病室から(その十一)八月は死者の月

八月十一日(火)雨のち曇り
 家のパソコンからフラッシュ・メモリーで持ってきたデータの一つに「死者たちの記録」がある。まだまだ未完成のもの(もちろん完成するはずもない性質のもの)だが、今の段階で見るかぎり、八月はいちばん死者の数が多い。広島・長埼の原爆投下、終戦、そしてお盆と文字通り死者の月だから当然かも知れないが。八月の項をそのまま写してみる。

3日 島尾マヤ(2000年、享年52歳)
6日 クッキー(2005年、1992年11月3日生まれ)
8日 田代弘伯(1998年)
24日 安藤千秋(1955年、33歳)
25日 堀川 直(1983年、69歳)大正3(1914)年生まれ
28日 菊池重雄(2005年)享年83歳。
31日 三本木源一(2000年、明治41年4月17日生まれ)

 犬のクッキーまで入っているが、死者たちの冒涜にはなるまい。一応紹介させていただくと、マヤさんはご存じと思うので(誰が?)飛ばして、八日の田代弘伯さんは高校時代の恩師である。東北大出の地学の先生だった。卒業年次のクラス担任は鈴木行雄先生だったから(あゝこの先生にはすっかりご無沙汰している。お元気だろうか)、田代先生には一、二年生のときにお世話になったはず。実家は小高の大井で、六号線沿いの高台にある神社がそれで、本職が神主さんだった(と言うべきなのかな)。ともかく本好きの先生で、毎日岩波新書を一冊は読破していたとの噂を聞いたことがある。けっして美男子ではなかったが(もしかしてゴジラのあだ名?)生徒たちには人気の先生だった。卒業後、何度かお家にもお邪魔した。静岡時代だったか、帰省の折りに美子を連れていったこともある。
 安藤千秋、母方の叔父誠一郎の奥さん、つまり叔母である。この叔父の一家とは満州渡航から帰国、そして北海道での終戦後の日々、親戚の中で一番近しい仲であった。作家島尾敏雄の従兄で、本当は彼も文学に進みたかったのだが、長男のため無理やり麻布獣医に進んだ。満州は内蒙古で獣医としての生活を始めて間もなく、あの敗戦。帰国後は上士幌線(今は廃線となってしまった)の奥、萩が丘という駅からさらに奥に入った開拓村で分校の教師をした。そのころのことを『田舎教師の手記(だったか日記だったか)』に残してくれた。叔父・叔母のなかではいちばん気が合った。
 いや今は叔母さんのことだ。叔母さんも教師だった。白いブラウスと黒のスカートがよく似合い、ふくよかな美人だった。沖縄歌手夏川りみ(だった?)をテレビ画面で見るたび、この叔母のことを思い出す。33歳なんてとんでもない若さだ。叔父も叔母も病気に苦しんだこともあって、長男の御史君は北大医学部、そしてスイス留学などを経て整形外科医となったが、現在は大病院を離れて故郷上士幌で「はげあん診療所」を開いている。確か私より四つ若いのにはげているが、それを看板にするところなど、亡き叔父の血を引いている。
 後半は明日に続けよう。

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佐々木 孝 について

佐々木 孝(ささき たかし、1939年8月31日 – 2018年12月20日)は、日本のスペイン思想研究者。北海道帯広市生まれ。2歳から引き揚げまでの5年間を旧満州で暮らす。1961年上智大学外国語学部イスパニア語学科在学中にイエズス会に入会。5年半の修道生活の後、1967年同会を退会、還俗する。同年上智大学文学部哲学科卒業。1971年清泉女子大学講師、助教授を経て、1982年教授となる。1984年常葉学園大学(現・常葉大学)でスペイン語学科の草創に参加。1989年東京純心女子短期大学・東京純心女子大学(現・東京純心大学)教授。その間、講師として専門のスペイン思想、スペイン語を東京外国語大学、駒澤大学、法政大学、早稲田大学など他大学でも教える。2002年、定年を前に退職、病身の妻を伴い福島県原町市(現・南相馬市)に転居。以後16年にわたり、富士貞房(ふじ・ていぼう、fuji-teivo、――スペイン語のfugitivo「逃亡者」にちなむ)の筆名で、専門のスペイン思想研究を通じて確立した人文主義者としての視点から思索をつづったブログ「モノディアロゴス(Monodialogos: ウナムーノの造語で「独対話」の意)」を死の4日前まで書き続けた。担当科目はスペイン思想、人間学、比較文化論、スペイン語など。作家の島尾敏雄は従叔父にあたる。 2018年12月20日、死去(享年79)
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