこの首都かご存知?)『原発禍を生きる』のスペイン語版を買って道中読んできたが、ぜひ紙上インタビューを、と言ってきたり(さりげなく自慢話?)。
貞房さんよ、明日から三月だどー、さあしょげてないで元気出せよー!(と、ひとり励ましてます)
澤井さん
こちらからも澤井さんのブログ見てますよ。私の方は五日おきくらいになってしまいましたが、澤井さんは毎日、すごいです。
お守り代わりに、昨朝メールで届いた愛の写真送りました。三本前歯が抜けてるそうですが、上手に隠して美人に撮れました。