モノディアロゴスについて

【書評】
 富士貞房 (佐々木孝) 著
『モノディアロゴス 新人間学事始め』行路社刊

立野 正裕


 アランはルーアンのローカルな新聞にコラムを書くのを自己の思想と批評の実践とみなした人だった。政治、経済から教育、宗教、文学、芸術、存在論などにいたる人間生活の万般を主題として健筆をふるった。本書『モノディアロゴス』もまたその血脈に連なる営為の所産であると言っていい。
 the fugitive (逃れ行く者)と自らをみなす現代の思索者が、中央からの視線ではなく、現代日本において沖縄と並び、いわば最も「危機的な地点」である福島に発想の根拠を置き、「魂の重心を低く」保ちつつ、そこから現代のハイテク情報発信手段であるブログを通じて、抽象的な概念やソフィスティケートされた専門用語や術語によらず、あくまで日常語を駆使し、ときに相馬方言すら交えて読者を哄笑させ、足元の日々を凝視すると同時に、日本および世界の動向へと批評的な視野を自由に拡大し続ける柔軟でユニークな、しかも右顧左眄することのない独自の思考のスタイルを確立したのである。
 本書は著者の日録という趣を持つ。だが、こうして一冊にまとめられてみると、たんに日録の一年分をくくったというようなものではないことに気づかされる。日々を貫くのは有機的な全体性を持った粘り強い思考である。そこから結実した本書は一種独特の文学作品であり、一種独特の思索の書であり、一種独特の小説であると言っても過言ではない。
 著者はつい先ごろ『モノディアロゴス』第13巻の刊行を果たしたばかりである。
通算13巻! その旺盛な日々の執筆力と持続する精神とに心から敬服しないわけにはいかない。モンテーニュの『エッセイ』、アランの『語録』、アミエルの日記、森有正の日記、そしてウナムーノのDiario íntimoなどがたちどころに想起されるが、質においてそれらにほとんど比肩し、量においてはすでにそれらを凌駕していると言わなくてはならない。
 なにをきっかけに自分がモノディアロゴスの愛読者となったのか、たんなる偶然だったのか、それともしかるべき経緯があったのか、それははっきりとは覚えていないのだが、とにかく著者「佐々木孝」をウナムーノやオルテガの研究者として、なかんずくウナムーノの代表的な小説『聖マヌエル・ブエノ』の訳者として、その作品を漱石の『こころ』と初めて関連づけながら真剣に考察した人として、自分がながいあいだ印象深く心にとどめてきたことは事実だ。
 それゆえ、『モノディアロゴス』を読んでいると、「野に遺賢なし」の逆で、まさに「野に遺賢あり」と言いたくなってくるのである。
 現に著者の『ドン・キホーテの哲学 ウナムーノの思想と生涯』(講談社現代新書) は年来わたしの愛読書であり、古書店で見つけるたびに購入し、若い意欲的な友人たちにも一読を進めるのを常としてきた。再刊される価値のある本だが、何年も品切れとなっているのは残念でならない。この『モノディアロゴス』第1巻も店頭ではなかなか見かけなくなっている。さいわい続刊は最新刊第13巻にいたるまで著者の手で私家版が作られており、希望者は実費(各巻850円から1000円程度)で送ってもらえる。(アクセスは簡単だ。インターネットで「モノディアロゴス」を検索すればいいだけである。)
 およそ商業主義とは無縁の、独自の地平に耕された思考の軌跡がここにはある!
 

2016年11月7日

*このコメントから数年後、『ドン・キホーテの哲学』は装いも一新して『情熱の哲学』として法政大学出版局より復刊された。


【息子追記】その後、いただいた立野先生のお言葉をご紹介したい(2021年3月5日記)。

きのう、『モノディアロゴス 新・人間学事始め』がアマゾンから拙宅に届けられました。すでに持っているので、若い友人の誰かにおくろうと思い立って注文したのです。ところがページをひらいて目次から項目を拾って読み始めたら止められなくなり、つい赤ペンであちらこちら印まで施してしまいました。 ここから出発された先生のモノディアロゴスの面白さを改めて堪能していますが、わたしにとって重要な示唆を与えられたのは、自分も日常の思索ないし文学の営為をもっと工夫しなければならないという思いにさせられたことです。 以前は読者として読んでいただけでしたが、先生がウナムーノに示唆を受けられたように、わたしもせっかくの示唆を自分の日常に引き継ぐものとしなければ、もったいない話ではないかと気がつきました。やり方や表現は自分に見合う方法があると思いますが、先生のライフワークとも言えるモノディアロゴスにならって、自分の「文学の日常化」を工夫したいものです。反語的に申せば、それが「日常への埋没を非日常化する」努力にほかならないわけです。